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#132【連載小説】Forget me Blue【試し読み53万文字】

【会社員×両性具有の管理人】寂れた商店街の一角にある駐車場の管理人であるイチは、ある日訪れた時間貸しの客、佐村さむらと出会いすぐに惹かれていく。しかしどこか陰のある彼には悲しい過去があって——。

 明くる日、イチは妊娠十三週になった。昨夜佐村に指摘されたように、腹の膨らみは少し分かるようになってきた。マタニティペイントをするのは嫌だが、こっそり写真を撮っていた——鏡に映っているのを、前向きと横向きから撮影した。
「しかし、やっぱ太ってるようにしか見えん……」
 いや、実際周りには太ったと言われたし、体重計に乗ってみたら思ったより重くなっていた。だから間違っている訳ではないのだけれど、男に見える外見だし、腹が膨らんでいるのは太っているからだと思われそうだ。
「まあ良いか……」
 小さなため息を吐いてそう言うと、あまり気にしないことにした。どう見ても妊婦にしか見えないくらい腹が大きくなるまでは我慢するしかない。けれどもそうなったら、今度は「男みたいな妊婦」、もしくは「妊婦みたいな男」として好奇の目で見られるかもしれない——今のうちから、周囲の視線を気にしないようにする訓練をした方が良いだろう。
 昨日の嵐は嘘のように晴れていたが、湿度は高くししていた。まだ十時前だが既に三十度を超えていて、駐車場の隅に溜まった落ち葉やゴミを掃き掃除したら汗びっしょりになりそうである。それでも午前中のうちに済ませておくのに越したことはないので、イチはフェイスタオルを首に掛けると外へ出た。
 ほうきちりとりは、佐村が愛用していたパイプ椅子などと一緒に玄関横の物置に仕舞しまってある。ガラガラと引き戸を開けると、一番手前に置いてあるほうきを手に取った。そしてふと端に立て掛けてあるパイプ椅子を見て、佐村がこれに座らなくなって結構経つな、と思った。今は座るならリビングのダイニングチェアだし、そもそも料理をしたり他の家事をしたり、平日の夜も休日も忙しく立ち働いているから、前みたいに何時間もイチと話をしていることは滅多にない——あれはあれでえのない時間だったのだな、と思うと切なくなって、ちりとりを取ると急いで戸を閉めた。
あちい……」
 昨日予想した通り、駐車場の隅には小さなゴミの山が出来ていて、それらを掃きはじめるとすぐにひたいから汗が噴き出してきた。首に掛けているタオルで何度ぬぐっても流れ落ちてきて、時時ときどき目に入って染みるから辟易へきえきした。
 結局、全て掃き集めたら四十五リットルのゴミ袋がいっぱいになった。腕時計を確認すると一時間近く経っていて、やれやれとため息を吐いて涼しい受付に戻ろうとした。
 そうして一歩踏み出した時、目の前の風景がぐにゃりと歪んで、同時にキーンと耳鳴りがした。これはまずい、と思ったが金縛かなしばりに遭ったように体が動かなくて、駐車場のコンクリートの上にばったり倒れた……。

「ジジジ、ジジーッ」
 耳元でけたたましい音がして、イチはうっすら目を開けた。見ると目と鼻の先にアブラゼミがひっくり返っていて、六本足を動かしもがいていた。
「ジジジ、ジジジジジーッ」
「ひぇっ」
 再びうるさく鳴いた蝉が回転しながら寄って来たので、イチは悲鳴を上げると慌てて体を起こした。そしてふと横たわっていたコンクリートを見ると、赤い血がついていたから「げっ」と声を上げた。おそおそひたいを触ったら、ぬるっとした感触があり怪我をしているのが分かった。
「ていうか聡一、大丈夫か?」
 聡一のことを思い出して下腹部に手をやったが、特に変わりはないようだったし痛みもない。性器からの出血も無いし多分大丈夫だ。
 どのくらいの間倒れていたのか分からないが、最後に時計を見た時から三十分経っていた。熱中症になったのは初めてだが、とにかく水分を補給して体を冷やさなければならない。
 また倒れてしまわないようゆっくり立ち上がると、くらっとしたので壁伝いに歩いて玄関のドアを開けた。
「じ、じいちゃーん……」
 出来るだけ大きな声を出して二階の祖父を呼んだが、テレビの音にかき消されて聞こえていないようだ。仕方ないのでよろよろと階段まで行き、手摺てすりにしがみ付きながら上る。そうしてようやくリビングまで辿たどくと、気配に気付いて振り返った祖父がぎょっとして叫んだ。
「いっちゃん!? 大丈夫か、おでこから血が!」
「ちょっと気絶してて……」
「気絶!? 救急車呼ぶかい!? 赤ちゃんは……」
「多分大丈夫……」
 大慌ての祖父にそう答えてダイニングチェアに掛けると、大急ぎで冷凍庫からネッククーラーを取り出して首に掛けてくれた。
「ありがと……」
「脇と脚の付け根も冷やさないとな。待ってろよ、今ビニル袋に氷入れて……」
 そう言って製氷器から氷を取り出している祖父に、イチは「とりあえず、なんか飲ませて……」と力無く頼んだ……。

