パーフェクトワールド

障害は日常に潜んでいる


どうも、野寺風吹です。

「パーフェクトワールド」というドラマを一気に見たので、それを見て感じたことを書こうと思います。

あらすじ

大学時代に交通事故にあい、脊髄損傷によって下半身不随になった建築士の鮎川樹。
高校時代のクラスメイトで樹が初恋相手だった川奈つぐみ。

『自分が障害をもった時、自分や愛する人とどう向き合うべきか?』
『愛する人が障害をもった時、自分や愛する人とどう向き合うべきか?』

障害を持つ人と持たない人がお互いに心を通わしていくにはどうしたら良いのかを探していく、そんな物語である。



▽自分の居場所

人に頼ることがあっても、頼られることってめったにないからさ。

障害者はやはり自分ではどうしようもできないこともある。
自分自身もそうだ。
でも、全部が出来ないわけでは決してないはず。
絶対にできることが必ずある。

頼られるということは自分が社会や周囲から必要とされているという感情にも言い換えることが出来る。
自分に期待してくれないということは自分が必要とされていないということにも繋がる。
つまり、自分に対する自己肯定感を下げてしまうのだ。

ヒトは社会性動物である。
孤独を感じてしまえば、社会に自分の居場所がないと感じる。
そして、生きている意味を失い、人生が窮屈になってしまう。
逆に言えば、居場所さえ見つけられれば、障害を持っていても幸せを感じることが出来るはずだ。
障害者に対する環境面でのケアで一番重要なことは、居場所や生きがいを見つけさせるということだと思う。


▽全部試しているか?

障害者だからしょうがないねって思われたくない。
そんな風に同情されて生きるのはもう嫌なんだよ。
(自殺しようとした樹に対して)
あなたはまだ喋れるじゃない。
目だって見えるし、耳だって聞こえる。手だって使えて、何よりこんなに頭がしっかりしてるのに死んじゃうの?
君よりひどい状態の患者さんたくさん見てきたけど、歩けなくてもできること山ほどあるよ。今はただ辛いだけかもしれないけど、リハビリ始めたら変わるから。私が保証する。
死ぬのはできること全部試してからでも遅くないじゃない。

私は先天性の障害なので推測でしか言えないが、とくに中途で障害を負ってしまった人は、障害を持っていなかった過去と障害を持っている現実とのギャップに苦しむことが多いのではないだろうか。

確かに、障害者にとって多くの健常者に比べて出来ないことが沢山あり、犠牲にしてきたものも数多くあることは間違いない。
けれど、生きている限り出来ることもある。
究極に言ってしまえば、何もできない状態というのは亡くなってしまった人にしか訪れないということでもある。

それを受け止めるのは難しい。
自分が不幸者なんだと思うこともできる。
でも、それ以上にいまを生きられなかった人もいるということも事実。
生きているからこそ、いまや未来に自分で活路を開いていくしかないのではと感じた。


▽障害受容とコンプレックス

障害を乗り越えるとか受け入れるとか無理なんだって。
そんなの何年かかかっても無理なんだって。
みんな平気じゃないけど平気な振りしているだけなんだって。
その通りだな。
晴人が言う通りですよ。
俺だって障害受容なんてできていません。
好きでこんなもん(車椅子)に乗っているわけじゃない。
歩けるもんなら歩きたいです。
障害を負ったからこそ学べたことは山ほどあります。
でも、だからって障害者で良かったなんて思ったことは一度もない。
なんで自分だけこんな目にって今でも思うし。
出来る事なら障害のない人生を送りたかった。
それが本音です。

健常者へのコンプレックスは一生捨てられない。
でも、俺たちだからこそできることもあるんだってことをお前にも実感してほしいんだよ。
障害受容なんて一生できなくてもいいよ。
ただ何か一つでも誰かの役に立っているって思えることがあれば、毎日を腐らずに生きていけるんじゃないか。
そのための努力はするべきなんじゃないか。

