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告知といきさつ

告知や発信する媒体もなく、どうしようかと思っていたので、こちらのnoteを今後使ってみようかと思います。

小説トリッパー2021年秋号に「擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム」の第五回が掲載されました。

表紙で使われている奥山由之さんの写真はいつも素晴らしいです。

さて、今まで僕の口から対外的な告知などをあまりしてきませんでしたが、今回で連載から一年が経過したので、これまでの経緯などここに掲載しようかと思います。

今回で五回目になる「擬人化する人間」は2020年秋号から連載を開始しました。

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もともと僕の連載はトリッパーに企画を持ち込んでスタートすることになりました。

僕はそもそも自分が一般的な人とは外れた存在なのではないか、ということをずっと考えていました。それをどうにか世間とフィットさせようと努力をし、人間らしく振る舞おうとしていた気がします。ただ、それゆえにどうしようもなく感じていたのが、比喩的に表現するのであれば、「人擬き」の感覚だった気がします。

そしてそれは、僕だけの感覚ではなく、ある意味で時代の病理ではないかと様々な作品を見ていく上で考えたのが、一つ論考を書く上での動機にありました。

僕は学生時代に東浩紀さんの『動物化するポストモダン』で衝撃を受けた世代です。小学生の時から携帯やパソコンを使い、また中学時代にすでにYouTubeを見ていました(まだYouTuberなどおらず、全てが英語表記の時代です)。そんなネットこそが新しい時代の象徴として映っていたため、『動物化するポストモダン』はそんな時代の感性を言い当てていたことに驚いたのを覚えています。

その延長線上にある現代はニッチだったネットが当たり前のように人々が使用するツールになってしまいました。つまり、当時言われていたデータベース的な様々なものをバラバラに受容していくような感覚が常態化している状態と言えます。しかし、その状況は人間の意識をも変化させていったのではないか。僕がこの連載を始めるにあたって、問題としたのはそんな現代の「自我」、そしてそんな「自我」から生み出される「言葉」についてでした。

そんな現代の状況論を連載第一回、第二回を通して分析をしていきました。そこでは時代の流れとそこで生まれるディストピア的な想像力について論じました。

またその後の第三回、第四回は、具体的な作家論になっています。内容は二人の作家、朝井リョウさんと村田沙耶香さんについてです。

この二人はともに現代を象徴する作家ですが、朝井さんは徹底して醒めた社会に対する観察眼をもって小説を描き、村田さんはそんな社会と混じり合った状態のままありのままに書いています。その分析を二人の作品を通して行いました。

そして今回の第五回は平野啓一郎さんの分人主義ができた時代的な背景を文学史と絡めて論じています。また第六回はもう少し作品に踏み込んだ平野啓一郎論を展開していく予定です。

さて、そんな現代の「自我」の変容と「言葉」の在り方を論じている連載です。ですが、正直この言葉がどこまで届くか、僕自身が不安に思うところです。そしてこの「言葉の届かなさ」は言葉に向き合っている人ほど感じていることかもしれません。

そのため、なるべくわかりやすい言葉で分析をしようと心がけてはいます。(ーーとはいってもやはり普通の人には難しいようで、僕の親戚は読んでもよくわからないという感想を言っていましたが。)そしてなにより現代の言葉をひとえに考えている作家たちの文章を分析することは何よりその状況を知る上では重要になってくるのではないかと考えています。

ぜひ、現代の文学について、また現代の言葉について真摯に考えたい人は一つの参考にしてもらえたらと思っています。

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