連載小説「遥か旅せよ」 最終回『見送りはいらない』(白木 朋子)
隣で雨やどりをしていた男性が軒下から空を伺うように顔を出した。滝のような雨はいつの間にか止んで、埃っぽい川の匂いが漂っていた。男性は脱いだサンダルを建物の脇の茂みに向かって豪快に振り、中の雨水を払った。背が低く、幼さの残る顔立ちではあるけれど、私よりずっと歳を重ねているような、とらえどころのない雰囲気を感じさせた。けれど私の中でひとつ明らかなのは、男性がこの病院のスタッフや学生というわけではなさそうだということだった。それは、男性の着ているのが白衣ではなく、黄色い派手なアロハシャツであるとか、教科書の詰まっていそうなリュックを背負っていないどころか、手ぶらであるとか、そういう理由から来るものではないような気がした。男性は何度か腕を勢いよく振り過ぎて、誤ってサンダルを茂みの中に放り投げては悠然と取りに行き、またそれを振った。
撥水加工のされていたはずの私のスニーカーは完全に浸水し、靴下はぴたりと足に張り付いていた。もう一歩も歩き出したくない気分だった。サンダルを履き直した男性が私の足元を指差して、何かを言った。私は力を入れずに笑って、首を振った。すると男性が、「こっちへよこしな」というように手を差し出してきた。私は驚いて、さっきより強く首を振った。それでも男性は手を引っ込めず、むしろ私に一歩ずつ近づいてきた。私は渋々片方のスニーカーを脱いで、男性に渡した。男性は紐の結び目を指に通してスニーカーを掴み、ソフトボールのピッチャーのような構えで腕をぶんぶんと回しはじめた。スニーカーから振り落とされた雨のしずくが陽の中できらきらと光るのが見えた。やがてふうふう言いながら呼吸を整えて、男性は私にスニーカーを返した。そして、もう片方も渡すよう手で合図をした。
男性の案内で病院の出口はあっさりと見つかった。
門の前でお礼を言おうとすると、男性はそのまま通りへと歩き出した。そして少ししてから振り返り、川の方を指差した。裸足で履くスニーカーはもちろん完全には乾いていなかったけれど、不快だった肌触りはとっくに消えていた。私は男性の後をついて歩いていった。車通りの多い大通りを進んでいると、不意に男性が横道へ曲がっていった。それは川とは反対の方向だった。私は不思議に思いながら、けれど迷いなく男性を追って横道へ入っていった。
その道は屋外市場へとつながっていた。古いトタンを合わせた屋根が並び、市場の中は薄暗かった。迷路のように入り組んだ狭い道の両側に、食料品や衣料品、土産物などの露店がひしめき合い、どこからこんなに、と思うほどの人が行き交っていた。男性はたまに振り返って、私がちゃんとついて来ているか確認しながら歩いているようだった。そして、振り向いて私と目が合うと、近くの店に並ぶあちこちの品物を指差して私に見せた。それは、土産物やで売られる山岳部の民族衣装を私の身体に当ててみたり、女性ものの赤いビーチサンダルをおどけて頭に乗せて店員に冷めた目で見られたり、道に寝転ぶ野犬のお腹をぽんと撫でたり、そんなことだった。揚げ物の串が並ぶ屋台の前を通りかかった時、男性は私にどれか選ぶように目で合図をした。私がその中のひとつを指差すと、男性は同じものを二本店員に注文した。串の正体は魚のすり身とうずら卵だった。どちらも驚くほど熱く、おいしく、そして辛かった。私がむせそうになるのを我慢していると、前を行く男性が激しく咳き込みながら食べているのが見えた。私が思わず笑うと、男性は真っ赤な顔で振り向いて照れたように笑い返した。忙しなく行き交う客や店員たちの声で市場の喧騒が奏でられる中、私たちの間に言葉はひとつもなかった。並んで歩くことも一度もなかった。それは道の狭さのせいではない。一度だけ、男性が「ちょっとここで待ってて」という合図をしてどこかへ行き、二、三分の間、市場の隅に一人で立っていた時を除いて、私はずっと男性の背中だけを見て歩いた。子どもの頃、父に手を引かれて歩いた縁日の夜を私は思い出していた。