 イチはもしものときのために常備してあった経口補水液を飲んでソファに横になっていた。いつの間にかうとうとしていて、祖父が誰かと電話で話しているな、と思ったけれど、相手を確認する前に眠ってしまった。
「イチ!」
 佐村の声がして目を開けたら、目の前に顔があったのでびくっとする。すると彼は安心したような表情になったが、すぐに眉を寄せて「倒れたんだって!?」と聞いた。
「うん……」
「病院行こう。いつき先生にはもう電話してあるから。今から来てって」
「えっ」
 驚いているのには構わずにイチの手を引いた佐村は、背中を支えて「ゆっくりね」と注意して起き上がるのを手伝ってくれた。いつもながらその手際の良さには驚く。
「なんかごめん……」
「ううん。それより歩ける? おんぶしようか」
「いや、大丈夫……」
「いっちゃん、階段気をつけてな!」
 心配顔の祖父がそう声を掛けた。それに彼が佐村を呼んでくれたのだな、と理解する。イチに病院へ行くように言うより、佐村を呼んだ方が手っ取り早いと思ったのだろう——英断えいだんである。
「一段ずつ、慌てないでゆっくり下りてね」
 先に階段を下りながら佐村がそう言って、イチは一段一段踏み締めるように下りた。そして一番下まで下りた時、佐村が今更気付いたように「おでこも手当てしてもらわないとね」と言ったので、怪我していたのを思い出した。その途端ズキズキ痛み始めたから、体って現金だよな、と思う。
「それじゃ、行ってきます、お祖父様!」
「佐村さんも運転、気をつけてな! 落ち着いて……」
 ミニバンにイチを乗せた佐村は、外まで見送りに出て来た祖父に声を掛けると車を発進させた。
「気持ち悪かったら言ってね。なるべく揺らさないようにするけど……」
「うん……」
 そう言われてイチは小さな声で応えた。目覚めてすぐはそうでもなかったのだけれど、少し前から頭痛がしていたし、吐き気もあった……何より気がかりだったのは腹の違和感で、ルティン嚢胞のうほうとは違った押されるような痛みがわずかにあった。佐村に言わなければならないが、もし流産してしまったら、と思うと泣きそうになってしばらく言葉が出てこなかった。
 病院まで後五分くらいになってようやく症状を伝えると、佐村は顔面がんめん蒼白そうはくになったが冷静な口調で「ちゃんと全部先生に言おう」と言って、後は黙って運転した……。

「ほんの少し、子宮内に出血がありますね……切迫流産一歩手前かな……」
「切迫流産!?」
 エコー画面を見ながら斎がそう言って、イチが何か言うよりも早く身を乗り出した佐村が叫んだ。それに斎は「まあまあ旦那さん、落ち着いて」となだめて続ける。
「出血があっても、ただちに流産するというわけではないです。今回はおでこから倒れたのも良かった」
「でも、赤ちゃんは危ないんですよね……?」
「今は様子見ですね。止血の注射を打ちますから、とにかく安静にしましょう……きっと赤ちゃんも、ママと一緒に頑張ってくれますよ」
 絶対に大丈夫なんてことは言えないと分かっていても、斎の返事を聞いて、イチは泣き出しそうになった。

 それから処置を終え診察室を出ると、会計を待つ間待合室の椅子に腰を下ろした。もう腹の痛みは治まっていたが、まだ混乱していて考えがまとまらなかった。隣に掛けた佐村はぎゅっと手を握ってくれたが、診察室から出て来た看護師が「すみません、手術について先生からお話が……」と言ったので、二人でまた診察室に入った。
 もちろん話というのは予定していた腹腔ふくくうきょう手術しゅじゅつのことで、ちょうど明日説明を受けに市民病院へ行く予定だった。しかし、当然こんな状態で手術を行うことは出来ない。そして腹腔ふくくうきょう手術しゅじゅつは妊婦の場合、通常は妊娠十六週まで、最長でも十八週までに行う——術前検査も行うから元元もともとぎりぎりのスケジュールだったのだ。そのため明日の説明は予定通り受けに行くことになった。後はイチの体調次第である……。

