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【小説】猫のけつの話【2000字ジャスト】

僕がいつものように縁側で天井の木目を数えていると、網戸の向こうから猫の鳴く声がした。
いつだったか僕の顔ににゃんたまを乗せた猫だ。
薄く雲がかかっているとはいえ、外は暑かった。
つまりは開けろということなのだろうけれど、僕は少し迷った。
また顔ににゃんたまをオンされるのは目に見えていたし、猫もそのつもりの顔をしていた。
しかししばらく見つめ合ったあとで、僕は諦めて網戸を開けた。
僕がうつぶせで寝ればいいだけだ。
そしてもちろん、猫が入った後は虫が入らないように網戸を閉めた。

暑かったけれど、まだ夏とは呼びたくなかった。
まだまだこれから暑くなるのだ。
夏を夏と呼ぶために、今を夏と呼ばない。

ところで、夏が来る前のほうが夏をうまくイメージできるのはなぜだろう。
青い空、白い雲、ぽかぽか太陽こんにちは。
汗をかく麦茶、蚊取り線香の香り、どこかから聞こえてくる高校野球の音声。
気休めのうちわ、プールサイドの足の裏の感触、何度も確認する花火大会の日付。
なかなかあの子を誘えない夏祭り、噴きつけすぎたエイトフォー、背中に張り付くシャツ。
むせ返るような草木の匂い、生き物の匂い、命の匂い、猫のけつの匂い。
猫のけつの匂い?
目を開けると目の前に猫のけつがあった。
僕はうつぶせで、首を左に向けて寝ていた。
上から見ると猫と僕とで数字の1のような、いやそんなことはどうでもいい。
毛むくじゃらの猫を寄せるのはなんだか暑くて気が進まなかったので、僕は首を右に向けた。

僕がもう一度考え事に戻ろうとしていると、猫がひとつため息をついて、移動しようとしている音がした。
猫がガンマの字になろうとしていることを察した僕は、座敷から隣の仏間に移動し、ふすまを閉めた。
仏間は、白檀の香りがした。
そこにはまだ死の気配が残っているようだった。
ここ数年、立て続けに人の死を看取っているうちに、僕はそれについてじっと考える時間が増えた。
そして考えるたびに、なぜだかそれほど悪くないことのように思えた。
僕は畳の上に仰向けになり、静かで、穏やかで、暗く、ひんやりとした洞窟を思い浮かべた。
憎しみと悲しみに溢れたこの世界と、どちらが平和なのだろう。

隣の座敷でガシャンと音がした。
それは明らかに猫がなにかを、たぶん花瓶を倒した音だった。
ふすまを開けなくても、急いで寝たふりをしている猫が目に見えるようだった。
僕は考え事を続けた。

あれは中学生の頃だったと思うのだけれど、僕は人骨をかじったことがある。
もちろん人を殺したわけでも、墓を掘り起こしてカルシウムを補給しようとしたわけでもない。
それは曾祖母の遺骨だった。
どういった経緯で僕が手に入れたのかは、どうしても思い出せない。
僕が火葬に立ち会っていないのは覚えている。
死を受け入れられなかったことも覚えている。
骨噛みなんてものは知らなかったはずなのに、自分の体の一部にしたかったことも覚えている。

猫がふすまで爪とぎをしているかのような音が聞こえた。
しているかのようなというか、完全にしている。ふすまが揺れている。
僕はとくに止めようとも思わなかった。
誰も使わない部屋の、誰も見ないふすまに、どれだけの価値があるのだろう。
使い道を見つけた猫のほうが偉い。

なにについて考えていても、僕の脳裏には常にある人の顔が浮かんでいた。
それはまるでカメラの画角に写り込んでくる猫のようだった。

彼女は夏が嫌いだった。
僕は夏が好きだった。
これはなんの比喩でもない。
あくまでも単なる事実だ。
しかしもちろんそれが一緒に居られなくなった理由ではない。
僕があまりに馬鹿だったからだ。

僕は今では冬が好きだ。
冷たく、清らかで、静謐な冬が。
それでも、どうしても、夏が来る前には郷愁の眩しさについて考えてしまう。
暑く、臭く、吐き気がするような生命に満ちた夏のことを。

隣で猫が鳴いた。
気が付くともう陽が傾き始めていた。
猫にも帰る場所はあるのかもしれないと思い、僕はふすまを開けた。
そこに猫は居なかった。

網戸は閉まっているし、このふすま以外に出入口はない。
猫が隠れられるような場所はなにもない。
念のため僕は自分の頭の上を探ってみた。
もちろん頭の上には乗っていなかった。

僕は猫のけつの匂いを思い出した。
あれは夏の匂いを、そして命を凝縮したような匂いだった。
僕は座敷に仰向けになり、必死で涙を堪えた。

きっと、たぶん、おそらくだけれど、この先も何度か夏が来て、冬が来る。
その限られた繰り返しの中で、僕はいったいどれだけの言葉を見つけられるだろうか。
そしてその中に、彼女や、猫や、自分にかけてあげるのにふさわしい言葉が見つけられるだろうか。

僕が畳のうえで強く生きるための決心をしていると、どこかでご飯を食べてきたらしい猫が爪で網戸を開けて入ってきた。
開けられるんかい、と、僕は声に出さずに叫んだ。
猫は丁寧に網戸を閉めてから、にゃんたまを僕にオンする顔をした。
なにかが始まった。

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