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自分から生み出たものを否定しない

少しずつ創作の感覚が戻ってきている。何度も休憩しながらダッシュで走るより、緩やかなスピードで走り続ける方が楽なように、創作も毎日ダラダラとやり続けている方がいいものが出来上がったりする。決して気合いは入れず、でもサボらず、歯磨きをするように毎日ダラダラと続けるのだ。ふと後ろを振り返ってみた時に、想像していなかったものや、想像を超えるものが出来上がっていたりするからおもしろい。

私にとって創作は呼吸をするようなものであり、売れることよりも続けていくことの方がなにより大事だ。呼吸ができなければ人間は生きていけないように、私は創作ができなければ生きられない。格好つけているように聞こえるかもしれないけれど、私にとってはそんな手軽で便利な存在ではない。創作をしなくても生きられる人生、いわゆる「普通」に憧れた時期が長くあり、何度もチャレンジして、何度も失敗して、その度に社会不適合者という現実を突きつけられてきた。それならば一層のこと社会不適合者として生き残れる術を身につけようと思い、創作を続けていくための生き方へとシフトチェンジ。そのおかげで、一月に2回ほど訪れる鬱もなんとか無事に乗り越えることができ、作品は私の代わりに社会との接点になってくれている。


自分の職業を何と呼べばいいのか未だに分からないのだけど、とりあえずここではアーティストと呼ぶことにする。私は「アーティストになりたい」という言葉は、不思議な表現だなあとずっと思っている。アーティストとして売れたいと思ったことはあっても、生まれてこのかたアーティストになりたいと思ったことは一度もないからだ。子供の頃からずっと何かを作り続けていて、大人になった今でもただそれを続けているような感覚。試験や資格などはないため、自分がいつからアーティストになったのかの境目が分からない。

では、アーティストとして食えていなかったらアーティストではないのかと言うと、そうでもないだろう。私は路上で歌を歌っていた時も、CDが売れなくて泣きながらライブハウスから帰っていた時も、喉を壊して上手く歌えていなかった時も、自分の中ではずっとアーティストだった。アーティストとは、自覚や自認をするものであり、他者から与えられるものではないと私は思っている。誰からも見えない自宅で一人、観葉植物を育てることも、おいしくコーヒーを淹れることも、バランスよく洗濯物を干すことも、野菜炒めをお皿に盛りつけることも全部、私にとってはアーティスト活動だ。どんなに不完全でも、適当でも、意味が分からなくても、説明ができなくても受け入れてくれるほど、芸術の懐は大きい。

「絵は描けない」という言葉も不思議だと思っている。どんな落書きでも絵なのに、描いた本人は絵ではないと言う。それは、その人の中にはとある正解があるからなのだろう。こうでなければならないという正解を持つのは、自身への否定にも繋がる。「アーティストになりたい」と思っている人は、アーティストはこうあるべきという正解を持ってしまっているのではないだろうか。

私の好きなアンリ・マティスの作品

誰からも見えない自宅で一人、美しい形でオムレツを焼けたことに感動しているのがアーティストだとは思いたくないかもしれない。でも、本当はそういったどうでもよさそうな、些細な出来事に一喜一憂するのがアーティストの役割なのだ。そんなどうでもよさそうなことにいちいち感動していたら、社会は回っていかない。だからアーティストは、普通と呼ばれる時間軸からは少しずれた位置で生きている。そこから見えるものたちは、社会からすればとても地味で、必要なさそうで、退屈そうで、一見堕落しているようにも見え、気づかれなかったり、理解されなかったりすることも多い。だからこそずれた位置にいるアーティストは、社会から気にもされていないようなことでさえもアートに見えてしまうし、どんな落書きでもアートだと言ってしまえる。

「絵は描けない」なんてことはあり得ない。描いたものを絵として否定するのか、認めてあげるのか、どちらを選択しているかだ。つまりアーティストとは、自分から生み出たものを否定しないことなのかもしれない。

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