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野球は無私道

月間致知10月号で、「世界の頂点をいかに掴んだか」というタイトルの記事が掲載されました。侍ジャパントップチーム前監督・栗山英樹氏と、臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺氏との対談から、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で優勝した侍ジャパンの大活躍の裏側でどんなことに取り組んでいたかについて示唆する内容です。

同記事については、生き方・仕事のあり方としてたいへん示唆的だとして、いろいろなところで関連する内容を見かけます。ここでは、私なりに印象に残ったことを挙げてみたいと思います。

最も印象的だったのは、勝ちへのこだわりの強さです。

「憧れるのをやめましょう。憧れてしまっては超えられないので、僕らはきょうトップになるために来たので。きょう一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう」

大谷翔平選手がアメリカとの決勝戦前に円陣で話した言葉が話題になりました。同記事で栗山氏も「監督の仕事っていうのは、最悪の状況でも負けないようにすること」だと語っています。このことからも、監督と全選手が、勝つことにたいへん強いこだわりを持っていた中だからこそ、出てきた言葉だったのではないかと想像します。

横田氏のお話では、今年の5月に行われた「一休フォーラム」にて、一休禅師研究の第一人者の方が講演で「皆さん、憧あこがれるのをやめましょう。一休に憧れているようでは、一休は超えられません」と言ったと紹介されています。大谷選手の言葉に影響を受けたものということですが、どのような分野であっても勝ちにこだわりを持つこと、だからこそ得られるもの、伸ばせるものがあることを感じさせるエピソードだと思います。

そのうえで、単に勝てばよいわけではないと考えます。また、負けても負けたプレイヤーが否定されるものではないし、勝ったプレイヤーも負けたプレイヤーに対してリスペクトが必要です。つまり、勝った場合も負けた場合も、そのプロセスが次に活きるかどうかなのだと思います。

勝ちに向けたプロセスに関して、2つ考えてみます。ひとつは、成果とは何かを定義し、勝っても負けてもそのプロセスがその成果に向かう道筋であるかという点です。

僕らもファンの皆さんも、どう負けたら納得するのかっていうことが頭にあった」と栗山氏は言っています。つまりは、世界1位になるまで勝ち続けるのも成果の一部ですが、それがすべてではないということだと解釈します。仮に負けという結果に終わったとしても、結果と成果は異なるということです。

負けという結果でも、日本中を巻き込んでファンが感動した・納得して観戦できたという終わり方であれば、それが成果だということではないでしょうか。その成果に向かう道筋が何かを考えて取り組むことが大切。そうすれば、相手に実力が及ばなかったり不運なことが起こったりして負けたとしても、意味がある負けになるのではないかと思います。

もうひとつは、「無私道とは自分を捨てることではないのではないか」ということです。

栗山氏のお話に「野球は無私道」という言葉が出てきました。他方で、「全員に「このチームは俺のチームだ」と思ってやってほしかった」という言葉も出てきます。つまりは、「私が無い」という字からは、一見すると「私を捨てる」のように見えてしまいますが、「私」つまり「自分」を捨てることではないのだろうと思います。

「野球は無私道」は、「自分が無い」のではなくて、「自分という個の単位では考えないぐらい、チームやファン、社会と自分が一体となっている状態」を言うのではないか。栗山氏の言葉をつなぎ合わせて、そのように考える次第です。

仕事でも何でも、単なる「自己犠牲」だと、長くは続かないと思います。自分が取り組むことに対して、自分の所有物と感じられるぐらい、自分と境界線のない一体となった状態であるかが、問われているのだろうと感じます。自身の日常と照らしあわせてみると、大いに反省させられる言葉です。

定義した成果に向かって、無私道で臨む。簡単ではありませんが、少しでも近づきたいと感じた次第です。

栗山氏が大の読書家で、人や人間学についてたいへん多くのことを学ばれているということもたいへん印象的です。さまざまな持ち味をもった選手を集めて束ねて成果を出すのが偶然できているわけではなく、禅の大家と対談できるぐらい、人について普段から学んでいるからこそのことだというのを、改めて認識しました。

<まとめ>
定義した成果に向かって、無私道で臨む。

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