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ヱリ子さん思考日記 2022年12月「野生の匂い、サンタはきっといる」

【アジアの都会 12月某日】
 所用で渋谷に出かける。夕方だがもう陽が落ちていて、道玄坂は濃いネオンに囲まれ、夜用の顔に切り替えた人たちが全方向から別の全方向へと無作為に移動している。Addidas本店に差し掛かる瞬間、アスファルトの底からアジアの都会の匂いが立ち上ってくる。何と言えばいいのか、獣じみたムッとする湯気の匂いと車の排気の匂いが、むらのある濃淡で漂ってくると、「ああ、これはアジアの都会だ」とわたしはいつも思う。ハノイも、バンコクも、道路がこんな風に匂う。たぶん、東アジアでは、路上に近い場所で豚骨や鶏の軟骨からスープを取っているからなのだろう。たとえば犬のからだに鼻を押し当てたときのような、あのいくらシャンプーしてもしっかりと残る獣の匂いが、どこからともなく夜の街に混ざってくるから不思議だ。入り組んだ狭い路地を山ほど隠し持ち、極彩色のネオンで孔雀のように飾り、獣の湯気の匂いを立ち上らせている都会。渋谷は、まごうことなくアジアの都会だ。こういうアイデンティティは、隠そうとしても隠せない気がする。
 そのままAddidas本店に立ち寄ってみる。ここで夏に息子に帽子を買ってあげたとき、レディースコーナーで見かけた巻きスカート風のキュロットをざっと探すが、見当たらない。あれ、自転車に乗るとき最適だなと思ったのだけれど、仕方がない。建物全体がもはや、サッカーの日本代表ユニフォームで一色になっている。イベント時にだけ熱中する人たちをにわかファンと呼ぶわけだけど、その現象はもしかしたら、ふとした瞬間に漂う民俗の匂いのようなものを含んでいるのかもしれない。アスファルトの底から立ち上るこの獣の湯気の匂いみたいに。見るものを息子のソックスに変更して、隠しおおせない何かについてわたしはAddidas本店で考える。 

【野性味が足りない 12月某日】
 電車の中で、Workflowyに記したメモを読む。このアプリのわたしの使い方は酷くて、ToDoリストと言葉やアイデアのメモがひたすら適当に記されている。例えばこんなかんじ。・大太鼓体験申し込み、・川の上流へゆけば、押し流される前の世界が広がっているはず(石から考えるなら)、・通貨という概念と歌という概念について、・じいじは火、金、日、土曜の半分がお休み、1/3もお休み・ある男、RRR映画、・13日火のうちに年賀状発注とKさんお礼メール、・卒塔婆、・流転。この雑多ぶりは、控えめに言ってもかなりひどい。うん、ひどいよね。数年前に遡ってみてもこの調子だから、上流へゆけば、押し流される前の世界が広がっているわけでもなさそうだ(Workflowyから考えるなら)。
 電車を降りる直前に読んだメモは、こうだ。「・皆が内心どうでもいいと思っているのに、皆その概念(たとえば行事とか)を重んじているのだろうと皆が信じているために、それに支配されてしまう。好きでもないアイドルのことを好きだと言った。ほんとうは好きじゃなかった。今すべきことは、自分自身を取り戻すことだ。証券外務員、勉強する。」これを一つの箇条書きの中に書き込んであった。好きでもないアイドル…の部分は、いつか恵泉女学園の学園長の文章で読んだくだりだったと思う。そして、証券外務員勉強する、である。やはりひどい。しかし、この混沌ぶりにはどこか野生味があって、ひどいけれどまずまず嫌いではないなと思ったりする。
 地下からえっとこえっとこ階段を登り、改札を出るとやはり夜になっていた。今日も、もう夜だ。とても寒い夜。自転車置き場へ向かって歩いていると、角を曲がってきた男性が突然、けっこうな大きさで唸るような声を上げたから、わたしは咄嗟に身を固くする。けれど男性は、しゃがれたバリトンで、わたしの知らない歌謡曲を歌い始めただけだった。チェスターフロッグコートを着た身なりのいい初老の男性。彼もまた野性味があって、実にいい。
 わたしは自転車置き場まで、野生の人間社会について考え始める。たとえば、こんな風に別の個体が突然声をあげたからと言って、いちいちビクリともしない時代というのもあったのだろうか。誰かが突然上げる声など、当然ながら歌声だと考えられた時代とか。あるいは、誰もが思考とからだの向くままに声を上げながら歩いていて、ウホホとかエホホとか意味なくギャーとか言いまくれた時代とか。そうしてやがて、共同体の成熟とともにそれらの行為は難しくなり、代わりに「祭り」が誕生する。そんな時間軸を想像しながら、わたしも少し大きめの声で「しょうけんがいむいん」と言ってみる。実に小気味いい。それっぽい開放的な言葉じゃないところも、いい。誰にも聞かれなかったと思っているけれど、きっとそんなはずないのだろう。わたしがあの男性の歌声をしっかり聞いていたように。皆そうやって、こそこそと野生を生きている。

【ゴールドのイヤーカフ 12月某日】
 今月半ばごろから、誰かのイヤーカフの映像が目の中にずっと残っているのだけれど、誰のだか思い出せない。ゴールドで、少し太めで丸みのある、何というか出来損ないのそら豆のような形で、そのひとの耳の少し凹んでいるところをイヤーカフが大胆に渡っていた。映像では、ショートカットの髪から耳が露わになっていて、黒いリブセーターが肩元に見えている。そのひとは俯いて口元は笑っているから、小さな子どもに語りかけていた母親なのかもしれない。イヤーカフからややずれた、こめかみの辺りにごく小さなほくろがあるけれど、それはきっと私が勝手に描き足したものだろう。そういうことは、わりとよくやってしまう。イヤーカフの記憶が断片になっているからといって、特に何も困らないのだけれど、何かの時系列が辿れないままになって、どこか釈然としない。
 わたしがサンタはいないと知ったのは、小学一年のクリスマスイブだ。あんまり長く信じていると虐められるというのが母親の考えで、わたしの「子ども時代のサンタ」の時系列はそこで途絶えている。母は私の両肩に手を置いて、きっぱりとその存在を否定した。兄はその傍らで、「ヱリちゃんに言うん?言うん?」と興奮していた。
 小学五年生のとき、友達の信じるサンタをわたしは真向から否定した。だから、サンタいないってば。いるもん。んもうっ、いないって言ってんの。いるもん。彼女は個人内世界崩壊の危機に瀕して、涙目になった。わたしもムキになり、半ば虐める側にさせられているような理不尽さに、涙目になった。その子が中学になって虐められているという噂を聞いたとき、「サンタを信じていると虐められる」という母の言葉はわたしの中で呪詛となった。言葉と事象を乱暴な理路でつなぐと、呪いは生まれてしまうものなのだろう。サンタがいるかいないか、思えば、あんなふうに白黒つける必要もなかったのかもしれない。
 私の目の中にあるゴールドのイヤーカフは、クリスマスシーズンらしく華やいでいる。それをつけていた友人もいないし、どこで見たのかはわからない。でも、イヤーカフは目の中でわたしの12月を彩っている。

 

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