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鬱で死なない(前編)

こんにちは。今日は鬱について書こうと思っています。

実は数日前からこの「鬱で死なない」を書こうとしていたのですが、ちょうど私にも鬱がきていて、文章が支離滅裂になってうまくまとまりませんでした。今ようやく落ち着いてきたので、あらためて書いてみようと思います。

鬱のとき私は気を抜くと思考が観念的になりがちなので、あまりそうならないように、あくまで「死なない」ために鬱について何が語れるのか、ということを書いてみます。





鬱は人それぞれ

まずはじめに言っておくべきことですが、鬱になったときの苦しみは人それぞれで、全員に効く処方箋はありません。

私の場合は鬱のとき、観念としての「死」や「虚無」に囚われます。私にとって、鬱の辛さは完全に精神的なものです。そのせいで仕事などに支障が出ることもありますが、最近はそういうときの誤魔化し方も覚えてきたおかげで、そういった副次的な影響はあまり気にしなくなりました。

しかし知人に話を聞いてみたところ、彼女の場合、気力が奪われることによって、現実の生活がうまく回らなくなってしまい、そのせいで自己否定に陥る、という悪循環の部分に主な苦しさがあるようです。

このように、鬱の体験の質は人によって違うものだろうと感じています。しかし、その根源にあるものはやはり同じなのではないか、とも感じます。



退屈が鬱になる

なぜ鬱になるのか、というのは科学的に完全に解明されているわけではないようです。セロトニンやノルアドレナリンなど、気分や感情に影響するホルモンの低下によって起こるとした「モノアミン仮説」が長い間有力でしたが、近年では、疑問視する声も大きくなっています。

確かに、鬱状態のときセロトニンなどの脳内ホルモンが分泌されにくくなっているような気はします。しかし、それが根本的な原因なのか、という点では疑問が残ります。

私の個人的な実感としては、鬱のメカニズムは、もっと人間の「意識」のあり方と深く結びついているように感じます。

結論から言うと、私は退屈が鬱になるのだと思っています。ちなみに、坂口恭平さんも同じことをよく言っています。



注意してほしいのは、「退屈」と「暇」は違うということです。退屈とはやることがないことではありません。つまらない仕事をしているときは、暇ではなくても退屈に感じますよね。

退屈とは、現在の自分の目の前にある事柄が私の興味を惹いてくれない状態です。だからたとえパーティーの最中でさえも、その空間に飽きて興味を失えば退屈します。つまり、退屈とは現在の否認です。

すると人は普通、別の場所へ移動したり、なにか新しく興味を惹くものを見つけたいという欲求が湧いてきます。「ここではないどこか」への希求と言ってもよいでしょう。そうして退屈を解消しようとするのです。

しかし、退屈から逃れるためになにか熱中できる他のことを探しても、何に対しても夢中になれないときがあります。そういうとき、人は鬱になるのです。



やることの孤独

上にリンクを貼ったインタビュー記事の中で、坂口さんはこう言っています。

 たぶんいまは、「関係の孤独」と「やることの孤独」があるんですよね。生活していく上での人間関係の孤独だけでなくて、本質的にやることがなくなってきて、みんな時間との関係も空っぽになっているんですよ。

本質的にやることがなくなっているのは、現代の社会構造が抱えている根本的な問題だと思います。産業革命によって人間の代わりに仕事をしてくれる機械が登場して以来、人間は「私がやるべきこと」を「私がやらなくてもいいこと」に変えてきました。洗濯機ができて、衣類を自分で洗わなくてよくなったり、コンビニができて、ご飯を作らなくてもよくなりました。最近ではAIが登場して、文章さえ自分で書かなくてよくなりました。

やらなければならないことが根本的にないということ、それが現代社会がはらんでいる「やることの孤独」の問題だと思います。



すべては気晴らしに過ぎない

「やることの孤独」の問題を、現代の社会しか知らない私たちは自覚しづらいのだと思います。

やるべきことが何もなくなってしまったことがなぜ問題なのかというと、それはつまり、あらゆることが気晴らしに過ぎなくなってしまったからです。


やるべきことが生活の時間の大半を占めていたときは、今ほど多くの余暇はありませんでした。しかし、そのぶん「しなくてもよいことをする」ことが息抜きや気晴らしとして機能していました。やるべきことがたくさんあるからこそ、やらなくてもよいことをあえてするのが気晴らしになるのです。

