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宇宙人でも死なない



劣等感や無力感との付き合い方


地球人のみなさん、こんにちは。不可逆です。


今まで言ってなかったんですが、私、宇宙人なんです。


ぽかんとしていると思うので、ちゃんと説明しますね。

今回のテーマは、劣等感や無力感との付き合い方です。昨日更新した「怒られても死なない」でも少し触れた問題ですが、まだ書き足りないことがあったので、今回はそれを中心に取り上げたいと思います。


まずはこちらの文章を読んでみてください。

 宇宙人が出てくる児童書の中に、ある宇宙人が家族で地球へ越してきて、ばれないように人間の姿になり、洋服を着て、ニンゲン語をしゃべり、商店街の人たちと少しずつ仲良くなっていく、という内容のものがあった。他にも、地球人としてばれないように振る舞う宇宙人は本の中にたくさんいた。
私は、彼らに奇妙な共感を抱いていた。私自身も、幼稚園で、学校で、「地球人っぽく」振る舞っている、という感覚があったからだ。

村田沙耶香『信仰』(文藝春秋)所収
「彼らの惑星へ帰っていくこと」


小説家である村田沙耶香さんの「彼らの惑星へ帰っていくこと」というエッセイにある一節です。村田さんは幼い頃から異常に内気で繊細な子どもで、集団の中で異物とならないよう、まわりの子どもの真似をして、必死に目立たないように振る舞っていたのだそうです。

「地球人っぽく」振る舞っていた村田さんにとって、まわりを歩き回っている地球人よりも、イマジナリー宇宙人(空想上の宇宙人の友達)のほうが身近な存在でした。自分は遠くの星で彼と一緒に住んでいて、必要のあるときだけ地球へ来ているのだ、と空想をしているのです。

村田さんは、はじめ自分のその行為を逃避だと思っていました。しかし、「自分は宇宙人なのではないか」という空想をしている人が世の中には意外と少なくないかもしれない、と気づいたエピソードがエッセイの中で語られます。

この発想にヒントがあるのではないか。ということで、今回は「私は宇宙人だ」と考えてみることで、まわりの人と自分が違うことへの劣等感や無力感を少し軽くできるかもしれませんよ、というお話です。



「人間のふり」をしている人たち

世の中の意外と少なくない人が、目に見えない宇宙人に救われているのかもしれない。村田沙耶香さんがそのことに気づいたきっかけは、大学の講義でした。詩の授業で先生がこう言ったのです。


「僕は自分を宇宙人だと思っていた。窓の外で木が揺れたり、葉が擦れる音がしたりするのを、宇宙から自分へのサインだと感じた。宇宙人だから自分はこんなにも生きづらいのだと思っていた。僕の本当の仲間がUFOで自分を迎えにくるのをずっと待っていた。そういう人は意外と多いのです。僕と同じ人はいますか?」

同上


この先生が言った通り、たしかにこういう考え方をして生きている人間は少なくありません。

例えば、歌人の石川美南さんの短歌にもこんなものがあります。


人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす

石川美南『離れ島』(本阿弥書店)


仕事から帰ってきて、鏡の前で睫毛を一本一本外す人の姿が脳裏に浮かびます。人間のふりをするのは難儀だなあ、と、少しずつ体のパーツを外していくと、本来の宇宙人の姿があらわれるのでしょうか。

疲れて帰ってきた女性が睫毛を抜いているだけ、というふうに読むこともできますが、「睫毛一本一本はづす」というところに、得体のしれない別の姿がその下からあらわれるのではないかという不穏さが滲んでいます。

自分は異物だと感じながらずっと生きてきた、だからこうやって人間のふりをして生きていくしかないのだ、という諦めがそこにはあるように思います。しかし同時に、この一首を包んでいるのは絶望ではなく、それでも淡々と人間のふりをしながら生きていくしかない、という生活の確かな手触りではないでしょうか。


また、こんな漫画作品もあります。資生堂の企業文化誌「花椿」で連載されていた、はるな檸檬さんの「ダルちゃん」です。



主人公、丸山成美は24歳の派遣社員ですが、これは実は仮の姿で、本当の彼女はダルダル星人のダル山ダル美なのです。彼女は毎日一生懸命シャワーを浴びたり化粧をしたりして、なんとか人間に擬態して過ごしています。