 帰り道、ハンドルを握った佐村が「あっ」と声を上げたので、何事かと顔を見た。
「今日、美容院予約してたのキャンセルしなきゃ」
「え……」
 そういえば、佐村は仕事を終えた後、髪を切りに行くと言っていたのだった。この前もムラケンが来てキャンセルしたのに、と思ってイチは言う。
「行って来なよ。俺、もう帰って寝るだけだし……」
「でも……」
「職場戻るでしょ? ちょっと遅くなっても変わんないし……」
「分かった……」
 そう言ったら佐村はしょんぼりしたが、身嗜みだしなみは営業の仕事のうちである。もちろん本当はそばに居て欲しかったが、小さな子どもじゃないんだから、と我慢する。
 家に帰るまで、二人とも聡一の話はしなかった。暑い中掃き掃除して熱中症になるなんて、不注意だったとしか言いようがないから、むしろ佐村が責めてくれた方が良いのに、とイチは思った。けれども彼は優しい声で「そういや晩ごはん、何食べたい?」と聞いたので、うつむいたまま「カレー」と答えた……。

 それから駐車場に戻り、受付は祖父に交代して貰ってイチはリビングのソファで横になった。佐村の部屋に戻っても良かったが、一人で居るのは不安だったからだ。佐村もそうした方が良いと言ってくれて、祖父に「よろしくお願いします」と頭を下げると製作所へ戻った。
 明日の手術の説明には一も付き添ってくれる予定だし、ラ◯ンメッセージで熱中症になったことと、転倒して切迫流産気味になったことを伝えた。いつもスマホを見るのは夕方の六時以降だが、驚いて今日は早く帰ってくるかもしれないな、と思った。例によって心配して大騒ぎしそうなので、ちょっぴり憂鬱である。
 テレビを観る気にもならなかったから、祖父愛用のクッションを抱き締めてどうにか眠ろうとした。ケージの中に居るペー太が呑気のんきに「クチュクチュペー」と鳴いてまぎれるのが有り難かった。

 夕方の五時半過ぎ、スマホの通知音が鳴ってイチは目覚めた。顔の横に置いてあったスマホはいつの間にかソファの下に落ちていて、「うーん……」とうなりながら拾い上げる。見ると、佐村からのラ◯ンメッセージだった。
『今から部屋で着替えて、美容院行ってくるね! 帰りに買い物もしてくる』
『りょ。気をつけて』
 それだけを返信すると、イチは画面を見たままため息を吐いた。……こんな風に、普段通りに接してくれるのは本当に有り難い。けれども本当は佐村も不安なのだろうな、と思ったら憂鬱だった。
 次の瞬間、スマホが電話を着信したのでイチはびくっとした。掛けてきたのは一である。
「もしも……」
『いっちゃああん!!』
「いっちゃああんって!」
 いきなり涙声で叫ばれて、思わず突っ込んだら鼻をすする音まで聞こえてきたので呆れる。
『せせせ、切迫流産って!!』
「大丈夫、まだ気味﹅﹅だし、すぐに流産するわけじゃないから……」
『それに熱中症! どーして外のお掃除なんか〜!!』
「ごめん……めっちゃゴミあったからやらんとと思って」
『そんなのパパがするのにー! お外に出ちゃダメだからね! もう!』
「あ、はい……」
 仕方なく頷いたら、一は急いで帰ると言って電話を切った。かなり取り乱していたから、どこで電話していたのだろうと気になった——誰かに見られていたら恥ずかしい。
 けれどもひどく心配させてしまったのは申し訳なくて、一つため息を吐くと用足しに立ち上がった……。

 七時前に一が帰宅して、思った通りに大騒ぎした後十分くらいして、佐村も帰ってきた。
「ただいまー。イチ、具合はどう?」
「おかえり。お陰様でずいぶん……」
「佐村さああん!!」
 スーパーのレジ袋を手にリビングへ上がって来た佐村と話しはじめたのをさえぎって、イチの隣に座っていた一が叫んだのでびくっとする。
「はい、なんでしょ……」
「もう絶対、いっちゃん外に出さないでね、絶対!」
「ええ、監禁かい……」
 心配するのは分かるが、全然外に出してくれないのはどうかと思って突っ込んだら、佐村が深刻な表情で頷いたのでぎょっとする。
「もちろんです。これから二週間は病院に行く以外、一歩も外に出さないつもり……」
「ええ、マジ……?」
 まさか一と同意見だとは思わなかったので驚いたが、それも仕方がないのかな、と思ってイチはしょんぼり腹をでた……。

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