<短編小説>ご主人様と僕

(60日目)
 体を丸くして毛布にくるまっている僕は、勢いよく顔を上げた。この足音は、ご主人様だ。独りぼっちで寂しかったから、早く扉が開かないか待ちどおしい。ご主人様が帰ってきた事が分かった途端、お腹が空いていた事を思い出した。そう言えば、トイレもずっとしていなかった。でも、そんな事はどうでも良いのだ。僕は四方を囲まれた檻に体当たりする勢いで、早くご主人様に触れたくて、じっとしていられない。
 ぶつかった衝撃で、檻はギシギシと音を立てている。四方に区切られた狭い空間、僕は縄張り内を駆け回る。すると、正面に見える扉が、静かに開き、暗い部屋の中に一筋の光が差し込んだ。足音で分かる。開いた扉から微かに漏れるご主人様の匂いで分かる。
「お帰り! ご主人様! 今日も僕は、良い子でおとなしく待っていたよ! 褒めて褒めて!」
 僕は、喉がちぎれそうな程、大声を上げた。
「ただいまあ! はいはい、あんまり吠えないの。寂しかった?」
「寂しかった! 寂しかったよ!」
 嬉しくて嬉しくて、堪らない。檻の前までやってきたご主人様は、隙間に華奢な手を差し入れて、僕の頭を優しく撫でてくれる。ご主人様の手には、僕専用のお皿があって、良い匂いが漂ってくる。美味しいご飯の匂いとご主人様の匂いが混ざって、これ以上ない幸福な匂いが充満している。
「はい、お座り」
 俊敏な動きで、僕は腰を下ろした。ご主人様を見ると、嬉しそうに微笑んでくれた。
「お手」
 ご主人様が差し出した右手に、僕はポンと手を置いた。
「良い子ねーー!」
 また僕の頭を撫でてくれた。ご主人様は、檻の小さな扉を開いて、僕専用のお皿を中に入れてくれた。僕が勢いよく顔を接近させると、「待て」と言われ、瞬間的に体の動きを止める。僕はお皿とご主人様の顔を交互に見ている。ああ、ダメだ。涎が垂れてしまう。僕は舌なめずりをした。「よし」というご主人様の明るい声が、まるで開始の合図かのように、僕はスタートダッシュを決めた。ガツガツと食事を体内にかき込んでいく。
 ご主人様は、しゃがんだ状態のまま僕の様子を見ている。嬉しそうに、口角をキュッと上げていた。あっという間にご飯を平らげた僕は、名残惜しそうにお皿を舐める。
「ちゃんと、綺麗に食べたよ! 偉い?」
 僕は、褒めて欲しくて、ご主人様を見る。ご主人様は、僕の頭を撫でてくれる。
 これ以上の幸せはないよ。ずっと、一緒にいられたら良いのに。
 ずっと、触れられていたいけど、満腹感と安心感で、もよおしてきた。僕は、苦渋の選択で、自発的にご主人様の手から離れた。テリトリー内の隅っこに設置してある僕専用のトイレへと向かう。こればかりは、生理現象だから、仕方がない。用を足して、急いでご主人様の元へと戻る。
「トイレもちゃんとできたね! ナツは偉いね!」
 ご主人様は、両手で僕の顔をこねくり回した。僕はこれが、気持ちよくて大好きだ。
ナツは、僕の名前だ。ご主人様が、そう呼んでくれる。ご主人様の口から出た、ご主人様の声が、僕の名前を呼び、僕の耳に入ってくる。全身を撫でられたような高揚感が、全身を駆け巡る。
 もうどこにも行かないでよ。ずっと、僕の傍にいてよ。ご主人様―――


(30日目)
 体を丸くして毛布にくるまっている僕は、緩慢な動きで顔を上げた。この足音は、きっと彼女だ。ここに来て・・・どれほどの時間が経ったのだろう。彼女が信頼に足る存在かどうかなど、あまり考えられなくなってきた。頭に靄がかかったように、はっきりとしない。もう、抗う気力も体力もない。事実、彼女が提供してくれる食料と水がなければ、僕は生きて行く事すらできないのだ。
 どうやって、ここに来たんだっけ? どうして、ここに来たんだっけ? 