この漫画も、自分がまわりの人間と違う異物だと感じて、人間に擬態して生きてきたダル美が、実は自分と同じような宇宙人が世の中には隠れているのだと気づくという物語です。

単行本にして二巻で完結というそれほど長くない作品ですが、共感できることが多くて、私は何度も泣いてしまいました。


こういうふうに、「人間のふり」をしているという意識を感じたことがある人は、案外少なくないのではないかと思います。それは多くの場合、生きづらさや孤独を伴っています。けれども私はそういう生き方を、村田沙耶香さんやダルちゃんのように肯定していこうと思うのです。

そしてむしろ、その考え方は、絶え間ない競争に無理やり参加させられるこの社会で劣等感や無力感に悩まされている人にとっては、処方箋にすらなるのではないかと思うのです。




優劣思考という呪いを解く

この「死なないマガジン」では、「呪い」という言葉をよく使います。いつかそれについてもテーマに取り上げて詳しく書こうと思うのですが、呪いとはつまり、思考が言葉そのものに乗っ取られてしまうような言葉のことを指しています。

例えば、日本の多くの人間にかけられているのが「勝ち組」「負け組」という呪いです。これらの言葉は、勝ち組になるために努力しなければならないという焦燥感と、負け組になったらおしまいだという不安を人々に植え付けています。こういう言葉が広まり、人々の意識に刷り込まれることによって「人生は勝ち組になるか負け組になるかのどちらかしかないのだ」といった誤った考え方が増えると、競争社会はさらに加速して苛烈さを増すことになってしまうのです。

「勝ち組」「負け組」という言葉は、すべての人間をその二つに分類できるかのような錯覚をもたらします。しかし、実際はそうではなく、そのどちらにも当てはまらない生き方を選ぶことは可能です。勝ち組か負け組かなんてどうでもいい、と拒絶する生き方はできるのです。思考を乗っ取ろうとする言葉のマジックに騙されず、思い込みを外して自分の人生の選択肢について考えることが大事です。


さて、障害や病気などを診断されると、自分の生きづらさに名前がついたことにほっとする人もいる一方で、病名を背負っているということは自分が劣った人間なのではないか、という考えにとらわれてしまう人もいます。

このように「自分は劣った人間なのではないか」と考えてしまうのも、競争させられ続ける社会の中で「人間の価値には優劣がある」という思考を刷り込まれてかかってしまった優劣思考という呪いです。

この優劣思考の呪いを解くためには、「人間のふりをしている宇宙人」という精神的なセットが有効なのではないか、というのが今回の要点です。

つまり、「私は劣った人間だからうまくできない」と考えるのではなく、「私はみんなとは違う宇宙人だから、うまくできないことも多いのは当たり前だけど、がんばって人間のふりをしている」と考えてみるのです。

すると、別にもう彼ら人間に対して劣等感なんて感じる必要はありません。

どうやら人間は、目立つ個体を集中攻撃する習性があるらしい。よし、目立たないようにしておこう。少しでもはみ出すといちいち指摘されるから、他の人をよく見て真似しよう。できるだけみんな同じになろうとして、人間って変な生き物だなあ。へえ、褒められる人はああいう風に提案するんだな。真似してみよう。

そんな風に人間を観察しながら、擬態していることがバレないように生活すればいいのです。

そういうふうに自分自身を異物として捉えて、異物であることを受け入れると、気持ちがすごく楽になります。自分のことを「人間の中で劣った個体」だと思い込みながら生きるのではなく、人間とは違って当たりまえな「宇宙人」として、人間に擬態しながら生きていくこと。それは、優劣思考を解除するために有効なヒントになるかもしれません。

自分のことを、まわりとは違う異物だと自認するのは孤独に感じるかもしれません。でも、同じように宇宙人みたいな気持ちで、誰ともわかり会えないという気持ちを抱えながら生きている人と出会うことは珍しいことではありません。

『ダルちゃん』でも描かれたように、そうした出会いがあって初めて、「普通」という呪いも解けるのではないでしょうか。誰もが普通じゃなくなることに怯えていて、なんとか普通に見られようと必死になっているけれど、「普通な人間」なんて、この世に一人もいないのです。「普通」は幻想にすぎません。どんな人間も、どこかいびつで歪んでいて、でもそれこそがその人間の個性です。



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