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気づいたら、同じ色ばかり集めているのは、色の養分を吸い取りたいから

物を買う時の基準は、なんだろうか?私は物を買う時にデザインを重視している。特に、色だ。というか、色しか見ていない感じもある。なんというか自分にしっくりくるものを、手に取るのだ。


好きな色がコロコロ変わっている。でも、自分に合うものなんて、そんなに変わるだろうか?店に行っても、ネットショッピングでも、結局、最初に「おっ!」と思ったものを、買うと失敗しない。身体が伝えてくれているのだろうか。


店に入る前の入口で、ふと目に入ったアイテムなども、あたかも「選びなさい」と言われているかのようである。普段は、そんなことを感じることもないのに。なんだか、目につくものがある。私の場合、一旦これと思えば、テコでも動かぬという感じ。そればかり見ている。


以前はピンクばかり集めていた。服も、小物も。なのに、ある日思ったんだ。ピンクの財布を見ながら、これ使いたくねぇな、ピンク着たくねぇな、って。別に誰かが「着ろ」と言ったわけでもないのに。


その頃は、フリルとかレースとかリボンが好きだった。頭を打ったのかと思うくらい、今の好みとはかけ離れている。むしろ、ピンクが嫌いなのだ。フリルとかは、言うまでもない。


その後に、青ブームが来て、青いものばかり集めた。青といっても、スカイブルーが好きだが、洋服ではあまり見当たらないので、ネイビーを自分の色にしていた。こうしていると、買い物で迷うこともなく、決断力が消耗しないで済む。


というわけで、私にはマイルールならぬ、謎ルールがいくつもある。ところが最近になって、緑ばかり集めたくなっている。緑のノートを見ると買ってしまうのだ。いや、まだ緑の別のノートがあるのに。


以前も、青と緑のどちらを買う?みたいなシチュエーションがあった。赤や黒など、他の色はすぐに消去法で消せるのに、最後にこの二色が残りがちなのだ。ただ、青ルールを採用していたので、ペンなども自動的に青になった。


ピンクと、青ブームがくる境目の時期に、茶色が好きだったけれど、好きじゃない茶色もあるから、なかなか好みの色に出くわさなかった。でも、秋や冬になると気になるのだ。


以前、パーソナルカラー診断を受けて、「茶色は似合わない」と言われてしまった。完全なるブルーベースだからなのだが。本によっては、ココアみたいな色なら似合うと書いてあることもあるけれど、なんだか謎に白けてしまった。


私が好きな茶色は、ココアとは少し違うのだ。でもまぁ、茶色は似合わなくても着ている。その頃は、茶色をこころの拠り所のようにしていたので、何を着て良いのか、さっぱりとわからなくなったのだ。


かといって、どうにも茶色を着る気持ちが削がれ、それが先生の発言が原因とも思いたくなかった私は、どうしたものか、と困ってしまったのだった。まぁ、このことをきっかけにして、不用意に自己分析を極めてしまうのは、幸せとは違うという自論に行き着いた。


例えば、当たる占い師がいるのなら、一旦手相などを見てもらいたいという気持ちがよぎることもあるのだけれど、世の中には知らないほうが良いこともある気がしてならない。未来予測本をついつい読んでしまうけれど、日本は衰退するし、特に若者にはキツいとか書いてある。


まぁ、その本は中年向けに書かれているのか、若者の辛さはどこ吹く風という感じ。だからといって、一個人にできることは限られているわけで、無闇に暗い気持ちになっても誰も得しない。

周りから評判が良くなくても、ファッションが好きな人は自分スタイルを貫いている。別に似合う似合わないは、どうでもいいわけで。ファッションは極めたら、かなり斬新になる。結局、私は妙に理性を保とうとしていたのだ。そんな紆余曲折を経て、青色愛好家となった私だったのだが…

青色の養分を吸い尽くしてしまったのか、緑が欲しくなっている。どうやら、自然の写真を見たり、緑色の何かを見るだけで、癒されるという論文があるらしい。最近は、フェイクグリーンを取り入れてみようかな、などとも思っている。そういえば、最近山の絵ばかり気になっている。論文で示されなくても、なんだか落ち着くことは自明だった。色の効果は、あると感じる。


ここのところマインドフルネスをしているからなのか、妙に自然に愛着を持ち始めている。どの街も、似たような商業ビルが立ち並ぶ均一さに、寂しさを覚えたりもして。

定期的にさっぱりと一新したいらしい。スマホのホーム画面も、意識してさっぱりとさせている。色を変えるのは、そこまで大変でもない。ただ、もう飽きちゃったのかい?と思うことはある。


好きじゃなくなっても、使えばいいじゃない、なんて言われることもあるけれど、私は無理だ。好きでなくなったら、一緒にいることが無理なように。なんか違う、はある日突然くる。


節目に、手帳を見返す。その年のマイブームや、wish listを書いているのだけれど、もう欲しくないものが多い。例えば、diorの口紅とか書いてある年もあった。不思議ですね、おんなじ人間でしょうか?と思ったりもする。本当に欲しいものと、マスメディアなどに翻弄されて欲しいと思わされているものの、違いを意識するようになった。


そういえば、ワンピースばかり着ていた時もあった。なんか一度ハマると、そればっかりしている。全く飽きることもない。でも、一度飽きると、それは一つの「死」のようでもある。ヒールの靴、何でか良く履いていた。それは可愛くなりたかったのか?とか、分析したりする。


大人の女性に憧れているうちは、なれないのだが。欲望を手放すと、あっさり叶うこともある。別にどうとでもなれ、と思えば、そんなに悪いことも起こっていない気がする。


今は可愛くなりたいとかは、考えもせぬ。少なからず、そこには他人軸があるように思えるからだ。

ただ、自分が認めれば良い。結局のところ、この世の中は、自尊心さえあれば何とでもなる。誰かに「可愛い」とか、「好き」とか言われたいと思うよりも、自分で毎日言えば良かろう。


まぁ、私は「可愛い」という言葉が、嫌である。問題は、みんなに「あなたは●●ですね」と、冷たい目線を浴びせられても、自分を信じることなのだ。自分でもわからん自分を、他人がわかるはずもない。

世の中、気持ちさえあれば、何とでもなる。けれど、気持ちを折るような文章たちに囲まれている日々の中だ。気持ちは弱々しく映る。

最近は不安定な世の中だからか、妙に強気な人がウケている。言いたいことを言えない人が多いからだろうか。偏った意見ばかりが、一人歩いている。みんなが発言できたならば、偏ったものなど、歯牙にもかけられぬであろうに。


わたしには世の中を一言で言い表す、「一言で斬る」みたいな、耳障りの良いことを言う人達が信じられぬ。そんなに、容易に例えられる世の中じゃない。簡単に「こうすれば良い」と言うけれど、それはあくまでその人の成功例の一つであるに過ぎない。忙しなく、他人の思考ばかりが入り乱れる。冷静に見てみれば、どうでもいい情報ばかり摂取していることがわかる。


たかが、100年くらいの人間がそんなに達観できているはずもないのに。何かに寄り掛かり過ぎるのは危険だ。人から学ぶのも良いけれど、自分を見つめ直す。まずは、立ち上がるところからだ。


また私の色の好みや、趣味は変わるだろう。大体、一年スパンで変わるから。次は何が来るだろう?と、呆れるよりも、楽しく考えてみよう。今は想像もつかないけれど、真っ赤な服を着ていたりするのかもしれない。


未来は、想像もつかない。人間の考えには限界があるのだから、わかるべくもない。ならば、今を生きるのみだ。

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