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自分のことを、自分の言葉で書ける人であるために

『note』を始めることにした。
自分が思っていることを、ちゃんと自分の言葉で書いてみようと思ったのだ。

僕は自分のことについて書くのがすごく苦手だ。
仕事では取材対象者の想いを文章にするような役割が多いので、表面的に自分のことを書く場面はあっても、自分の内面を文字にすることはほとんどしてこなかったし、不特定多数の人に向けて自分のことを書く必要もないと思っていた。
けれども、そうしているうちに〝自分について書くこと〟についての苦手意識はどんどんと強くなり、底知れない焦りを感じるようになった。
自分が少しずつ空っぽになっていくような気がしたのだ。

生きていくために〝自分について書く力〟が必要かと言われれば、現時点での答えは「NO」だ。
だけど、書ける自分と書けない自分だったら、僕は前者の方に近づきたい。
このまま書かないでいたら、もっと書けなくなる未来が待ち受けているのは明らかだと思った。

自分について書かなかった理由には、書く必要に迫られなかったということのほかに、恥ずかしかったという気持ちも大いにある。
他人に自分を曝け出すのは恥ずかしいし、偉そうに自分語りをするのも恥ずかしいし、友人から「あいつドヤ顔でポエム書いてるなー」と思われるのもやっぱり恥ずかしい。
要するに、人の目が気になっていたのだ。

ある時、SNSに否定的な友人が「昔の自分が書いたことって、後から見ると恥ずかしさしかないじゃん!」と言っていて、それはもっともな意見だなと思った。
実際、昔の日記なんて、稚拙さや自己陶酔ばかりが目について、よっぽどの覚悟を決めないと読めやしない。
だけど、そこには〝その時にしか書けないもの〟が詰まっているのも確かなのだ。

小説家やミュージシャンではなくても、〝その時にしか書けないもの〟というのは確かにあって、それは感覚の鮮度に起因しているんだと思う。
記憶を頼りに初めて彼女ができた感動を書くのと、その瞬間に感じたことを熱に任せて書き残すのとでは、まったく違うものになるだろう。

文章がおもしろいなと思うのは、そこに多かれ少なかれ〝自分と向き合った形跡〟が含まれていることだ。
写真は感覚的に日常を切り取れるが、文章を書くためには少なからず自分と向き合う必要がある。
だから、自分が昔書いた文章を読んでいると、懐かしい記憶や感覚だけではなく、当時の自分の内面がありありと蘇ってくる。
これはなかなか気恥ずかしいものだ。
なんせ、若かりし頃の稚拙で傲慢な自分と、もう一度向き合うことになるのだから。
頭を抱えたり、胸を掻きむしりたくなることも珍しくない。

けれども、そこに書かれたことは、当時の素直な気持ちだし、未来から否定するものでもない。
きっと、今こうして書いている文章も、10年後には気恥ずかしさの塊になっているんだろう。
むしろ、そのくらいの40代に成長しててもらわないと困る。

自分が思ってることを書くためには、自分と真剣に向き合って、自分を知る必要がある。
そのためには、過去を含めた自分のことをありのままに受け入れなければならない。
どうせ自分であることからは逃れられないのなら、稚拙な過去の自分をなかったことにするのではなく、「昔の自分って恥ずかしいんだけどさ」という諦めに似た感情を前向きに抱えながら、この先の自分と付き合っていく方がいいなと思った。

「今さら」とか、「平凡だ」とか、「誰のために?」とか、自分にブレーキをかける言葉は探せば無数にある。
だけど、それは結局、自分と向き合うことを避けるための言い訳だと思うのだ。

「頭の中を整理する」とか、「自分と向き合う場を作る」とか、「発信力をつける」とか、やるべき理由もやらない理由と同じくらいたくさんある。
だけど、それも結局は、自分を納得させるための建前でしかないと思うのだ。

人の目とか、承認欲求とか、未来への影響を別にしても、僕は自分が思っていることを、ちゃんと自分の言葉で書いてみようと思った。
だから、『note』を始めることにした。

よろしければ、お付き合いください。

photo at Diamond Head

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