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文字で描かれる家5選

本を読んでいて、惹かれた家を5つ選んでみた。
閉じられた私的な空間は、狭くても一つの宇宙を見ているような気分になる。
そのスペースに何を置くのか、どう使うのか。個人が日常的に生活する場所は他人との違いが浮き彫りになるから、家は身近な異世界じゃないかと時々思う。混沌としているようでも、家の持ち主の独自の秩序が成り立っていて、不思議と魅力的だったりする。

京極夏彦『竹取り』

 竹藪たけやぶだ。
 窓の外は竹藪だ。
 緑とみどりみどりと青と。
 あお織部おりべ深藍しんらん浅葱あさぎと。
 若芽わかめ山葵わさび萌葱あさぎ威光茶いこうちゃと。
 白と。
 黒と。
 様様な色合いの真っ直ぐな縦筋が、円く切り取られている。その前にまるで影絵のようにくろくなった佐久間君がいる。
 竹藪は微矇うすぐらいのだが、それでも外にはそれなりに光量があるのだ。対比の所為せいで室内は一層にくらいのだ。だ日は高いのに、この部屋のなかは夕暮れのようである。だから佐久間君は回り燈籠どうろうの切り絵のように真っ黒だ。
 さわさわと竹藪に風が渡る。縦筋の幾本かが微かに揺れて、枝葉から漏れた光の粒が小魚のように動いた。本物の回り灯籠のようだ。

京極夏彦『竹取り』p231、『美女と竹林のアンソロジー』光文社文庫より

部屋の中から、円窓の外の景色と窓際に座る友人を見た風景。読んでいると、文のリズムと視覚的な美しさでくらくらとしてくる。
「竹藪だ。窓の外は竹藪だ。」で、目に飛び込んでくる、竹。微妙な色合いの違いが分かるくらいさらに近く、視線が引き込まれる。すると竹の形はもうなく、抽象画のように、たくさんの色が視界いっぱいに広がる。心地よくて、何も考えられなくなるような体験。
そして一度カメラを引いて、心奪う竹を背景にした友人の姿が描かれる。論理的に整理するような描写でピントが定まっていき、抽象画だった風景は精巧な回り燈籠へ。
黒いシルエットの友人は、竹林の風景と一体化していて、絵の世界の住人になったみたいだ。円形の窓だからか、その向こうに丸ごともう一つ世界がある感覚。語り手と同じ空間にいるにもかかわらず、目の前の友人はどこか現実感が欠けている。
この家は竹林に四方を囲まれているの。長い時間そのような風景の中で過ごすと、住む人が纏う空気も同化していくのだろうか。けれど鮮やかな竹林と、友人の姿が対照的に見えるのはなぜだろう。

この本はアンソロジーだから、一冊の中でいくつもある短編小説の一つ一つに表紙はない。扉絵も挿絵もない。けれどこの風景描写が、物語の最初のページを飾る一枚絵になっている。読み始めた時も強い印象があったけど、全部読み終わってから初めのページに戻ると、この風景が何を象徴していたのか、ぼんやりと分かる。
窓が特に好きだった。円窓は、そのフォルムで内部と外部の境界を曖昧にして、見る人と自然の一体感を高めると、よくいわれる。四角い窓じゃなくて、円窓が作中で使われているのが意味深に思えた。

新海誠『小説 すずめの戸締り』

 鍵を使ってドアを開けると、こもっていた熱気がふわりと顔にかかった。少し遅れて学校の図書館のような匂いが届き、それから石鹸せっけんや洗剤の生活の匂いがして、最後に知らない外国の町のようなお洒落しゃれな匂いが、ほんのかすかに鼻に届いた。大人の匂いだ、と私は思った。
(中略)
 カーテンの隙間からの外光にぼんやりと浮かび上がるその部屋は、壁も床も、本で覆われていた。畳には、分厚い古書が積み上げられていて、まるで大学の研究室——実際には行ったことはないけれど、そういう何か専門家のための空間のようだった。本の間に挟み込まれるようにして、昭和の文豪めいた座机があり、丸いちゃぶ台があり、大きな本棚が三つもあった。部屋のすみにIKEA的なスチールデスクとそれに被さるパイプベッドがあり、その周囲の本だけは大学生らしく現代的でカラフルだった。
(中略)
 カーテンを開けると、傾き始めた午後の陽射しが部屋をまぶしく塗り直した。窓を開けると、気持ちのいい風が通る。私はスポーツバッグを床に下ろし、帽子を脱いでその上に置いた。なんだか小さな庭みたいだと、明るくなった部屋を見渡して思った。空間全部がたくさんの物であふれているのに、不思議と雑然とした印象がなかった。物たちは植物のように自然に自由にそこにあった。