 どうして、僕は彼女に世話になっているのだろうか? 何も考えられない。
 ただ、腹が減って、喉が渇いた。
 彼女が床を踏む音が大きくなってくる。僕は虚ろな目で、前方の扉に視線を向けた。あの、扉の向こう側に彼女が立っている気配がする。僕は毛布を頭まで被り、視線を送る。扉は音も立てず、静かに開いていく。まるで、こちらの様子を窺うように、遠慮がちに扉は開かれた。
 薄暗い部屋の中で、僕と彼女の視線が合わさった。そんな気がした。彼女の笑みは、あまり自然ではないような気がする。努めて笑みを振りまいているようだ。
僕がそうさせて、しまっているのだろうか? 僕があまりにも頑なで、意固地になっているだけなのだろうか。彼女は献身的に、僕の食事や排泄物の世話をしてくれている。
 彼女は、信用に足る存在なのだろうか?
 疑心暗鬼は尽きないけど、それでも僕は恐る恐る彼女が提供してくれる食事を取る。自分でも日に日に衰弱していくのが、手に取るように分かる。それはそうだ。僕自身の体なのだから。
 彼女が提供してくれる食事は、水分が多いのか、柔らかいものばかりだ。僕の体の事を考えてくれているようだ。そんな彼女をいつまでも穿った目で見ていても良いものか。
「はい、ご飯だよ」
彼女は、僕専用のお皿と言っていた容器から、食事を手でひとすくいして、僕の鼻先へと伸ばした。僕は一度、身を引いて、彼女の手から顔へと視線を移動させた。そして、ゆっくりと、彼女の手に顔を接近させた。彼女の指先に鼻をつけて、匂いを確認する。鼻腔が美味しそうな匂いで充満し、胃袋を刺激した。胃袋がねじられたように、ギュルルルルと音を絞り出した。
 僕は、堰を切ったように、歯をむき出しにして、彼女の手にある食事を貪った。彼女の手は一瞬で空になり、僕の唾液で光っている。僕は唾を飲んで、お代わりをせがんだ。彼女は、僕の想いを受け取ったように、次々と食事を手に取り差し出してくれた。すると、彼女から鼻を啜る音が聞こえてきた。泣いているようだ。僕が遠慮なく食事を頂いた事が嬉しかったのだろうか。
「そんなに慌てなくても良いよ。ゆっくり食べなさいね」
 優しい声が頭上から降ってきた。しかし、僕の食事を取る勢いは止まらない。今まで、警戒心に支配されて、まともに食事を取れていなかったからだ。当然、むせ返ってしまう。彼女は、笑いながら、呆れたような表情を浮かべて、水を与えてくれた。
「まずは、食事をしっかり取って、元気にならなくちゃね。躾はそれからにしましょ。まずは、お座りを覚えなくちゃね」
 水をがぶ飲みしている僕の頭が、急に温かくなった。動きを止めて顔を上げると、檻の隙間から、彼女の華奢な手が伸び、僕の頭に触れている。あまりにも突然、無警戒になった僕に驚いた。今までは、触れられる事をあんなにも拒んでいたのに。
「ナツ。ここが君のお家だよ」
「・・・うん」
 僕は小さく返事をすると、彼女は嬉しそうに目元を拭った。

(10日目)
 体を丸くして、毛布にくるまっている僕は、チラリと視線を向けた。視線の先には、ぼやけて二重に見える扉がある。足音が聞こえた気がするが、頭を起こすのも億劫だ。きっと、あの女が、うすら寒い笑みを浮かべて、部屋に入ってくるのだろう。
 僕は気怠い体をゴロンと転がして、扉に背を向けた。食事と水分を断っているせいか、頭は霞がかかったようだが、神経は研ぎ澄まされていくのを感じる。扉の向こう側で、あの女が、こちらの様子を窺うように、聞き耳を立てているような気がする。興奮したような息遣いが聞こえる気がする。僕は、意識的に、呼吸音を消す。流石に息を止める余裕はない。乾いた上下の唇が、張り付いている。
 扉が意識的に、ゆっくりと開けられている。背後から聞こえる音が、とてつもなく不快に感じた。