私は親に物をねだれない子どもだった。近所の縁日で、父に「何が食べたい」と訊かれても、何も言えず、焼きそばか、綿あめか、りんご飴か、と見えるもの全てを指差す父に、私はただ小さく首を振るだけだった。しまいには父が、もういい、何もいらないなら帰る、と言って神社を後にするのを慌てて追いかけながら、私はどこかでほっとしたような気分だった。そして私が高校生の時、家族で出かけた同じ縁日で、「きんぎょがほしい、しゃてきでぷらもでるをあてるんだ、たこやきにまよねいずをかけてね」と私たちの先頭をはしゃいで歩く、小学校に上がったばかりの泰晴の後を、父は嬉しそうについて行った。生まれてくれてありがとう、君が生まれてきてくれて、私はもう欲しいものを答えなくてよくなった、これから君はいろんなものを手にするだろう、そしてそれよりもっとたくさんのものを手放す時もあるだろう、その時にどうか今日のことを思い出して欲しい、欲しいものを欲しいと言える幸せを、それをあたえてくれる人がいたことを、彼らのよろこびを、君は君の望むまままっすぐに求めていけばいい、それが、君が君を生きていくということなのだから。
市場を抜けて大通りを少し歩くと、行きと同じ船着き場にたどり着いた。市場をぐるりと回って、いつの間にか川の方へ向かっていたことに私はその時初めて気がついた。私は男性にお礼を言って、チケット売り場へ向かった。五分後に到着する便のチケットを買って、空港への道のりと時間を計算しながら橋へ向かうと、乗り場の横に男性が立っていた。そして、ズボンの後ろのポケットからビニール袋を抜き取って私に差し出した。そこには市場で売られていたあの赤いビーチサンダルが入っていた。私が驚いて顔を上げると、男性は笑って、得意げに頷いた。私は片足ずつスニーカーを脱いでビニール袋に入れ、ビーチサンダルに履き替えた。その間、男性は私の肩につくかつかないかの距離で軽く手を添えていた。
到着を知らせるベルが鳴って、私は船に乗り込んだ。一番後ろの空いているベンチに座り、乗り場の方へ振り返った。男性はまだそこにいた。手も振らず、ただそこに立って私を見ていた。出発のアナウンスが流れて、私は前へ向き直った。そしてそのまま一度も振り返らなかった。ビーチサンダルは私の足のサイズにぴたりと合っていた。
ヤスハル:やべー
ヤスハル:ねすごした
ヤスハル:でんしゃでねんのきもちいー
船内にメッセージの受信音が続けて鳴り響いて、私は目を覚ました。周りの乗客がぞろぞろと船を降りていた。私は慌てて駅名を確かめて、すぐに船から飛び降りた。
はるか:ねえ、ちょっと
はるか:怖いんだけど
ヤスハル:なにが
はるか:まあいいや
はるか:ありがとう。助かった
ヤスハル:なにが
はるか:今どこ?
ヤスハル:しらん
はるか:看板を見ましょう
ヤスハル:よめん
はるか:あんたさ
はるか:今年こそちゃんと卒業しなよ
ヤスハル:びっくにゅうす
ヤスハル:もうきまった
はるか:ほんと?
はるか:よかったじゃん
はるか:おめでとう
ヤスハル:もういちねん
ヤスハル:がんばりまぁす
帰りの機内で、私は映画も観ず、食事も取らずに眠り続けた。途中、夕食の時間に強烈な出汁の匂いがして目を覚ますと、隣の白人夫婦がものめずらしそうにフォークで日本蕎麦を巻き取っていた。彼らは何かを相談して、美しく巻いた蕎麦につゆをかけて食べていた。通路を挟んだ隣の席では、背広を着た中年男性がこの世で最もおいしいものを食べるように、玉子焼きを丁寧に半分に割って頬張っているのが見えた。この飛行機の行き先は誰かのまだ見ぬ土地であり、また誰かの帰る場所でもあった。けれど私の欲しているものはあいにく蕎麦や玉子焼きではなかった。私はビーチサンダルを揃えて脱ぎ、毛布を肩まで掛けて再び眠りについた。
私はそれを、自分から「食べたい」「作って」と言ったことは一度もない。けれど、それは例えば遠足や運動会のお弁当、例えば誕生日、縁日の夜、修学旅行から帰った日に、千切りされたキャベツとともに必ず私の前に整列した。明日、私はこの世で一番好きなものを食べにいく。そしてそれはこの世で最もおいしいものと言えるかもしれない。
(終わり)
*しらき ともこ
東京都在住。近所にツバメが飛びはじめました。時々変な声で鳴いています。
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