新海誠『小説 すずめの戸締り』p135~136、角川文庫

長く居座りたくなる、穏やかな空間。
部屋の印象が、匂いから始まる。視覚以外の情報で始まるのが臨場感ある。自分ではなかなか気づかないけど、家にはそれぞれ匂いがあって積み重ねてきた生活と人柄がにじむ。いくつかの種類を匂いを並べられているのが、ヴェールのように重層的で、それが人間的な深みに感じる。
古い建物や家具、本。おそらく元々部屋にある物か、他の人から受け継いだ物を使いつつ、足りないものを自分で買って使っている。テイストの違う、古い物と新しい物が組み合わさっている。ちぐはぐなはずなのに、それらが一緒に合わさっている状態がむしろ妙に心地よい。

この部屋の様子や、台所や建物全体の描写からすると家賃は低そうだ。使い勝手が微妙なところもあるかもしれない。でも部屋の描かれ方から何となく、持ち主は全然それをマイナスに捉えてなさそうだ。
物が溢れていても雑然とした印象がないのは、荒んだ生活ではないということだろうか。物が雑に扱われてないというか。部屋にある物たちは、使い込まれていて、本領を発揮しているように感じる。新しい物と古い物が混在し調和していて、物と物、物と人が、有機的に作用しあって一つの生態系をつくっているような。それが「物たちは植物のように自然に自由にそこにあった。」という雰囲気につながるのかなと思った。

建物の外観が擬人化されていたり。逆に人が、自然風景に喩えられていたり。自然物だけを描いた描写は、心洗われるような純粋な印象。それに人物の心理が呼応して、と。風景描写と人物の描写の混ぜ方が新鮮。特に人の造った場所の人間味がとても濃い。
全体的に詩的で感情に溢れてロマンティックだなと思う中で、細かいところで「○○センチ」と測ったような数値がたまに描写に出てくる。他の著者だったらあんまり定量化しなそうな情報が文章に混ざっているのを見ると、物や風景をつくった設計者の几帳面さみたいなものを感じて面白い。

小川洋子『匂いの収集』

 一番最初、彼女の部屋に足を踏み入れた時、理科の実験室に迷い込んだのかと勘違いした。中央にある細長いテーブルは何の飾り気もなく、作業台といった雰囲気で、スポイトや分銅秤ふんどうばかりやアルコールランプが無造作に散らばっていた。カーテンは西日で色褪いろあせ、布張りのソファーは所々擦り切れ、台所の流しには食器よりも汚れたビーカーの方が目立っていた。雑然としているのに不快ではなく、女の子らしい装飾品は何一つ見つからないのに、彼女のぬくもりがあちこちに感じられた。
 しかしその部屋を決定的なものにしていたのは、三方の壁一面を床から天井まですき間なくおおう戸棚だろう。一歩部屋に足を踏み入れたら、誰だってそれから目を背けることはできない。
 幾段も横板が渡してあるだけの古びた戸棚だが、頑丈な造りだった。扉を開けると、錆付さびついた蝶番ちょうつがい耳障みみざわりな音を立てた。中にはびっしり茶色のガラス瓶が並んでいた。彼女が収集した匂いたちだった。

小川洋子『匂いの収集』p14~15、『平成怪奇小説傑作集2』創元推理文庫より

これも初めて他の人の部屋に入った時の描写。『小説 すずめの戸締り』では、女性の語り手が男性の部屋に訪れていたけど、今度は男性の語り手が女性の部屋に訪れた時の場面。
部屋の持ち主は、匂いを集めるという趣味を持っている。趣味というより、ライフワークという言葉が似合うかもしれない。それくらい本格的でこだわりが強く、その活動が生活の中心を占めている。
部屋の持ち主を愛おしく思っている語り手は、彼女が匂いの収集にのめり込んでいてそれ以外は無頓着であることが分かる部屋、彼女の独特な感性がつまった空間を、愛情のこもった目で眺めている。
語り手でなくても、部屋の持ち主が意識的に、そして無意識的に営みながら作り出したその空間は、壮観で惹かれる。
理科室で使われるような器具が放つ、静かでひんやりとした空気。部屋の大部分を覆う戸棚は、少し無骨だけどアンティークな印象もある。散らかっているけれど、謎めいた魅力を感じる場所だなと思う。むしろ散らかっていることが、この部屋を魅力的にしている要因かもしれない。他人の目を気にして意図的にきれいに作られた部屋よりも、夢中になって生活しているうちに成り行きで出来上がった部屋の方が、個人の「好き」が溢れて生き生きとしている気がする。自分にはない独自の世界が反映された部屋だから、なおさら面白い。

