見出し画像

【良記事紹介】「問題に向き合っているかどうか」と問いかけ続ける

この記事壮絶だった。続きがめちゃくちゃ気になる。



にしおかすみこさんがすごいところは、この荒れ放題の実家に、自ら「住まう」と決断したことだと思う。

家族から「部外者」といわれながらも、家族の中に入っていくことを、にしおかすみこさんは自ら選んだ。


この記事を読み、自分はちゃんと「問題に向き合っているかどうか」と、改めて考えさせられた。

「問題に向き合っているかどうか」という問いかけは、自分の人生を見失わないために、いつもポケットに入れておくべき覚悟だと思っている。


人生において、「問題を抱えている」状態は問題ではない。いつだって問題をいくつか抱えているのがふつうである。

むしろ問題がないというのは、問題を見てみぬふりしているということだから、むしろそのほうが問題だと思っている。

問題を抱えた家庭の中に居続けたとして、ずっと家族とコミュニケーションを拒み続けるのであれば(引きこもりなど)、それは問題に向き合っているとは言えないだろう。

その場合、家族から一旦離れ、自分自身を取り戻すことが「問題と向き合う」ということになるかもしれない。

かくして自立を果たした自分自身が、家族の問題をもういちど「引き受ける」べきときがくる。

しかしそのときがきても相変わらず、家族の問題から目をそむけ続けるとするならば、少しずつ自分が分裂していくのを感じるだろう。

この場合、改めて家族と自分がひとつとなろうとすることが「問題と向き合う」ということになる。勝手な推測だけど、にしおかすみこさんはこの選択をしたのではないだろうか。


一方で、かくして自立を果たしたのち、完全に家族との関係性を「断ち切る」べきケースもあるだろう。自分が家族に執着している(憎んでいる)、もしくは絡め取られている(情に縛られている)ような場合だ。この場合、分裂させられている自分を取り戻すための決別が「問題と向き合う」ということになる。


家族の問題というのは、かくのごとく、一概に「離れるべきか/とことん付き合うべきか」を決められるものではない。

当事者だけが、いまの自分だけが、何をなすべきかについてすべてわかっている。

過去どうだったかとか、未来にどうありたいかとかではなく、「いまの自分がどうありたいか」だけが唯一正解を積み重ねるために向き合うべき問いかけなのだと思っている。

もちろん、「今はなにもできない」ときもある。そういうときは問題をかたわらに、いつもどおり生活を共にすればいい。

読みたい本がたくさんあります。