小説:午睡のあとでもいいことたちへ
私がコーヒーを飲むのは、コーヒーのせいにするためだった。
眠れないのも、脈が早いのも、コーヒーのせいなのだと。
「あぁーコーヒー飲みすぎて寝れないわー」と、誰もいない部屋で呟いてみたりもする。
もう10年も繰り返しているのだから、独り言も慣れたものだ。
3月のはじめ頃になると、私が飲むコーヒーの量は増える。
コーヒーを飲むのを止めようとは思わない。
どうせこの時期が過ぎてしまえば、不眠も動悸も治まるのだ。
眠れないままに、私はあの冬の終わりを鮮明に思い出す。
マグライトをキャンドル照明にして食べた、あの冷たく硬いおにぎりを思い出す。
家中の暖房器具がひとつも動かないときにだけ訪れる、あの冷たく硬い空気を思い出す。
あの日以来私は、電源が必要な暖房器具を所有していない。
「クマ、大丈夫ですか?」と、後輩が私に言った。
「あたし飼ってないけど……」
「ベアー的な意味じゃなくて。目の」
「あぁ、気にしないで」
「あたしのコンシーラー使いますか?」
「大丈夫。ありがとう」
「寝不足ですか?」
「そうだね。稀によくある」
「どっちですか」
「ふふふ」
「ふふふじゃねーですよ」
私が当時付き合っていた男と別れたのは、あの日だけが原因というわけではない。
たまたまだったのだと思う。
なんとなく冷め始めていたタイミングで、非常事態に張り切るあの男に対して嫌悪感のようなものを抱いてしまったのだ。
それまでぼんやりと存在していた違和感が、急激に具体的なかたちをもって噴出した。
励ましなんて必要としていなかった。
逞しさなんて必要としていなかった。
正義感なんて必要としていなかった。
私はあの男を必要としていなかった。
それはある種の防衛本能だったのかもしれない。
私が別れを告げると、あの男は精一杯のプライドを保ちながら遠回しに私を罵った。
たぶん。
すでにあの男の言葉は耳に入っていなかったので、よくは覚えていない。
「先輩先輩、コーヒーってカラダにいいんですね」
「そうなの?」
「そうなのって、え、だから先輩めっちゃ飲んでるんじゃないんですか?」
「いや、あー」
「バカみてぇに飲んでるなと思ってあたしググったんですよ、ヤホーで」
「あんた若いのによくそのネタ知ってるわね」
「あたしもコーヒー飲んでみようかなーって」
「へぇ。今度から二人分淹れようか」
「わーい」
「……ちょっと待って、なんかさっきバカって言われたような気がする」
「二人分作るのって大変じゃないんですか?」
「そんなに変わらないよ。豆とお湯の量を……さっきバカって言われた気が」
「お高い豆なんですか?」
「決まった焙煎店で買うようにはしてるけど、そうでも……やっぱりさっきバカって」
「じゃああたしがおやつ準備することにしますね」
「気のせいか」
「はい」
「はいじゃない」
私がそう言うと、後輩は悪戯っぽく笑った。
その年がいつもと違うことに気付いたのは、三月も半ばを過ぎてからだった。
ときどき気絶のように短い眠りはあるのだけれど、それは睡眠と呼べるほどのものではなかった。
コーヒーの量も減らしたのだし、明日こそは眠れるだろうと数日の間は思っていた。
気がつくと私は病院にいた。
「入院してみましょうか」
「いや、うーん」
「あ、そんなに重く考えなくても大丈夫ですよ。ちょっとゆっくり休んでみて、様子をみましょうか、という」
「でもなぁ」
「なんというか、ご自分ではあんまり休むのが上手じゃなくなっているみたいですしね」
「はぁ」
「ここで無理をしちゃわないほうがいいかもしれない。今回は軽い怪我で済みましたけど」
「なんか、病名とかついちゃうんですか?」
「あ、心配しなくても大丈夫です。どうにでもなります。お好みの診断書を出します」
「そんなもんなんですね」
「それも治療の一環なんで」
「治療ってことは、やっぱりなにかしらの病気なんですか」
「みんな病気ですよ。その気になれば全員になにかしらの病名をつけられます」
「はぁ」
「こんな世の中でマトモでいられるほうがどうかしてる」
医師はそう言ったあと、ボールペンを見つめながら「こんな世の中じゃ」と呟いた。
私は心のなかで「ポイズン」と続けてみた。
入院中、私はまったくと言っていいほどなにもしなかった。
ニュースやネットは見ないように言われていた。
医師が言うには「いらん情報」らしかった。
「認識しなきゃ存在しないようなもんですから。どうせ認識して頭の中に存在させるなら、なんかふわっふわの猫とかにしましょう。ふわっふわの。もうなんかすごいふわっふわの」
