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雑感 文学のふところは深い

ラノベでも純文学でもなんでもいいのだけど、
文学の本質っていうのは、「間違いうること」「間違いに進むこと」
の強さだというふうに思うんですよね…

合理的に考えたらこうするべき、
論理的に考えたらこうするべき、とか
そういう《べきの文体》が現実世界には蔓延していて、
だからこそ私たちは自由になれないでいる。

けれども文学の登場人物たちは
「間違っているのかもしれない、だけどその道を選ぶんだ。選びたいんだ」
という強さがどこかにあって、そんな彼らの不器用な自由に憧れてたりする。

あるいはこうかもしれない。
『人間失格』のようなだらしのない主人公。
どうしようもないと分かっていながらそこにとどまり続けてしまう弱さ。
その弱いままでいられる生き方に憧れているのかもしれない。

かといって、
世の中のしがらみに絡み絡まれ、持ちつ持たれつの私は、《べきの文体》が身に染みついていて、落ちることがない。息苦しいかもしれない世界。

そんな世界だとしても物語の主人公のような生き方はあるんだなあと、
そんな生き方に諦めがつかないでいる執念深さに、安心します。

ああ、私はまだ、彼らを理解できない人間にまでは落ちぶれていないんだ、と。

こんなことを書いてふと、『デンドロカカリヤ』(安部公房)という作品が思い浮かびました。人間が植物になってしまう病気。そんな病には抗うべきなのに、植物化する心地よさに抗えない「きみ」の物語。この作品のテーマは、プラトンの洞窟の比喩と重なるような気がしているんですが、おそらく気のせい。
完全な余談でした。こういう雑感というのも書いていこうかなーと思ったり思わなかったり。

ワダンノキ(デンドロカカリヤ)関東森林管理局フォトギャラリー