彼女が匂いを扱う様子や、彼女と過ごすささやかな日常で、物語は進む。二人は何気ない動作を丁寧に、身の周りの物を細やかに扱いながら、豊かな時間を過ごしている。
静謐で、甘やかで、幸せな雰囲気が、最後のページですっと変わる。とても短い話だから、すぐにもう一度読む。
最初はささやかな生活に幸せや心地よさしか感じなかったのだけど、その心地よさが不穏さと紙一重であることが、そこかしこに透けて見えてくる。衝撃的な結末を知ってもまだ、彼女と過ごす時間や物語の舞台であるその部屋は、ずっと浸っていたいと思えるくらい心地よくて、不思議で、魅力的だと思ってしまう。

上橋菜穂子『精霊の守り人』

 シュガは玉砂利たまじゃりんで、金と緑の蔓草つるくさ模様でかざられた内郭の壁にそって歩き、星御門ほしごもんをくぐった。この星のかがやきを象徴とする夜光貝をちりばめた門をくぐったとたん、シュガは身のうちに静けさが満ちるのを感じた。もう八年もここで暮らしているのに、門をくぐるたびに、いつもおなじように感じるというのも、ふしぎなものだ。そして星読博士以外の者がこの風景を目にしたら、きっと、なんともいえぬさびしさを感じるだろうな、とも、いつも思う。
 ほかの宮はすべて、緑したたる美しい木々に囲まれているのに、この星ノ宮だけは、広大な砂地に囲まれているのだ。一本の木も草さえない灰色の砂地に、である。
 なぜ、砂地でなければいけないのか。それは、星読博士ならば、だれでもよくこころえていることだった。——星読みをするときに、いちばん大切なことは、〈雑音〉が聞こえぬことなのである。この雑音とは、音だけをさすのではない。生き物の気配や、自分の中にある欲望なども、すべて雑音なのである。
 天宮てんきゅうをめぐる星の動きから、神のかすかなささやきを聞こうと、一心に耳をすますとき、よけいな雑音は、たいへんなさまたげになる。だから、初代の聖導師ナナイは、星ノ宮のまわりを広大な砂地でかこってしまった。

上橋菜穂子『精霊の守り人』p53~54、新潮文庫

架空の国だから知らないはずなのに、門を入った瞬間の変化にはとても既視感を覚えてしまう。寺社仏閣の鳥居や門をくぐった時の、いろんなものが削ぎ落されて感覚が研ぎ澄まされていく気分。
神社仏閣の敷地の入口は開け放たれているにも関わらず、内部では静寂さを感じてしまう。一つの意図が場を支配している緊張感が伝わり、圧倒されるとこもある。一瞬で人の気分や思考を自然と変えることがあるから、外部の物理的な物の影響力って強力だ。人の内面的な活動は、身の回りにある物の気配と切り離せないなって思う。

星読博士というのは、作中の国の中で、天文学者と聖職者と官僚を合わせたような職業。その国を統一する思想があり、それを土台にした制度や職務があり、そして仕組みを支える物理的な空間がある。空間は、個人を組織の中でうまく活動させるために機能的だ。同時に情緒的でもあって、権威や神聖さ等、目的に沿ってその時々で必要とされる印象を演出する。
作中の星の宮と雰囲気が似ていると感じたのは、現実では枯山水。砂を使った静寂に満ちた空間の印象があるから。でも目的が違うのかなと思った。星の宮の砂はとても実用的で装飾性が一切ない。枯山水は芸術鑑賞をするための庭園であり、砂は水を表現するために使われている、と。
でも少しして、あれっとなる。そもそも枯山水は、何のための庭なんだろう。
ネットで調べる。枯山水は自然をミニマムに表現していて、自然ひいては宇宙との一体感を促しているらしい。枯山水は、禅宗の僧侶が瞑想を実践し、内省を深めるものだった。禅宗の影響を受ける武士も瞑想や問答を行うから、枯山水は武士からも評価されていて、って。難しい。枯山水の位置づけが時代とともに変わるし。少し調べる、では済まなそうだった。星の宮と枯山水を比べられるほど、枯山水を知らないことが分かった。
けど両者の目的は、最初に思ったより結構近いような。高い成果を出すため、理想を追求するために、自分を厳しく律していて、雑念から解放されるような環境を必要としていたところ。そういえば星読博士も瞑想する。
作中の星読博士と、日本の僧侶と、武士とでは求める成果や理想は違うだろうけど。