しかし今では、仕事さえも「これが私のやるべきことだ」という確信をもって働いている人などほとんどいないのではないでしょうか。私のいまの仕事も、私にとってその仕事でなければならない理由は何もないし、私がやめたとしてもすぐに別の人員が補充されるだけです。

つまり現代では、私たちは無数の「私がしなくてもよいこと」の中から、やりたいと思うことを選んで生活の時間を埋めていかなければなりません。絶対にやらなければならないことは何もないのに、時間だけはたくさんある。それを、気晴らしで埋めていかなければならないのです。


ひねくれた言い方をすれば、私たちに課せられたたったひとつのしなければならないことは、気晴らしをして、退屈から逃げ続けることです。それは現代の人間が本質的に具体的な「やるべきこと」をもたないからなのです。

消費社会はそこへ、よりどりみどりの気晴らしを提供してくれます。SNSに流れてくる広告を見ていると、本当にあらゆるものが気晴らしとして商品化されていることを実感できます。

映画やバラエティ番組といったいわゆる娯楽だけでなく、コンビニの新商品、マッチングアプリや転職サイトなど。食事も恋愛も仕事も、なにもかもが飽きたら新しいものに乗り換えられる気晴らしとして用意され、人々の前に差し出されているのです。



消費が気晴らしにならなくなる

長い人生の時間を気晴らしで埋めていかなければならない。といっても、かつてはそれは大きな問題とは考えられていませんでした。高度経済成長期には、社会がどこまでも発展し続けるという期待にみんなが胸を膨らませていて、暗いことなんか考えずに楽しめばいいじゃん、という空気があったのです。

バブル期になるとその勢いはヒートアップしていきます。とにかく消費をしまくって、贅沢を楽しむことが一番の気晴らしになった時代です。しかし、やがてバブルは崩壊します。なぜバブル崩壊が起こったのか、経済学的な理由はいろいろと説明できるのでしょうが、人々が消費に飽きて退屈してしまったということも、見逃せない大きな要因ではないかと思います。

バブル期には、安いものよりも高いもののほうがよく売れました。商品そのものが自分にとって必要かどうかは二の次で、高い値段のついた「価値」を消費するということ自体が気晴らしとなっていたのです。それではなにを買っても体験の質はいつでも同じで、常に「高価なものを買った」という実感しかありません。飽きるのは当たりまえです。


バブルは崩壊しましたが、本質はなにも変わっていません。それどころか、もはや人々はバブルの頃のようには消費に夢中になれないので、状況は悪化しています。だから鬱の症状を訴える人々が増えているのも当然のことです。

やるべきことが依然としてなにもないので、退屈しないためには気晴らしが必要です。だから消費社会が提供してくれる気晴らしを次々と選んで消費していくのですが、だんだん、そうやって延々と新しい商品を消費し続けるという変わらない状況に退屈してくるのです。

そうなってしまうと、Netflixでどの映画を観ようかといくらスクロールをしても、どの映画もつまらなさそうに見えてきます。そのとき私は映画の内容に興味がもてないのではなく、根本的な人生の無意味さから目を逸らすためになにかを消費し続けるということの繰り返しに退屈してしまっているのです。



消費に退屈したらどうすればいいか——二つの実践

消費することを社会から急かされ続けて退屈してしまわないために、ここで提示できる実践がふたつあります。

一つは、消費ではなく浪費をすることです。これは哲学者の國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』の中で示したことを参考にしています。

浪費とは物事を贅沢に味わっている状態のことです。映画を見て心から感動したり、料理を食べてその味わいの繊細さに驚いたりしているとき、私はその物事に夢中になっています。そのとき、私はその物事から、情報やメッセージをしっかりと受け取ることができていると言えます。

