見出し画像

【ショートショート】新宿の海底

 階段を下っていって、青暗いホールに出たとき、亜子は「海底みたい」と思った。
 ネオンや間接照明が賑々しくも、薄暗い場所を作り出している。
 亜子は一見の客だった。
 初回5000円ぽっきりという看板に惹かれて、ホストクラブの初体験にやってきたのである。
 自分とたいして歳の違わない若い男たちがあたりを遊泳している。
 小さなテーブルに案内された。
 個室っぽいつくり。
 一緒に入ってきた男は、
「優斗です」
 と名乗り、水割りを作ってくれた。
「ありがと」
「ホストクラブははじめて?」
「はじめてよ。初回特典が5000円ってちっとも安くないわね」
 と亜子は言った。優斗は苦笑した。
「これでもずいぶん安いんだけどなあ。オレ、この店のナンバーワンなの」
「ふーん」
 亜子は優斗の顔をしげしげと眺めた。たしかに整っている。髪の毛も最新流行なのだろう。しかし、残念なことに、亜子はそういうことにほとんど興味がなかった。
 優斗も、亜子が太い客ではないことを一目で見破っていた。
 ふたりともテンションが低い。
「ここはお酒を飲む以外、なにか面白いことってないの?」
「面白いこと!」
 優斗はびっくりして言った。みんな、俺たちの関心を引こうとして必死だもんなあ。面白さを要求してきた女なんて、こいつが初めてだな。どうやって対処しよう。
「びっくりするようなこと?」
 と言って、亜子はあくびした。
 フロアを舞っているのは人魚のように美しい男たちだが、よく見ると、やはり人間は人間だ。
 亜子には海底の魔法が通用しないようだった。
「ウィスキー、キープする?」
 と優斗が聞いてきた。
「なんで」
「俺への応援」
「悪いけど、あなたを応援する気はないわ」
 亜子は会計を済ませると、階段を上がった。
 深海から海面へ浮かび上がってきたような開放感が亜子の身を包んだ。
 彼女は深呼吸をひとつすると、歌舞伎町という海から脱出した。
 冒険譚というには、あまりにもささやかな一夜だった。

(了)

目次

ここから先は

0字
このマガジンに含まれているショートショートは無料で読めます。

朗読用ショートショート

¥500 / 月 初月無料

平日にショートショートを1編ずつ追加していきます。無料です。ご支援いただける場合はご購読いただけると励みになります。 朗読会や音声配信サー…

この記事が参加している募集

眠れない夜に

新作旧作まとめて、毎日1編ずつ「朗読用ショートショート」マガジンに追加しています。朗読に使いたい方、どうぞよろしくお願いします。