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「仕事より大切なこと」の見つけ方

自分にとっての「いい一日」は、どんな日のことをいうんだろうか。

特別ではないけれど、「こういう日が続けばいいのになぁ」と思えるような一日って、どういう形をしているんだろうか。

何気なく想像してみたけど、ぱっと思い浮かばない。あなたはどうだろう、すぐに思い浮かぶだろうか。


「いい一日にしたい」といつも思っているくせに、僕は「いい一日」のことを全然わかっていなかったことけっこう驚いてしまった。



「いい一日」に必要な条件があるとしたらそれは何だろう。そう考えてみて、

「そういえば文章を書けた日は気分がいいな」

と思った。でも、書ければ何でもいいというわけでもなさそうだ。

書くだけじゃなく、書き上がったら嬉しい。ポイント加算。
それがたくさんの人に読んでもらえたらもっと嬉しい。ポイント加算。

こんな感じでポイントが加算されていって、一定値を超えると「いい一日」達成!となるとか。


いや……これは違和感がある。

たしかにこんな感じで一日を採点しているときはある。めっちゃある。

でもこれは、なんだかやっちゃいけないことのような気がする。


私は文章を書き上げるのに何日もかかる。公開ボタンを押した日だけが「いい日」になるなら、それまでの書いては消し、消しては書きを繰り返した日々は「いまいちな日」になってしまう。しかもようやく書き上げた文章も、多くの人に読んでもらえるかどうかは運次第だ。

この加算法で「満足な日々」を送るには、毎日記事を更新して毎日バズらなきゃならない。それができないなら、99%の日は「いまいちな日」として暮らさなきゃならないことになる。それはイヤだな……。

でも気づいたらこの加算法で満たされない日々を送ってるから怖い。

気づいたらひたすら承認欲求ガチャを回してたりするから恐ろしい。

「いい一日」を取り戻すにあたって、とにかくまずはこの加算法から脱却するのは必須条件のようだ。

創作が完成したときの達成感や承認欲求はおまけくらいに考えて、我々はあくまでも創作行為そのものにフォーカスをあてなければならない。



次は創作からちょっと離れて、仕事について考えてみる。自分にとって書くことは、創作であり、仕事でもあるからだ。

仕事は創作とは違う。創作は自由だが、仕事はお金を稼ぐために人と協力したり、自分のやりたいことを我慢したりする必要があるから、自由ではない。

自分にとっての「書く」は、最初のうちは創作成分多めだが、だんだん仕事成分の比率が高くなっていく、という感じがする。

この創作/仕事は、どこで切り替わるんだろう。



誰にもみせない文章を書くのも創作活動だ、という人もいるだろう。
誰かに読まれるものを書いてこそ創作活動だ、という人もいるだろう。
多くの人に読まれるための努力や工夫も含めて創作活動だ、という人もいるだろう。
対価を得るまでが創作活動だ、という人もいるだろう。(※1)


自分の場合はどうか。

誰にも見せない文章、たとえば「日記」は毎日書いているけど、これを創作だとは感じない。趣味だ。

でも「誰かに読んでほしい文章」を書くのは創作だと感じる。

書いたものをたくさんの人に読んでもらうためにTwitterで告知したり、書いたものを編集者さんと一緒にまとめたり校正したりして本をつくる作業は、創作ではなく仕事って感じがする。


なるほど。自分の場合、

趣味に人の目が加わると創作になり、
創作に承認欲求や経済活動が加わると仕事になる

らしい。なるほど。

自分にとっての趣味、創作、仕事って、こういう関係性だったのか。



趣味、創作、仕事のうち、自分にとっていちばん大事なのはどの部分だろう。と考えてみたときに、それは創作だな、と直感した。


あれ……?ということは、自分にとって創作は、仕事よりも大事なことだ、ってことになるけど、そうなのか……?

もしかして自分は、仕事というものに、そこまで思い入れがないのか……?