今回、星の宮の門に入った時の風景の魅力を伝えるには、この風景の大部分を構成する素材である砂と、雑音の意味まで必要だなと思った。すると星読博士の使命や、国の宗教の話が入り込んでいる。砂という、ものすごく細部の話をしているのに、いつの間にか壮大な話なっている。物語の世界観が、素材のような細部につまっているのが楽しい。
歴史や身分、日々の生活習慣、食事、仕事。大きな事から小さな事まで、暮らしが緻密な描写で語られる。海外旅行や海外移住のガイドブックを読むよりも、一つの国の文化や現地の暮らし方が分かった気分になる。

恒川光太郎『布団窟』

 男の子が廊下を進んでふすまを開くと、六畳ほどの座敷があった。
 正面に大きな窓があり、外の景色が見えた。雪が積もった庭が見える。壁の両側に布団が高く積まれていた。布団はおそらく二十人分以上はあった。こんなにたくさんの布団を見たことがない。布団置き場のような部屋だった。ここで遊ぼう、と男の子はいった。
「お布団で、トンネルをつくろう」
 男の子は壁際に積み上げられた布団を崩した。いいのかよ、と思ったが、崩れた布団を見ていると私も思わず楽しくなり、羽毛布団にダイビングした。
 男の子はマットを上手うまく使って、トンネルを作り、私はそのトンネルが隠された穴になるように、上から掛け布団をかけて隠した。
「もぐらだぜ」私がいうと、男の子はそうそう、わかっているよ、というように「うくく」と笑った。「もこもこ、もぐら」
 滅茶苦茶めちゃくちゃに崩した布団の海の中で遊んでいると、さきほど居間にいた子供たちもやってきた。残っていた布団も全部崩され、あまり広くない部屋は布団で埋め尽くされた。
 何層にも積もった布団の楽園である。私はトンネルをくぐり、布団の穴に身をうずめ、その上に掛布団でふたをした。
「あげる」女の子が布団カマクラの中でキャラメルをくれた。

恒川光太郎『布団窟』p234、『白昼夢の森の少女』角川書店より

幸せすぎる状況。子供の時に、押し入れで遊んだり、布団のトンネル作ったりしているうちに寝るたのを思い出した。足元が不安定で転ぶのだけど、転んでもふかふかだから楽しい。
語り手はこの家がどこなのか、周りの子供たちが誰なのか知らないけど、そんなことどうでもよくなってる。でも分かる。ふかふかでもこもこ、安心と心地よさのかたまりで遊ぶ高揚感。しかも冬。抗えない。
布団の気持ちよさは根源的で強力だなと思った。毎日触っている物だからか、文字だけでも瞬時にその柔らかさ、脱力感、安心感がわく。しかも忘れていた小さい頃の高揚感も引っ張り出されたせいで、幸せ度がさらに上がる。
この語り手は知らない子供との距離感を持っていて、普段なら一緒に遊ぶのが誰なのかを気にする。でも周りの子供たちが相手が知り合いでない自分にも話しかけてくる状況と、布団によって心を開いている。
大人でも、例えば銭湯とか、お祭りとか。解放感や高揚感を共有する場では知らない人にいきなり話しかけられてもそんなに抵抗がない。不思議と、見ず知らずの人と自然に話せてしまう空気がある。布団を崩したりダイブするのは、大人になったら人目をはばかるけど。でももし、人をダメにするソファとかだったら。布団に近い快適な物で溢れた空間があったら、自分もダイブする気がする。それがもし脱出ゲームだったら、確実に脱出する気が失せてゲームオーバーになる気がする。

現実の手触りが強く、リアルだなと思いながら読んでいたのだけど、最後にこれは実話だと述べられていて、ん?となった。あとがきを見ると、この物語は実話怪談だと紹介されている。
少しびっくりした。この本は短編集なのだけど、他の話はみんな小説で、一つだけ著者の本当の話がするっと混じっていた。現実の世界を舞台にしつつも、かなり奇怪な現象が起きたし、面白かったから、小説として全く違和感がなかった。
この馴染み深い感触があるから後の展開が際立って、読み終わっても日常と地続きの怖さと不思議さがつきまとう、でも懐かしく心地よい、そういう小説なんだなって思ってた。違うのか。文体もフィクションとノンフィクションの見分けが付かなかった。現実の話かそうでないのか区別できなかった感覚も、若干怖いというか、不安な後味だった。

終わりに

風景描写の中でも、家は特に人と物のつながりが密接ではまった。あと、いつにも増して自分の家でまったりしたくなった。実際、心ゆくまでまったりしている。
ルビがないと文章の魅力がすごく減るものがあったから、ルビ機能に気づいてよかった。

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