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essay #14 幸運

映画「any day now」(邦題:チョコレートドーナツ)を観た。

人間にしかない、他の動物では起こり得ない、社会構造のなかにしか見いだせない苦しい出来事を描いた、観るべき映画のひとつだった。

友人は嗚咽するほど泣いたと言っていたし、映画が描いていた衝撃はとても大きなものだったけれど、感傷に浸るというよりは、社会に対する重たい鉛のような懐疑心が心臓に残る気持ちで、表情筋をなかなか、動かせない自分がいた。

普段からこの世界は、なるべくしてこうなったのだろうと思っている。
すべての歴史は必然で、もう一度ビッグバンが起きても、長い時間をかけて似たような社会ができる気がする。きっと進化の過程で人間というものは生まれてしまうし、人間が出来上がってしまう以上は狩猟採集のままなんて無理で、道具を作り出し、ルールを作り出し、ムラ社会を始めてしまうのだろう。

その先にあるのは、紛れもなくチョコレートドーナツに描かれたような現代だ。

障がいを持つ人とそうでない人、
血の繋がった家族とそうでない人、
同性愛者とそうでない人の間に明確に線が引かれ、
誰が他人からの保護を受けるべきか、
誰が誰の世話をしてよいか、
誰が正常で誰がそうでないかを、
第三者が判断する。

犬や猫や他の生命体にはあり得ない、人間でなければ引かない線があり、それによって誰かが守られ、または守られずに死んでいくのが、現代だ。
歴史上の人々が自分のために、家族のために、地域や国のために必死に選んできた結果が今だ。
こうじゃなかった世界、なんておそらく存在しない。

「しかたがない」なんて言葉で片付けることはできないけれど、ここまで考えて、無力感にしっかりと包まれてしまっても、できることなんてほとんどない。
半径1メートルの、自分の周りの人も満足に大切にできないのに、心が痛むなんて残酷だ。


同時に、こういう映画を見ると、自分の幸福加減に気づく。
チョコレートドーナツの世界観は国も人も自分と似ても似つかないけれど、救いようのない未来みたいなものが迫ってくる感覚は近くにいくらでも溢れている。

高校2年に上がり、遅刻と欠席のせいでクラスで誰よりも内申点が低いと知らされたとき。
門限を破ったせいで家から締め出され、真冬に制服でうずくまって眠ったとき。
母親にこれでもかと蹴られ、お前には今後も碌でもない人間しか寄ってこないんだと言われたとき。
センター試験の2週間前に風呂で手首を切ったとき。
大学1年の7月、学費を振り込めずあと2ヶ月で除籍になると通告されたとき。
水道が止まり、アパートではトイレもシャワーも使えない状態になったとき。
財布の中身が20円になり、友人から金銭の代わりに身体を要求されたとき。

どこかで、自分の人生はもうここまでだと諦めていたら、いつでもあっち側に行けた。
この世界以外は存在しないと思っていながら矛盾しているけれど、ちょっとでも選択を誤っていたら、今ごろ、金銭のために犯罪の片棒を担いで拘留されているかもしれないし、薬漬けになって更生施設にいるかもしれないし、援助を受ける相手を間違えてまた暴力を振るわれているかもしれない。

「やっぱりお母さんの言った通り、わたしは碌でもない人間だったんだ」って答え合わせをつぶやきながら、地べたを這っている自分が見渡す歪んだコンクリートまで想像できて、吐き気がする。


しがみついてまだ社会生活にいるけれど、いつその景色に飛び込むか分からない恐怖が、映画や小説によって炙り出される。
もし母親が人生を見つめ直してくれなかったら。
何かを断る勇気がなかったら。
目先の金銭や愛情に強く執着していたら。
夫に出会っていなかったら。

本当に、自分のこれまでの人生はラッキーだったのだ。

自分ひとりではコントロールできないのに人生を脅かす事柄が、この世には溢れすぎている。
そして多分その全てを取り除くことはできないし、他人のことなら尚更干渉できないことばかりだ。人のことなんかほとんど救えないし、見殺しにされていく人たちは簡単には減らない。

日々、別に自分の人生には元から価値が付与されているわけじゃないと分かりながらも、せっかくこの経験をしたなら何とかして誰かを救う材料や道具に使ってもらえないかと、考えあぐねている。

報われない人がこれだけ多い社会では、自分はちょっと恵まれすぎているのだ。

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