浪費が「贅沢に味わうこと」であるのに対して、消費は「いろんなものを次々と味わおうとしすぎて、何も味わえていない状態」です。

例えば「ファスト映画」が少し前に話題になりましたが、あれは時間をかけずに話題の作品を観た「ことにしたい」という願望の表れです。SNSで話題のスイーツを買って、写真を撮って投稿したあとは残してゴミ箱に捨てる、という行為も同じです。これらの行為は現代の「消費」の特徴が特に顕著に現れた症状であると言えると思います。

そういった行為は、「商品を消費した」というタスクを消化しているだけで、実際には何も味わっていないのです。つまり、消費と浪費、という対比で考えると、消費とは物事を過剰に受け取ろうとして、すべてを受け取り損ねている状態です。

また、ファスト映画などの極端な消費行動には「時間不安」からくる焦燥感を見出すこともできます。消費ばかりしていてなにも味わえていないせいで、時間がいまも刻一刻と流れて去っていて、砂時計の砂が落ちていくように、未来の残された時間がどんどん減っていっている、ということに対する不安ばかりが強く意識されてしまうのです。だから、タイムパフォーマンスを重視して、もっと効率よくいろんなものを消費しなければ、と思い込んでしまうのです。

しかし、このような消費を続けていると、必ず「消費すること」そのものに退屈します。だから、そうではなくて、贅沢を取り戻し、物事をちゃんと味わえるようにならなくてはならない、というのが國分さんの提示した結論のひとつでした。


とはいえ、贅沢を取り戻し、消費ではなく浪費をすることだけで解決するのでしょうか。そうは思えません。物事を浪費できるようになったとしても、それはなお「しなくてもよいこと」の中からなにかを選んで気晴らしをしているに過ぎません。その根本的な人生の空虚さに耐えられないときが、かならず来ると思います。だから、もう一つの実践が必要になります。

坂口さんは、先のインタビューで、退屈が鬱になる、ということを踏まえて「一生かけてできることが必要だ」と言っています。

一生かけてできることを見つけること。それがもう一つの、そして本命の実践です。それは、やるべきことを自分で作るということです。坂口さんにとってそれは創作活動でした。

一生をかけて何かをするためには、継続することが必要です。しかし、消費社会は基本的に、人々がなにかひとつのことをし続けるのを嫌います。消費者がずっと同じ映画ばかり観たり、同じゲームばかりしていては新しい商品が売れずに困ってしまうからです。

消費社会の基本戦略は、消費者の手元にあるものを否定し、消費者がまだ持っていないものの価値を高く見せることです。「まだそんなもので満足しているんですか? この商品のほうが何倍もすごいですよ?」と。それにつられて、私たちは次々と新しい商品に手を伸ばす癖がついてしまうのです。

そういう社会の中に生きていれば、物事を継続する能力は落ちていくに決まっています。なにかをやってみてもすぐに飽きたり諦めたりしてしまうと、それはやっぱり「自分のやるべきこと」ではなかったんだ、ということになってしまいます。

だから、消費社会に促されるままに次々と新しいものを消費し続けるのを自制して、継続する方法を学ばなければなりません。

坂口さんは最近「継続するコツ」という本も出しました。継続することについて坂口さんほど実践的に考えている人はいないと思います。すごく参考になったのでおすすめです。


現代の私たちははじめから空っぽな人生を与えてられているので、自分でやるべきことを作るしかありません。結局のところ、それが鬱に対する最も根本的な治療であると思います。



さて、普通に生きていく上では、ここまでを一応の結論としてもよいと思います。しかし、ここまでは鬱になるのはなぜか、どうやってそれに抗うか、という話がメインだったため、鬱というよりも退屈に焦点が当たってしまい、鬱とはなんなのか、その本質にいまいち迫りきれていないように感じます。

そこでここからは、もう少し私自身の鬱に潜って、鬱の一番どん底がどんなふうだったかを記述してみようと思います。

しかし、ここから話がかなりややこしくなるので、今回はいったんここで区切って、続きは後日、後編として載せることにします。ただ、できればここから、最後にもう一つ別の結論に辿り着きたいと思っています。

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