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すっかり忘れてしまえるのが「いいおもてなし」だと思った

トモさんのクッキー缶をあけると、プレゼントを持ったふたりのねこが出迎えてくれる。季節によって胸には花だったり、イチゴだったり、ナッツだったりをぎゅっと抱えている。ねこに目を奪われていると今度はシュガーとバターの香りがふわっと顔に届く。そうだこれはクッキーだったと思い出す。

「缶を開けたときの甘い香りが好き。すごくしあわせな気持ちになる。これをそのまま箱に詰めて届けたかったんだ」

とトモさんは教えてくれた。

僕の両親と末の妹が東京に遊びに来たときも、トモさんは二日かけて準備をして、フルコースみたいな料理をふるまってくれた。人見知りなトモさんは、美容院で髪を切ってもらっているときはずっとスマホで料理の写真を眺めていた。

「この盛りつけかわいいな」「みんなお酒が好きだから、お酒に合うものにしよう」「このあいだ行った『星のや東京』のアミューズ・ブーシュがおいしかったから挑戦してみようかな」といっぱいたまったアイデアと思い出と、そして経験と技術とを混ぜ合わせて、想像をふくらませていた。美容師さんとはいつもどおり、ひと言の会話もなかった。

一緒に住んでもう6年になるこの部屋に、ここ数年は人を招いていない。ひさびさの来賓のために僕ができることは掃除くらいだ。この機会にしっかり綺麗にしようと意気込んだ。しかしいざ人に見られると考えると、ふだんなら目につかない汚れが気になってくる。

照明に積もったすごい量のホコリに気づいて天井をぐるっと見渡すと、猫のこてつが端っこを噛みちぎったブラインドや、ドアの上の換気窓のサッシや何年も動かしていないエアコンに、びっしりこびりついた汚れが目に留まる。

「この汚れは掃除機では吸えない。特殊な洗剤を使わないと取れないぞ……。これは果たして、当日までに終わるんだろうか……」

実際に手を動かしてみてようやく、やるべきことの量と残された時間の短さを身体が理解しはじめた。

今年の2月、神奈川に住む上の妹に男の子が生まれた。宮城の両親たちが初孫の顔を見に来ることになり、沖縄で妹が結婚式を挙げて以来、2年ぶりに家族みんなが顔を合わせることになった。「せっかく東京まで行くなら、トモさんのクッキーづくりの工房がみたい」という両親の希望で、初日に神奈川で孫を愛でたのち、2日めは上板橋にあるトモさんの工房を見学し、そのあと我が家でトモさんの手料理をいただくというツアーが組まれた。

この話が出たのは4月ごろで、両親がこちらに来るのは6月に決まった。4月と5月は十分な時間の余裕を感じ「ひさしぶりでなんだか照れるな」「よし、部屋をきれいにしなきゃな」などと自然に思えていた。しかし、6月に入ったとたん、

「ああ、もっと早く掃除にとりかかるべきだった。そもそも、どれくらい綺麗にすればクリアなんだ? 親なんだから見栄を張る必要ないんじゃないか? もたもたしていたら、ちょうど忙しい時期とかぶっちゃったなぁ」

そんな後悔が山のように押し寄せてきた。

僕がやるべきことは部屋の掃除だけだ。トモさんにはもっと複雑で大変な準備があるはずなのに、余裕の表情でうきうきとしている。

僕の中で、おもてなしの気持ちが少しずつ焦りから後悔に、そして何かの犠牲になっているような感覚へと移り変わっていく。

「ああ、僕というやつは親に対してまで、どう見られるかばかりを気にしている」

そう気づいたとき、乾いた笑いがこぼれた。

僕のおもてなしには「喜んでほしい」という純粋な思いだけでなく「よく思われたい」「悪く思われたくない」「貸しをつくりたい」などの余計な思惑が混じっている。見返りを期待するならば、それはおもてなしではなく取引だ。

そんな思いが絡むのは、裏に「損をしたくない」「いいように利用されたくない」という恐れがあるからだ。そしてトモさんには、そんな怯えが全然ないようにみえる。

知り合って間もないころは、ほとんど何の計算もしないトモさんの生き方はなんだか損をしているようにみえた。「そんなに時間をかけて用意をして、相手は何を返してくれるの?」「もっとちゃんと交渉しないと、いいように利用されちゃうんじゃない?」などと思うことがよくあった。

でも、10年以上トモさんを身近に見てきて、その考えは杞憂どころかまったくの的外れだとわかった。たしかに、トモさんが安く請け負ってくれることを期待して仕事を依頼してくる人もいた。でもそういった人たちは、トモさんとなんとなく空気が合わずに、少しずつ離れていなくなっていった。そしてトモさんの周りには、いつの間にか「この人をいつでも助けたい」と思ってくれる仲間だけが残っていた。

僕も含めて、トモさんと仕事をする人はみんな「トモさんに何か頼まれたい」と感じている。僕の家族もみんなトモさんのことが大好きで、実家を改装して工場にするという僕らのアイデアが実現するのを楽しみに待ってくれている。工房のオーナーさんもいろいろな相談に乗ってくれたり、トモさんの背中を押したりしてくれる。イベントに参加するときには、売り子を手伝ってくれる友達もいる。

おもてなしは、やってあげた側もあげられた側も、その場で「ああ楽しかった!」「すごく助かった。ありがとう!」をひとしきり感じたあとにはすっかり忘れてしまうくらいでいいんだと思う。

そのときに生まれた感動は、記憶ではなく魂に残る。それはたとえば旅行先の土産屋でふと相手の顔が思い浮かんだり、その人が困っているときには自然と声をかけたくなったりするような形で甦ってくる。トモさんのおもてなしは、そんなふうに人の心の中にあり続ける。

見返りがないかもしれないことや、いいように利用されてしまうかもしれないこと、損するかもしれないことを考えないようにしても、怖さは自然とわきあがってくる。心の中に疑いや懸念があってもいい。ただ、その恐れと一緒に「喜んでほしい」という思いもたしかにあることを忘れないでいたい。

その気持ちに意識をあてながら、その仕事で喜ばせたい人を思い浮かべながら手を動かす。すると、損得ばかりを気にしていたときには得られなかった感覚が全身に宿る。

後日、末の妹から宮城のお土産がたくさん入った詰め合わせが送られてきた。「トモさんの料理にとっても感動しました。ありがとう!」と書かれた手紙が入っていた。

うふふ、よかったと笑って今日もトモさんは、溢れんばかりのおもてなしをクッキー缶に詰めるべく工房へと出かけていった。


読みたい本がたくさんあります。