―――あの女は、嘘くさい笑顔の仮面の裏で、僕を支配する算段を企てている。
 女の足が床を擦る音が響く。背筋がゾワリと逆立つのが分かった。背後から漂う食事の匂いが、胃袋を刺激する。腹が無遠慮に音を立てた。
「ね? お腹空いてるんでしょ? いい加減、ご飯を食べなさい」
 溜め息交じりで、弱々しい声が響く。
「ねえ、お願いだから、ご飯食べてよ。こんなに痩せちゃって」
 毛布の隙間から、女の手が侵入し、僕の体に触れた。僕は過剰に反応し、投げ飛ばされたように、逃げ出した。体が檻と衝突し、激しい音を立てた。しばらく経っても、檻がビリビリと小さな振動音を漏らしている。僕は女とは反対側の檻の端で、檻に背を預けるようにして、女を睨みつけた。
―――この女を信用する訳には、いかない。
 女は苛立ちが微かに漏れた吐息を漏らす。その後、己を落ち着かせるように、大きく深呼吸をした。
「毒なんか入ってないから、ね? ご飯食べて」
 女は、僕専用だと言っていたお皿に指を突っ込んで、指を咥えた。『ね? 大丈夫でしょ?』と言うように、眉を上げ、口角を上げる。女の所作を眺めていると、自然と唾液が溢れてきた。カラカラに乾いた口内が、少し潤った。溜まった唾液を飲み込む。無意識の内に、呼吸が荒々しくなっている事に気が付いた。
「食べないと死んじゃうでしょ!?」
 先ほどまで、冷静な装いをしていた女が、突然癇癪を起したように怒声を上げた。僕は、心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。慌てて、毛布の中へと潜り込んだ。全身がブルブルと震えている。まるで、痙攣を起こしたように、極寒の中に素っ裸で放り込まれたように。
―――ようやく、本性を現したな! 騙されるもんか! 騙されるもんか!
 懸命に、自分自身を奮い立たせて、あの女に、そして本能に抗っている。
あんな女に支配されるくらいなら、死んだ方がマシだ。気持ちを強く持つんだ。僕は僕自身に言い聞かせる。右腕を噛んで、必死に抵抗して見せる。しかし、気持ちとは裏腹に、腹が激しい音を立てる。意識とは別に、体は食料を水を欲しているようだ。
「ごめんね。お願いだから、ご飯食べて。せめて、水だけでも飲んで」
 女は、参っているような憐みを誘う声を上げる。参っているのは、こっちの方だ。
「煩い! 煩い! 僕をここから出せ! お前なんかの言いなりになってたまるか!」
 僕は、なけなしの力を振り絞って、怒鳴った。空っぽの腹に力が入らず、思っていたほどの圧力が出ない。僕は、残り少ない理性で、ギリギリのところで懸命に抗う。女を睨みつけて、必死で抵抗する。女は、皿を床に置き、両手で耳をふさいでいた。
「もう! 分かったから、キャンキャン吠えないでよ!」
 鼻を啜った女は、床に置いた皿を檻の小さな扉から中へと入れた。目元を手で擦った女は、項垂れながらも、ようやくといった感じに、小さく笑みを浮かべた。
「ご飯置いておくね。本当に死んじゃうから、次は無理やりにでも食べさせるからね」
 立ち上がった女は、しばらく僕を見下した後、ゆっくり部屋を出て行った。
 いい香りが、鼻先をくすぐる。涎がとめどなく溢れてくる。もう限界だ。
 そう、思った。

(1日目)
 僕が目を覚ますと、見たこともない知らない場所にいた。慌てて体を起こすと、頭痛が走り、頭を抱えて丸くなった。痛みが薄れると、顔だけを動かし、周囲の様子を伺った。どこかの部屋のようだ。そして、僕はその部屋の一角に設置されている檻の中にいる。四方と天井が鉄の柵で囲まれた檻だ。鉄に触れてみると、ひんやりと冷たかった。
 どうして、僕はこんな所にいるんだ?
