コロナ禍で、金銭感覚がまともになった私たちは、これから何を買うのだろう
コロナ禍で金銭感覚が冷静になった。以前は、今欲しいものは、今買わなきゃ、いつ買うの?という感覚だった。
たしかに、物との出会いには旬がある。早いうちに良品と出会って、ずっとそれを長く使い続けていきたい。「一生もの、の●●」が好きだった。
でもこういうものは素敵だが、高いのがネックだ。今でも、そういうものと巡り逢いたい、という気持ちは色褪せていない。
物が売れないというけど、不況のせいだけではない。
株価は上がっているらしいけど、全然実感が湧かない。価値観が変わってしまった。もうこれからは買わないな、と思うものもある。
毎日カフェに行っていた
以前はひと月ごとに、季節を感じる花を買っていたけど、一本400円が高く感じてきた。心に余裕がないと、季節を愛でることもできない。
今までチェーン店のドリンク一杯に、毎日払っていた金額だ。
そう考えたら恐ろしいけど、唯一のお金のかかる趣味だった。服も買うけど、たくさん買う派ではないので、買わない月もある。交際費はほとんどかかっていない生活をしている。コンスタントにお金をかけているのは、本とカフェ代のみ。
家ではカフェみたいに集中できない?
カフェでは読書がはかどるし、家では気が散って読めないと思っていた。しかし、コロナ禍のある日、家で読んだら、落ち着いて読めることが判明した。
カフェで、カキモリのノートに何かを書きつけるのが好きだった。だから、カフェ代は今でも浪費だと思っていない。ラテマネーなんてあたかも浪費の代表みたいに言うけど、カフェに失礼だと思う。
あんなに落ち着く環境に400円払うのは、そこまで高くない。今はほとんど、家でノートを書く。
手作りの机を作った。お気に入りの木で。その机を使うと、読書が捗る。ドリンクを自分で作るのは手間だが。
たまにカフェで書くと、インスピレーションが湧く。環境を変えることは大事だ。家だと、どうしても煮詰まる。景色が変わらないからだ。
外に行かなくなった
雑貨を買わず、食費だけの月も、普通にある。本当に何も買ってないんだな、とびっくりした。自動販売機やコンビニで飲み物も、ほとんど買ったことがない。
そもそもカフェか、スーパーくらいしか、外には行かない。最近はネットスーパーなど、通販が助かるので、活用している。
カフェに行かないと、必然的に外に行かなくなる。
本は好きだけど図書館も、地味に遠い。
重い本を何冊も、家まで運ぶのもある種の修行の一つだ。なんだか、二宮尊徳のような気分になる。もちろん、実際は全然違うと思うが。
もちろん本屋にも行く。普通の本はもちろん、図書館で気に入った本は、何回も文章を噛み締めたいから、買う。お金に際限なく買っていいのなら、平気で十万円以上、爆買いしてしまうだろう。
本にお金は惜しむな、と言われる。大事な投資だが、やはり私にとっては高い。悲しい事実だが、給料的に難しい。
何かを買う前に、本当にその価値があるのかと、自問自答する癖がついてきた。本当に欲しいものは金額を見ないで買いたいけど、0の桁が一つ多いこともあるから、そんなわけにはいかない。
節約は案外楽しい
レジ袋に5円を払いたくないから、忘れた日は、少し恥ずかしかったけど、抱えて帰った。たかが5円と言う人もいるだろうけど、一度okしてしまうと、芋づる式に自分に甘くなる。
クーポンや、ポイントカードがあれば必ず提示している。小学生の頃、主婦(主夫)雑誌の「すてきな奥さん」を読んでいて、幼ごころに節約テクが刺さった。
こうやって書くと、お母さんの影響ねぇ、偉いわねぇ、なんて言われがちだ。
ステレオタイプが激しい。うちの母はこういう雑誌を読むことはない。興味がないらしい。家族の中で、私だけが読んで、一人で節約に燃えていたこともある。節約って、スタンプラリーみたいで楽しかったのだ。光熱費を浮かした、10ポイントゲット、みたいな。
やらされる節約は辛いけど、主体的な節約は楽しい。
物欲をかき立てられる日々
好きな店のメルマガは楽しみだが、物欲が出ないようになるべく見ない。素敵なものが多い世の中だ。毎日、物欲は刺激される。
食べることは好きだけど、外食は、もう数えるくらいしかしていない。
ウーバーイーツや出前館などのサービスは、便利だけど、やっぱり高い。それに本当の都会なら、いざ知らず、意外に届けてくれる店が少なかった。
CMではこんなに美味しい店が取り寄せられるよ、って言うけど、全然家までは届かないエリアだった。なら、直接そのお店に行くよと思ってしまうから、CMで流すのは、逆効果な感じがする。