これを聞いたとき、自分も障害受容を本当にできているのか?と思った。
そもそも何をもって障害受容できたと言えるのか。
全く分からなかった。

自分も障害を持っていたからこそ得られた経験や考えはいくらでもある。
しかし、障害を持っていてよかったなんて思ったことはないからだ。
障害を持っていなかったら、「こんなこともできたのかな?」「こんな苦労することもなかったのかな?」って思ったりすることもたくさんある。

きっと自分も健常者へのコンプレックスは間違いなくある。
「聴こえなくても出来ることを証明したい。」
「聴こえないことを言い訳にしたくない。」

だからこそ、自分で考え、試行錯誤し、訓練し、自分でできることはできるようにやってきた。

その原動力の根底にあるのは、
まぎれもない健常者に対する、障害に対するコンプレックスなのではないかと、ふと思ってしまった。

それがいいのか、悪いのかはわからない。
しかし、自分がこれから進めていきたいと思っている共生社会において、自分の生き様と一番乖離している部分かもしれない。


▽障害者側が壁を作っていることもある

それっていっくん自身が壁作ってんじゃないの?障害持ってるほうが壁作ったら、相手は入ってこようにも入ってこれないよ?
その壁を取っ払うのが、心のバリアフリーってやつじゃない?

いま、東京オリパラが開催されることも相まって、共生社会という概念に関心が高まってきたことは感じている。
しかし、わたしは健常者側が障害者側に寄り添うという側面にばかりフォーカスされ過ぎているような気がしてならない。

確かに道ですれ違った赤の他人ならまだしも、職場の人間関係でも上手くいっていないケースも聞く。

本当に障害者側に問題はないのか?

そう思ってしまう。

そもそも障害がなくたって、その人を助けたいという気持ちがなければ助けようという気持ちにならないのではないか?と感じる。
仕事をずっとサボっている人や時間や約束を守らない人、ずっと愚痴しか言わない人を助けたいと思うだろうか?大半の人は思わないだろう。

結局は障害など関係ないのではないか。
その人を助けたいと思うかどうか、自分を好きでいてもらえるかどうかということが大切でなのではないか。
果たしてそれを行動に移せていると言えるのだろうか?

結局周りや社会を変える事よりも自分を変えるほうが早い。
「本当に自分に出来ることを最大限やったのか?」
愚痴を言ったり不満を言ったりするのは簡単だ。
それよりも、まずは自分にベクトルを向ける。
自分で他にやれることがないかを考えて行動に移していくことが大切なのではないだろうか。

▽対等な関係って?

(「健常者と対等になるには人一倍頑張らないと。」という言葉に対して)
たしかに、晴人にはわかりやすく"義足"っていうハンデがあるけど、誰だって弱点はあるじゃん。
弱点や欠点のない人間なんているわけないし、ってことはつまり、最初から対等なんじゃないの?
お姉ちゃんが鮎川さんを選んだのも、特別な覚悟をしたからじゃなくて、ただ好きで一緒にいたかっただけだと思うんだよね。

やはり、社会には健常者が強者で障害者が弱者という考え方が根強い。
障害者というと、すべてが出来ないようなイメージを持つ人も少なくない。
しかし、障害者が劣っているのは障害を負ったことで出来ないことだけであるはずだ。
出来ることだって間違いなくある。

それは健常者にも言えることである。
健常者も出来ることや出来ないこと、得意なことや苦手なことを必ず持っている。
障害者はそれが健常者よりもよりはっきりしているというだけのことではないか?

結局は人間はみな一緒で対等なのだと思う。

▽出来ないことを減らすことは出来る

(どうやってつぐみを守るのかというつぐみの父の問いに対して)
守れるとは思っていません。
でも、どうすればつぐみさんを守ることが出来るか。
どうすればできるだけ危険を避けられるか、前もって考えておくことはできます。出来ないことがあらかじめわかっている分、準備をしておくことは出来ます。

これは本当に重要なことだと思う。
自分と向き合い、自分の出来ることと出来ないことを整理する。
出来ないことを出来ないままで終わらせてはいけない。
「出来ないことを出来るようにする、出来ないことをできるだけ減らす」
ように考えることは出来るはずだ。