「ふわふわの」
「もっと。ふわっふわの」
「ふわっふわの」
「眠れなくても、目を閉じてふわっふわのものを想像するだけでも、脳はすこし休まりますので」
「ふわっふわ」
「いろいろと難しいことは、昼寝のあとにでも考えればいいんです」
「眠れないのに?」
「あ、例え話です。人生のお昼寝みたいなね」
母に伝えるのは気が引けた。
しかし入院書類の連絡先に書き記す都合もあったので、私は渋々電話をした。
公衆電話の受話器は、スマートフォンに慣れてしまった今では必要以上に重く頑丈に感じられた。
「あら、久しぶりね」
「ちょっと入院しててさ」
「えー。どうしたの」
「いろいろ」
「いろいろってことないでしょ。なに?事故?病気?」
「いや、体は大丈夫」
「体は?……あー」
「ちょっと、なんだろ、疲れ?」
「がんばりすぎたか」
「まぁ、そんな感じかも」
「どこの病院?」
私は病院の名前を告げた。
「あら、そこおばあちゃん入院してるわよ」
「そうなの?っていうか病気だったの?聞いてないんだけど」
「そんな大病でもなかったからね。あの歳になれば入院なんて珍しくないわよ」
「会えるかな」
「どうだろうねぇ、ご時世的に。あ、でも、会うのもどうかな」
「どういうこと?」
「ボケてきてるのよ、おばあちゃん」
私が医師に祖母の話をすると、医師はしばらく無言でなにかを考えていた。
「わかりました。会ってみますか」
「会えるんですか」
「そうですね、それっぽい理由を作ればなんとかなると思います。それっぽいことを言うのは得意なので」
「大丈夫なんですか?」
「あとで怒られたら、ヒポクラテスが夢枕に立ったとかなんとか言っておきますよ」
「はぁ」
「うまくいくといいですね」
「なにがですか?」
「え?んー……。全部」
祖母の病室は建物の南側にあったおかげで、ぽかぽかとした陽が差し込んでいた。
「おばあちゃん」と私が声を掛けると、
「あらぁ、よく来たね」と祖母は言った。
よく来たねとはどういう意味だろう、と私は思ったが、どうやら私が祖母の家を訪れた記憶と混濁しているらしかった。
私はすこし動揺しかけたが、私を私だと認識してくれたことに安心もした。
「元気だったかい?」
「うん、元気だよ」と、私は嘘をついた。
「なにか飲むかい?冷蔵庫にジュースあるよ。あんたがいつ来てもいいように買っておいたから」
「ううん、大丈夫だよ。来る途中で飲んできた」
「寒くなかったかい?」
「大丈夫だよ。最近あったかくなってきてよかったね」
「もうすぐ春だねぇ」
「そうだね」
「あんた春になるとずーっと庭で遊んでたねぇ」
「懐かしいね」
「柿の木に登ってじいさんに怒られてたねぇ」
「柿の木懐かしいなぁ。もうないもんね」
「えー?あるわよ。なに言ってるの」
「震災のあとに切っちゃったでしょ?」
「震災?」
「あ…」
「震災ってなんだい…?おばあちゃんわかんないな」
「なんでもない」と私は言った。
祖母はとぼけているわけでも、忘れたふりをしているわけでもなかった。
祖母の目の奥に、怯えのようなちいさな淀んだ光が見えたような気がした。
「あんたまだ帰らないでしょ?ゆっくりしていきな。おばあちゃんちょっとお昼寝していいかしら」
「うん。まだいるよ」
「ゆっくりしていきなね」
そう言うと祖母は、まもなく寝息を立て始めた。
すこし暖かすぎる病室で、祖母の寝顔を眺めながら、私は防衛本能のことを思った。
もちろん祖母はわざと認知症になったわけではないだろう。
あるいはそれは、生き延びるためのよくできたシステムなのかもしれない。
私は祖母の手を握ってみた。
記憶の中にある祖母の手はもっと分厚くて力強いものだったのだけれど、今は細く枯れていて、余った皮膚がきろきろと滑るように動いた。
祖母の手を触りながら、私はなぜか後輩のことを思い出した。
あの子もいつか老いるのかと思うと、不思議な感覚に陥った。
「おばあちゃん。あたしもちょっとは忘れてもいいのかな」と、私は祖母に向かって話しかけてみた。
眠ったままで偶然に枕の据わりを直した祖母は、頷いたように見えた。
雪解けの雫の音を聴きながら、
私は自分がうとうとしていることに気がついた。
それはじつに二週間ぶりの眠気だった。
私は祖母の手を握ったまま、ベッドに上体を預けた。
すこし眠ろう、
と私は思った。
まどろみの中で、
柔らかな夢が
はじまる
のを感じながら、
午睡のあとでも
いいことたちへ、
私は
ちいさく
手を振った。
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