思い入れがないクセに、仕事を好きになろうと、仕事を充実させようと、仕事に夢中になろうと頑張っていたのか……?



精神科医V.E.フランクルによれば、人間が生きる意味を見出す方法は三通りある(※2)。

第一に、何かを創造すること。
第二に、何かを体験すること。
第三に、苦しみに耐えること。

第一に、人は仕事や生活を通し、何かを創造することで意味を生み出せる。

第二に、怪我や病気で活動を制限されても、人は芸術にふれたり、人を愛するという体験によって意味を生み出せる。

第三に、体験する自由すら奪われ、苦痛に晒されてもなお(まさにフランクルが経験した強制収容所での生活がこれにあたる)、人はその苦しみを引き受けることによって、生きる意味を生み出すことができる。

幸いなことに私にはまだ、創造によって意味を生み出せる健康な身体と環境がある。だから自分は、創造によって生きる意味を生み出そう。

フランクルのこの言葉を読んだときにそう思ったのだ。創造することが自分にとって大切だってことは、十分知っていたつもりだった。

でも、自分の創作活動を分解してみて気づいた。

書くという創作活動の中に、
(但しお金を稼げる活動のみ認めるものとする)
(お金にならない場合、将来的に収益が期待される活動のみ認めるものとする)

みたいな余計な但し書きが入っている。


仕事にならない(なる可能性がない)創作活動には価値がない、と無意識に思い込んでいたようだ。



私は仕事のために創作を利用しようとしていた。だから苦しかったのかもしれない。

仕事は書くための道具でよいのではないか。仕事によって得た資金や人間関係や経験を利用して、また書く。それだけでよかったのではないか。

岸辺露伴先生だって、漫画のために山を買い、自己破産していたではないか。

仕事に「素材集め」以上のことを求める必要なんて、なかったのだ。



創作のために仕事がある。そう考えたとき、書けないしんどさとか、仕事のめんどくささとか、日々の不完全燃焼感とか、そういう諸々の苦しみも、はじめてそのまま受け入れられるような気がした。

仕事だと思うと耐えられる気がしなかった。だからこういう苦しさやしんどさを「楽しい」に取り替える方法を、あれこれ探し続けてきた。

仕事を少しでも楽しくするために、仕事から少しでも苦痛を取り除くために、自分の中にある使えそうなスキルとして「書く」という技術を道具として使おうとしていた。


でも、その関係性を逆転させて、仕事は創作のための道具に過ぎぬと考えたとき、苦しいのもしんどいのもめんどくさいのも、別にそのまんまでいいか、と自然と思えた。だって全部、創作のネタになるしな。

芸人さんがいう「いやなことがあっても笑いのネタにできるから全部オイシイと思える」は、「そう思えばいやなことも乗り越えられる」というお手軽ライフハックではなく、人を笑わせるという創作活動を、単なる仕事としてではなく、生き方として選んだ者だけが到れる境地なのかもしれない。



そうだ。「いい一日」のことを考えていたんだった。

自分がほしいのは、「いい一日」じゃなくて、「いい文章」だった。

いい文章が書けるなら、「わるい一日」も受け入れられるなあ。



1.「この人の創作活動には『対価を得ること』も含まれているなぁ」と思える人も稀にいる。その人のことはこの記事で書いた。


2.

意味は三つの主要な方向で実現されることができます。人生を意味のあるものにできるのは、
第一に、なにかを行なうこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現することによってです。

第二に、なにかを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。

第三に、第一の方向でも第二の方向でも人生を価値あるものにする可能性がなくても、まだ生きる意味を見いだすことができます。自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか、その事実にどう適応し、その事実に対してどうふるまうか、その運命を自分に課せられた「十字架」としてどう引き受けるかに、生きる意味を見いだすことができるのです。

ヴィクトール・エミール・フランクル.それでも人生にイエスと言う(Kindleの位置No.737-744)..Kindle版.


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