 何も思い出せない。混乱した頭で考えても、何も答えは降ってこなかった。パニックを起こすギリギリにいる事は分かる。深呼吸を繰り返し、なんとか冷静を保っている。すると、目の前にある扉が静かに開いていく。僕は、反射的に身構えた。目を凝らして、扉を見つめている。
 扉の隙間から黒い顔が覗き、部屋の中の様子を探っているようだ。逆光になって、顔が確認できない。扉を全開にし、人が歩み寄ってくる。僕は警戒心を強め、檻の端へと後退った。
「あ! 目を覚ましたんですね? 良かったーもう丸一日も眠ったままだったんですよ!」
 無邪気な声を上げている人物は、声から女性であることだけは、理解できた。女は頭上へ手を伸ばし、垂れた紐を引っ張った。チカチカと小さな音を立てて、電球に明かりが灯る。僕は突然浴びた光に目がくらみ、目元を押さえて座り込んだ。
「だ、誰だ?」
「もーやだ、先輩ったら、前くらい隠して下さいよ」
 笑いを含んだ女性の声に、脊髄反射で顎を引くと、僕は全裸でいる事に気が付いた。僕は慌てて、床の毛布を拾い上げ、下半身にあてがった。目のくらみが落ち着き、人物の顔を凝視する。
「あ! 君は、確か・・・総務部の花村さん?」
「あー覚えててくれたんですねー! 嬉しいなあ! 愛を感じちゃう!」
 彼女は、嬉しそうに、明るい声を上げる。
「こ、これは、どういう事なんだ?」
「もう、大変だったんですよ! 酔いつぶれちゃった先輩をここまで運んでくるの」
 酔いつぶれた? 僕が? 何も思い出せない。まだ現状を把握できない。
「まあ、お酒の中にちょこっとだけ、薬を入れたんですけどね。効果てきめんですね! ビックリしちゃった!」
 親指と人差し指の間に微かに隙間をあけて、彼女は微笑んだ。薬って・・・僕は背筋に悪寒が走り、息を飲んだ。
「君がどうして、そんな事を?」
「えー? だってー私、夏樹先輩に告白したじゃないですかあ?」
「それなら、断ったじゃないか。僕には、彼女がいるからって」
「だから、悪い女に騙されてる夏樹先輩を助けて上げようと思って。洗脳って怖いですよね? でも、安心して下さい! 私が、守ってあげますからね」
 彼女の言っている意味が、まるで理解できない。僕は恋人と上手くやっているし、そもそも花村さんとプライベートな話をした事は一度もない。確か、昨日は、会社の飲み会があって、それから・・・少しずつ記憶が戻ってきた。
「ちょっと待って! 別に騙されていないし、君可笑しいんじゃないか? 確かに告白されたけど、そもそも僕とはあまり接点ないだろ? これは、明らかな犯罪だぞ!」
「もう、キャンキャン吠えないで下さいよ! 可笑しいのは、先輩の方です。先輩が、悪い女に騙されてるって警察に言ったんですよ! でも、警察が取り合ってくれないから、私が先輩を守るしかないじゃないですか? いつも優しい笑顔で挨拶してくれる先輩を守らなきゃ! 新入社員の時、私が困っていた時に、助けてくれた先輩を救いたいだけです。先輩の愛情は、しっかり受け止めましたから。だから、もう安心して下さいね。あの悪い女もここまでは、追ってこないでしょうから」
 つらつらと意味不明な事を並べる彼女に、僕は開いた口が塞がらなかった。少し冷静さを取り戻しつつあった思考回路が、複雑に絡まっていく。
「でも、洗脳を解くのって、時間がかかりそうですね。きっと、一から・・・いや、この際、しっかり躾をしていかないとダメですね。分かりました。今日から、夏樹先輩は、私の犬です」
 彼女は、気味の悪い笑みを顔面に張り付けて、檻を掴んだ。僕は寒気を感じ、毛布を体に巻き付ける。
「君は、今日からナツ。私がしっかり面倒を見てあげるからね」
 神経を逆なでする甲高い笑い声を上げた彼女は、部屋から出て行った。
 目の前が真っ暗になり、僕は座り込んだ。

<完>


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