これも別に障害の有無は関係ない。
出来ないことを出来ないままでほっといては、それは永遠に解決できなくなってしまう。
だからこそ、ヒトは出来ないことに対してなぜ出来ないのかを考え、それを解決しようと実践するのではないか。

▽助けを求めることは恥ではない

鮎川くんは何でもひとりでできるって思い過ぎ。
そういうのって気遣いって言わないと思う。
これからも二人で寄り添い、支えあってまいります。
それでも足りない時は助けてください。
力を貸してください。

人は時には助けてって素直にお願いすることも大切である。
全部のことを1人で出来る人なんて絶対にいない。
そこで意地にならずに素直に他人の力を借りることも人生を生きるうえで立派なスキルである。

だから、出来ないことややってほしいことを自分からアピールすることも大切である。
いつか相手が理解してくれるだろうと"察してちゃん”にはなってはいけないと思う。

出来ないことや苦手なことを自分でやり切るよりも、それが出来る人や得意な人にお願いしたほうが効率がいいし、楽だ。
逆に、自分のできることや得意なことを代わりにやってあげれば、双方にとって良い関係になる。

私は、ギブアンドテイクの関係よりギブアンドギブの関係のほうが平和な世界になると思っている。
ギブをしてもらった人がさらに他の人にギブをする。
そうすれば、ギブが間接的に連鎖していくような関係になる。
一つのギブが間接的に大きな力になるのだ。

健常者が障害者に対して出来ないというイメージが強いように感じる。
それは、出来ることが限られている障害者を助けてあげた時に対するメリットが少ないと感じてしまうことも少なからずあるのではないかと考える。
つまり、ギブに対するテイクを期待しているからである。

でも、ギブだけで溢れている世界になればそんなことも気にしなくて済む。ギブを与え与えられた結果、最終的にはギブがテイクのように返ってくる世界が一番いいと思っている。

▽完璧な人間なんていない

完璧な人なんているのかな。
完璧じゃないから、人は一人じゃ生きていけないんでしょ?
だから、だれかが必要なんじゃないの?
僕には出来ないことがたくさんある。
彼女にも出来ないことがたくさんある。
健常者だろうが障害者だろうが、みな欠けているものがあって当たり前で
完璧な人間なんていない。
でも、その欠けている部分を補い合う支えあうことのできるパートナーや家族、友人を見つけるだけでこの世界は輝きを放つ。
これから先、いろんなことが僕たちを待ち受けているだろう。
でも、たとえどんなことがあっても二人で選んだ未来を
僕は、つぐみと生きていく。

結局、完璧な人間なんて存在しないのだと思う。
だけれど、目に見えてわかるというだけで健常者とは別物のように扱う。
障害は自分とは無縁で他人事だと思い込んでいる。
そんな風潮がまだまだ社会には根付いている。

目が悪くて、眼鏡をかけたりコンタクトを付けたりする。
勉強があまり出来ない。
運動が出来ない。
人間、苦手なことや出来ないことはいくらでもある。
障害もその中の一つなのである。

今は確かに五体満足の体かもしれない。
けれど、突然明日交通事故に遭ったり、病気になったりして障害を抱えるかもしれない。
年を取ったら身体機能が衰えて出来ないことが増えてくる。
いまにとらわれ過ぎて先の可能性を全く考えられていない。

明日には我が身かもしれないのだ。


まとめ


障害は日常に潜んでいる。

ひとりひとりがそう考えられるようになれれば、障害に対するハードルはぐっと下がるのではないか。


障害の日常化人を人として接することが共生社会を進めるうえでの一番大切な要素だと私は考える。

このドラマは車椅子生活の人をもとにしたストーリーである。
確かに障害の種類や程度によっても感じ方などは全く違ってくる。
障害が比較的軽い時分だからこそ感じている悩みや考え方もある。
けれど、共通している部分も間違いなくある。

ない障害を持つことは出来ない。
けれど、それを想像することは出来る。
寄り添うこともできる。


だからこそ、お互いの歩み寄りが大切なのである。

この記事を読んで、少しでも何かを感じられた人がいたら嬉しい。


野寺風吹
筑波大学4年 蹴球部所属
デフサッカー/デフフットサル日本代表
聴覚障害持ち

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