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曖昧な習慣から〝自分の感覚〟を取り戻す

自分が思っていることを、ちゃんと自分の言葉で書いてみようと思ったきっかけのひとつに、〝自己対話の見直し〟というのがある。
これまで自分がしてきた自己対話は、〝自分と自分〟が向き合っているのではなく、〝自分と世の中〟だったり、〝自分と仕事〟の折り合いをつけるための対話だったような気がしてきたのだ。
そこには〝自分の感覚〟が、すっぽりと抜け落ちていた。

自己対話の方法を見直すきっかけになったのは、銭湯での出来事だった。
僕は疲れが溜まると近所の銭湯に行くのだが、ある時、風呂に浸かりながら無意識に100までの数をカウントしている自分に気がついた。

「体を温めるために、風呂に浸かって100まで数える」というのは、僕が幼い頃から親に言われてきた習慣である。
しかし、よくよく考えてみると、〝100まで数えること〟と〝体が温まること〟は別問題のような気がしてきた。

確かに100まで数えれば体は温まるかもしれないが、もしかすると60でも十分に温まっているかもしれないし、120まで数えないとしっかり温まらないかもしれない。
100というのはあくまで目安となる時間であり、本当に体が温まったかどうかは、自分の感覚と向き合わない限りわからないと思ったのだ。
この時、僕は、いかに自分の感覚を蔑ろにしていたのかに気づかされた。

それ以来、僕は目の前のことをいちいち自分の感覚に問いかけるようにしている。
すると、生活の中における様々なことを、自分の感覚ではなく、誰かが決めた基準に則って判断しているという現実に直面することになった。

例えば、特に理由もなく食事は1日に3回するし、頭が痛いと思ったらロクに原因を探ることもせずにとりあえず頭痛薬を飲む。
しまいには、外が暑いのか寒いのかも自分の感覚で判別するのではなく、インターネットで気温を調べるような暮らしをしていることに気づいて唖然とした。
僕は一般的とされる基準や、そこから派生した曖昧な習慣に従うことで、いつの間にか自分の感覚を信じることを軽視していたのだ。

そうした傾向は、文章を書く姿勢にも表れていて、客観性や正確性を重要視するあまり、感覚に従って自分の気持ちや主張を書くのが苦手になっていた。
別に、天気予報や信用している人の言葉までを疑う気はないし、インターネットが便利なのは確かなのだが、もう少し感覚を信用して生きてもいいんじゃないかと思うようになった。

はっきり言って自己対話は時間も手間もかかるし、無意識に行っている習慣によって生活がスムーズになっているのもわかっている。
だけど、何となくやっていたことが、ひとつひとつ腑に落ちていく感覚は、とても清々しい。

感覚と行動が一致すれば、仕事も暮らしも、もっと楽しくなるんじゃないだろうか。
だから、なるべく自己対話の手間隙を惜しまないようにしようと思っている。

photo at Waikiki

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