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■7月23日(木)思いやりガバガバ

■京都ALS安楽死事件

京都ALS安楽死事件が世を賑わせる。コトの全容が露わになっていない初報の時点では、亡くなったALS(そして、その後に待ち受けいた可能性のある『TLS/完全閉じ込め症候群』)の女性の気持ちを察し、手を下した医師にも同情の声が上がっていた。が、続報が入るにつれ「どうやらこの医師キナ臭いぞ」と思わせる事態が、徐々に明らかになってきている。


逮捕された医師は元厚労省官僚 「高齢者は社会の負担」優生思想 京都ALS安楽死事件
https://this.kiji.is/658942099534611553

これに関しては、ちょっと、まだ、答えが出ない。今日の日記は、後日(7/27)にまとめて書いているのだが、この日以来、情報は嫌でも追ってしまう。

思想と行為、制度と実情、社会と個人、当事者と関与者と他者。それらをほどいて考えないと見間違えそうな問題な気もするので、問題を分けて、今後考えていきたい。

■間違っているけど救われていて

ただ。少しだけ。この事件について、思うこととして。

『関与者』…まあ、要するに『加害者』の思想には賛同できない。

この『事件』(という観点にした場合)の被害者を、つまり、優生思想の名のもとに安楽死に導かれてる人を、今後も増やしてはならない、というのも、わかる。

「死ぬ権利より生きる権利を守る社会に」 ALS女性「安楽死」事件、れいわ舩後参院議員が見解
https://news.yahoo.co.jp/articles/d9b2a690f19e183e47c33f513a9c3b06600c43c8

この記事で舩後靖彦氏が言うように、安楽死という制度と社会に関しても、その選択肢を選ぶ前に、それでも前向きに生きられるようなとっかかり――崖から落下するなか、木の枝に服の一部引っ掛かって落下を防ぎ、九死に一生を得る的なアニメ的な発想における『木の枝』に相当するもの――が必要だというのもわかる。

命を選別する言葉にどう抗うか 詩人の岩崎航さん「私たちには今、人を生かす言葉が必要」
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/sagamihara-iwasaki-2020?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter

僕も肯定していた安楽死についても、ALSを患う詩人の岩崎航さんの記事を読むと、見つめ直すきっかけになる(ちょっと、訴えが詩的すぎる気もするけど、それが大事なのかもしれないし、それが問題を曇らせるのかもしれない)。

――けど、だけど。どこか、今回、亡くなった女性は、それでも「救われたのかもしれない」と、思ってしまうのは、いけないことなのか。もうこの思想が孕んだ救いの形は、今後、他の人に付与されるべきではないし、加害者を擁護する気もないのだが、女性の立場のみに立って考えた場合、その行為によって解放された、救われた、と思うことは、許されないことなのだろうか。

…許されないのかもしれない。わからない。でも、そうでも思わないと。それこそ女性が報われない、気がする。…間違っているかも…。わからない。別に、これが正しいことなんて、微塵も思っていない。だけど…ウゥム。

ま、ちょっと。脚本とかも書いてる人間が故の、湿ったものの見方なのは自覚ある。それぞれの視点に立ってその正当性を妄想する、癖みたいなものだ。

いずれにせよ、今後。ともすれば一生。向き合っていく問題ではあるに違いない。

■ガバガバな思いやりと転落防止のひっかかり

だなんて、自分の中にも答えがないことをツラツラと書いてきたけれども、一方、今回の事件を通じて、割と確信気味のこともある。

安楽死を肯定しようとするときに散見される、例えばALSや寝たきりを例にとり「自分がなったら辛い、だから既になってる人は辛いだろう、だから安楽死賛成」てな『やさしい想像力』。実はこの想像力・思いやりこそが、どこか歪んでいる気がしてならないのだ。だってこれって「障害⇒辛い⇒不幸」てな土壌の上になりたっているからこその発想なんだもの。このファーストインプレッション、先入観が変わらない限りは、やっぱり障害を経ての安楽死は、渇望の的にしかならない気がする。

本当の本当に自分が当事者になった時、ひたすら辛いし、いっそ死にたい、と感じるだろう。けど、その反面、同じ熱量でもって、死にたくなさも出てくるはずだ。奇跡だって望むはずだ。というより、今、娘に関しては「奇跡よ起これ!約2~3回!」といった願いが頭から離れない。

「障害者⇒辛いはず⇒不幸なはず⇒安楽死が必要だよね」という想像は、次に発想にいたるまでの『⇒』部分がちとガバガバすぎて、いろんなことが抜け落ちすぎてやいないか。今回亡くなった女性も、実際に亡くなるまで9年の年月があった。ご本人のものと思われるブログを辿ると、『辛さの発露』と同じぐらい、『奇跡への意欲』も渦巻いているように感じた。

この、欠落した『⇒』を埋められる何か。それこそが、前述した、絶望への転落防止のひっかかりであり、アニメ的木の枝。その必要性を訴えているのが、舩後氏であり、岩崎氏だと、僕は勝手に思ってる。そして、僕もそう思っている。そしてこれは、当事者に近くなければ見えてこない、血の通った観点だとも思う。

×   ×   ×

というか、かくいう僕も、それに救われた口だ。僕自身が障害になったわけではないが、娘が重度の障害を持って生まれてきて、まあ、絵に描いたように打ちひしがられて。漫然とした不安に襲われて、何一つ希望が見えなくて。

そんな中、たまたまYouTubeで目にした、障害児を育ててるとあるお母さんの動画。フッツーの笑顔で娘の症状について語っているのを見て「ああ、まあ、そうか。言っても、障害も、日常と地続きか。辛いこともあるだろうが、例えば、毎週『週刊少年ジャンプ』が楽しみなのは変わらないし、から揚げにマヨネーズかけるときは背徳感を帯びた快感があるし、『水曜どうでしょう』見たら笑えるわな。そりゃそうだ。形は変われど、日常は日常なんだもの」と、一気に冷静に戻ったのだった。

×   ×   ×

障害、を引き合いに出したときによく言われる文言ではあるけれども。
明日交通事故に遭えば、自分も障害者になるかもしれない。
時が経てば自分が寝たきりになるのは明白だ。
障害も老いも、相当に身体が温まった状態でベンチに座っている。

そうなったとき、絶望して死ぬこと以外に、どこかキャッキャ生きられる小さな救いが、欲しいではないか。『障害⇒絶望』となすすべ転落するだけよりかは、『なったからこそのささいな幸福』、という名のひっかかりがあって欲しいではないか。これは『障害』を持った娘のためでもあるが、いわゆる『健常』な自分のためでもある。健常が終演した後、出待ちしくれてるのが絶望だけなのは、なんだかなー、じゃない。

×   ×   ×

んで、これに必要なのは、『その価値って、ホントに価値あるのかね』的な価値観増殖化計画話に繋がってくるのだけど、疲れちゃったので、それはまた今度。

■かき集めたい幸せサンプル

最後に。こんなことを考える中、こう、絶望への転落を防止する木の枝的な何かをね。作りたいな、だなんてのも、ぼんやりと考えている。多種多様な人の小さな幸せを集めた動画シリーズ――とか、なんか、そんな、過去に「カニバリズムだヒャッホー!」だなんて台本を書いてた自分からは想像できない企画なんだけど――まあ、そんなのを、考え中。

この辺も、また今度。
ただいま、煎じて詰めてる最中でございます。

ま、3時間後にはまったく別の考えになってるかもしれないけど。

おしまい!

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