もっと届けてくれる店が、増えてくれたら嬉しい。もう半年くらい使ってないから、その間に増えている可能性もあるけど。
自分で作ってみよう
最近は、どこかファミレスなどに行く前に、
自分で作れるかも?と考える。
ついこの間まで、料理をしてなかった。というか料理が嫌いだったから(厳密には違うのだが、後日それは書く)、私には考えられない変化だ。
コロナが私を変えた。
自分で作ると、買ってくるのが高く感じる。
物によっては材料や手間などもあるので、安いこともあるけど。
例えばタピオカ粉からタピオカを作るのはめちゃくちゃ面倒だった。丸めて、茹でて、紅茶を作って…
タピオカは、作ったらすぐ食べないと風味が落ちるし、私の場合かもしれないが、一旦作ったものを冷凍しても美味しくなかった。
料理を作る手間を、ドリンクにかける必要がある。
タピオカ屋って原価安いし、儲かるよな、なんて言ってる人がいたけど、作ってみれば、原価だけじゃないってすぐにわかる。お気に入りのものを見せたら、うわ、そんな高いの買う必要あるの?もったいない、100均で買えるんじゃね?と言われる時もある。
私の周りには、辛辣な人が多い。値段は買う際の基準として必要だから、自分で高いかの判断するのはいいけど、人に値段でdisられるのは、おかしい。
仕事の手間は、搾取で可哀想だと以前書いたけど、自分が主体的に作る手間は、愛せる。
やらされているわけじゃないから。もちろん手間では、ある。なので、俺に作れよ、っていう人は勘弁してほしい。自分のために作るのと、作らされるのは全く違う。
美しさだけが求められている世の中
フルーツが高くなった。
好きだったので、悲しい。
昔は毎日のように食べていたけど、最近では高級品。スウィーティー、とかオレンジが安かった記憶だ。
今の商品は、何でも見た目が綺麗だ。整ったものが同じ顔をして画一的に並んでいる。綺麗じゃなくていいから、安いのが欲しいけど、近くでは流通していない。
不揃いの花を100円で買える店がある、という記事を見たけど、そんな店が近くにない。
今までは整っていないものは、廃棄されていたようだ。食べ物もそうだが、ちょっと形が良くあるものと違うだけで、捨てるなんて浅ましい。
整っているものだけが、素晴らしいのか?
なんだか綺麗でいることを求められているみたいで、息苦しい。これは「整っている」という基準がなければ、そんな発想にならない。つまり、私たちは、何が美しいかを知り過ぎている。
美の基準は違う
勝手に、美の基準を決めないで欲しい。人の容姿に対する基準も時代や、国によって違う。眉毛が繋がっている女性が美人だという国もあった。日本人にとっては斬新な発想だ。人によっても違う。
美しいことに縛られるのはナンセンスだ。それは周りが査定してくるのではなくて、自分が見つけるべきなのだ。
きゅうりのブルームは美味しい証拠なのに、見かけが美しくないと嫌がる人もいる。そういう発想を極めてしまうと、気分が悪い。
削れるものは削っている。
ただ、10円、20円を削ると、精神的に疲れることは知っているので、あまり根を詰めないことも大切だ。
削るのはいいのだけど、増やすのは難しい。
お金は増やすか、支出を抑えるか。
増やすには給料だけでなく、印税のような形や、ビットコインや株などの投資もある、とマネー本にあった。
増やすことばかり目がいきがちで、そういう本が売れているけど、減らすことも大事だ。
しかし、地味で堅実的すぎて減らす本は売れなさそうだ。
食べるものに頓着しなければ、あまり稼がなくても、生活はできる。しかしあまりに簡素で、人生の楽しみがない。その反面増やすのは難しい。
足るを知る、ということなのだろう。
もう少し肩の力を抜いていい
もちろん、お金を使わなくても、楽しみや幸せはあるはずだ。それは事実だけど、ある種の詭弁のようにも思う。ある程度のお金を稼いで、贅沢をしなければ、案外お金を使わなくても、平気でした、なんて言えない。
使ったことがない人は、お金だけじゃないよ、そうやって言い聞かせることで、気分を紛らわせる。
そうして、毎日を生きている。最近、街を歩いていると思う。みんな偉いなぁ、頑張っているなぁ、凄いなぁって。
大変なことも多い世の中だから、もっと肩の力を抜いてもいいんじゃないか、って。寄りかかれる人はいるのかなぁ、って。皆様、今日も一日お疲れ様でした。
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