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【ショートショート】定年

 定年を迎えた。仕事がなくなっちまった。会社を辞めると、やることがなくなり、人付き合いも消滅するというのは、あれは本当のことだったのだ。
「好きなことをすればいいじゃない。今まで仕事仕事でなにもできなかったんだからさ」
 と妻はいう。
「好きなこと」
 オレは呆然とする。オレの好きなことってなんだ?
 元いた会社に行ってみる。元部下たちは愛想良く迎えてくれ、OB用の部屋に案内してくれるが、することはなにもない。仏頂面の爺さんたちと顔を合わせていてもなにも面白いことはない。そういえば、オレも現役時代は退職した爺さんがやってきてずいぶん迷惑したもんだよなあ。
 さて、本格的に会社と縁を切ってみると、ほんとにすることがなにもない。
「温泉でも行ってきたら? 一人旅してみたいって口癖だったじゃないの」
 頭の上にタオルを乗せてオレは考える。会社をやめてこういうことをしたかったのか。いやいや、違う。断じて違う。
 ひとりで温泉に浸かっていると、寂しさが増すばかりだ。
 なんだか家族からも疎まれている気がする。ずっと家にいるなというのだ。老け込むぞと脅される。
 ある日、街をうろうろして、まるで浮浪者だななどと思っていると、目に「仕事屋」の看板が飛び込んできた。オレはつよく惹きつけられた。
 宝くじ売り場のようなボックスで、仕事の前売り券を販売しているのだ。仕事はその日にならないとなにがくるかわからないという。しかも、けっこう値段が高い。1日5000円もする。もらうのではなく、こちらが払うのだ。お金を払って仕事をさせていただく。
 しかし、それがなんだというのだ。
 オレがしたいのは仕事だったのだ。そうなのだ。
 朝起きて、Googleカレンダーをみる。
 オレは踊り上がる。
「仕事だ。今日は仕事があるぞ」
 行ってみると、小さな印刷会社だった。製本したての本をカートに乗せて、倉庫に運び込む仕事。だが、仕事の種類なんか、なんでもよろしい。いまどき紙の本なんて読むやついるんだなとチラッと思ったが、それもどうでもよろしい。大事なのは、いま、仕事をしているということなのだ。オレは恍惚とした。
 一日働いて帰るとぐっすり眠れる。
 妻は呆れた目でオレをみている。
「そんなことにお金使うなら、おいしいものでも食べたらいいじゃない?」
 というが、どんな高級食材よりも、おれには仕事のほうが美味なのだ。
 今日も「仕事屋」に行く。世に仕事中毒者は多い。近頃では、なかなか前売り券が手に入らない。仕事チケットの転売屋なども出てきているが、オレはまだそこまでは手を出していない。暇さえあれば、仕事屋に出かけ、行列に並んでいる。そして、たまの恍惚を味わうのだ。

(了)

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