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「大学」が伝える「正しさ」とは

以前の投稿で、徳のあるリーダーになるための教えが書かれている「大学」という本について取り上げました。その後、同書に関する学びを深めてみたいと思い、「「大学」を味読する 己を修め人を治める道」(伊與田覺氏)を読み進めています。読めば読むほど、「大学」は素晴らしい古典であり、私たちに生き方の示唆を与えてくれる書物だと感じます。

大学の冒頭で「三綱領」が書かれています。次の内容です。(同書より抜粋)

大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善にとどまるに在り

以下、同書の内容を一部引用しながら、三綱領のうちの「至善」について考えてみます(引用と私の文章が混在していますが、ご容赦ください)。

この「至善」というのは、私たちが普段使っている「善」とは次元を異にするものだそうです。私たちはよく「あれはいい、あれは悪い」とか「善に対するものは悪だ」と言ったりしますが、その基準は自分にあることが多いと同書は指摘しています。すなわち、自分というものを中心に善悪を考えていることが多い、というわけです。

自分に都合のよいこと、好ましいことを「善」と言い、自分に都合の悪いこと、嫌なこと、嫌いなこと、憎たらしいことを「悪」に分類する。だからこそ、「善」や「悪」は相手によって変わるというわけです。また、同じ人物でも「あの人はいい人だ」と思っていたのが、一度でも不親切にされると「あいつの顔を見るのも嫌だ」と評価が180度変わることもあります。

私たちはこのような善悪の世界で動いていて、何かの拍子で善と悪が入れ替わることも日常的というわけです。自分の家や自分の会社に都合のいいのが善で、都合の悪いのが悪になります。対立する個人間、会社間で、一方にとっては善なことが、相手方にとっては悪になる。

あることをこれまで善として主張していた個人や会社が、立場が変わって別の場面ではそれを悪だと主張することは、よくありがちです。そのように、自分(たち)の利益によって善悪が左右される点で、こうした善悪の区分は、「絶対の世界」ではなく「相対の世界」のモノの見方だというわけです。

「至善」とは、こうした相対を超えたものだと同書は説明します。天には天のルールがあり「天道」と呼ばれ、地には地のルールがあって「理」と呼ばれる。これを合わせたのが天道地理、すなわち「道理」というわけです。

そして、人には人のルールがあって「義」と呼ばれる。道理を人間の立場で言うのが「道義」だというわけです。人間の「義」は個々の「利」を超えたもの、つまりは相対の世界を超えたもので、相手によって変わらない絶対なるもので、三千年の昔も今も変わらないものです。

人に暴力をふるってはならない、人の話はきちんと聞いて受け止めるなど、昔から人の営みで大切だと言われ続けていることが、「義」の身近な例なのだと思います。

「道理」や「道義」って聞いたことがある言葉だけど、どういう意味なのかいまひとつピンとこない、という人も多いと思います(私もそうです)。同書の示唆を手がかりに、「要は、天や地や人の基本原則、普遍のルールに沿っていることを指す」とイメージすれば、その意味合いがつかみやすくなるのではないでしょうか。そうした普遍のルールを集めて、読み継がれているものが、良書と言われる古典なのでしょう。

そうした普遍のルールに沿っているものが「至善」だそうです。同書では、絶対は「一」の世界であり、相対は「二」の世界。よって、「至善」は一なる世界のものという説明がされています。

「善に至って止まる」は「一に至って止まる」と同じ意味になる。「正しい」とは「一に止まる」と書く。つまりは、「正しい」とは、道理や道義にかなっていることを言う。道理や道義にかなっているかどうかをもとに判断すると、自分には都合がよいが正しくない、自分には都合が悪いけれども正しい、などの場合が出てくる。これが「至善」だというわけです。

日本語って、本当に良く出来ていると改めて思います。「正しい」とは、絶対的な天・地・人の道理や道義にかなっているものを言う。自分の都合にあわせて善悪がころころ入れ替わるような、自分基準にかなったものを言うわけではない、ということです。

同書では、経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏について、「天から直接学んでいた人だった」と紹介しています。一代で歴史に残る企業をつくって育てた経営者は、至善の塊であった、ということなのだと思います。

・自分の「普通」は、相手や他者にとっての「普通」ではない
・自分基準ではなく天・地・人の視点から、それが妥当と言えそうかを考える

この2つの視点を普段の自分の思考・行動に反映させていく。松下幸之助氏とはいかないまでも、心がけていきたいと思います。

三綱領の残り2つについても、どこかの機会で取り上げてみたいと思います。

<まとめ>
「至善」に徹すれば、自分には都合が悪いけれども正しい場合がある。

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