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サバンナで前兆を感じた話

 2017年の年末にケニア・ウガンダ・ルワンダの3か国を散策した際の日記がメモ帳から出てきました。海外旅行が遠い存在になってしまっている2020年ですが、アフリカの空気感を味わってもらえればと思い公開します。相変わらず長文なので写真中心にご笑覧ください☺️

今自分がなぜここにいるのか、よく分からなくなる

目覚めたら僕は飛行機の中で見慣れぬ街に着陸しようとしていた。昨夜は銀座にいたはずが、空港行きの電車でも機内でもビール🍺を飲んでいたせいで記憶が曖昧だ。

どうやらドーハ上空らしい。6時過ぎの朝焼けが空と大地を彩る時間、海岸に浮かぶザ・パール=カタールの横を通り過ぎた。

空港でトランジットを済ませ、6年半ぶり7回目のアフリカに向かう。アフリカ大陸はソマリアの東端から入ることができた。快晴であり、真下にソマリアの地形を眺めながら500kmほど眺めていた。

地形の色合いは地形毎に変化していった。砂砂漠、礫砂漠、そしてその合間にできるワジ(涸れ川)が10kmごとに現れは消えて行った。まるで巨大な生き物の全貌を這うように、僕たちはじわじわと移動をしていた。それはとても単調に見えるかもしれないが、少なくとも僕は単調さが具える何かしらの規則性ないしは不規則性を見出すべく、ずっと目を凝らしていた。傍から見たらボーっとしている人にしか見えないだろうが。途中で人工の道を見つけ、追っかけていくと道が放射状に伸びていく都市が見えた。Google mapsと突合するとDhaharという都市だ。そのあとはラトソル(赤土)と岩塩に覆われ、しばらくし緑色になった土地の上を飛んでいた。ビール🍺を何杯空けただろうか。この辺から記憶がまた消える。

ナイロビの着陸音で目覚めた。ワープしていたようだ。最近、今自分がなぜここにいるのか、分からなくなることがある。平日の出張では機内で仕事し、気づけば香港ということもあり、週末は寝て起きたらバンコクということも何度あったことか。

ナイロビの空港でベロ酔いである自分の気の緩さにも驚いた。ここは魔都ナイロビだぜ、あんた初めてくる場所だぜ、と心の声が冷笑していた。

話は変わるがナイロビはスワヒリ語で「冷たい水の場所(Enkare Nairobi)」らしい。

ナイロビの街は高級住宅街、中級住宅街、ダウンタウンに分かれており、宿のある中級住宅街では幹線道路から地区の入り口には柵と扉、銃を持った門番、大きくて強そうな犬の3点セットが備わっていた。私道から宿への入り口は、柵と扉、使用人、番犬の3点セットが備わっていた。

ケニアのゲームセンター

物価を確認するためショッピングモールへ。カルフール資本のこのショッピングセンターは、入る際に金属チェックをしており、中にいる人はみんな裕福そうである。人種で区別をしていないが、清潔そうな服を着ていない人は入れなさそうであり、ダウンタウンを歩いている人の7割くらいは対象外みたいだ。外の世界と中の世界ではあからさまな格差があった。

クリスマスのイルミネーションが施された広場では、日本の屋上デパートに昔あったような動物の乗り物やセグウェイに乗る子供達(とそれをスマホで撮影する大人)で溢れかえっており、白人黒人アラブ人、皆楽しそうな姿にびっくりさせられた。Tusker🍺を買い、テラスで飲みながらここは本当にナイロビかと自問自答するも、どうやらそうらしい。昨日まで東京で働いていたのがにわか信じられない。

さらにモールを進むと屋内遊園地があり、そこではあらゆる人が楽しそうにでかい乗り物に乗ったり、ゲームセンターで遊び余暇を享受していた。車のゲームで遊ぶアバヤを被ったムスリム女性集団、バスケゲームをするバスケボールの何倍もあろうかというお尻の男女、ホッケーゲームで遊ぶ子供2人をスマホ動画で撮影するお父さんなどいろんな集団の姿を見出し、かつて自分が知っていたアフリカの生活がしばらくアップデートされていなかったことに混乱をした。

ショッピングモールや街でみた格差を目の当たりにして、格差を是とする考え方の正当性について、Tusker🍺を飲みながらあれこれ考えた夜であった。

仏教のコンセプトがわかった気がした

ナイロビ2日目。快晴。宿で迎えた朝は、天気も良く気温も涼しく快適である。朝8時、目玉焼とチャイを飲んで街へ繰り出す。

交差点では、キバリという豆とソースをからめたものをいただいた。豆は硬めであったが、キャベツの千切りとトマトが効いたソースはまずまずの味。

作務衣で歩いているといろんな人が声をかけて来る。過去にアフリカをそれなりに歩いていてよく言われたのがタイコンドー!(テコンドーの真似をしながら)やジェットリー!ジャッキーチェン!だが、今日はmissioner(伝道師)と言われた。

そうだ、仏教徒でありモンクだと答えた(モンクではないが)。パフォーマンスを求められたから、般若心経を読経したら色々聞かれた。

「仏教とは何ですか?聞いたことがないよ。」
「クリスチャンやムスリムは神と契約をしていますよね。だから信仰の告白が重要です。現世には信じられる神がいることが安心ですよね。仏教徒にとっては神はあらゆるものです。森や空や石ころやあなたです。」

「信じるものがないと、不安になりませんか?」
「神との契約はありませんが、不安になりません。神に誓わなくても心配ありません。我々は神に守られていると信じています。」

「神がすべてを作ったのではないのですか?」
「それはクリスチャンの教えです。我々の教えでは、違います。仏教の開祖であるブッダは人間です。そういう意味では仏教は宗教というよりはモラルに近い考え方です。ゆえに、クリスチャンもムスリムも仏教徒も、それぞれの現世のゴールが違っても、各宗教に基づいた善い行いをするように生きています。死生観も異なり、我々には最後の審判も来ません。魂は円を描くように輪廻するし、肉体は大切ではないので火葬もします。」

「あなたのおっしゃる仏教のコンセプトがわかった気がした。ありがとう」

午前中は乗合バスのマタトゥを使って新市街へ。スワヒリ語でマは人を意味し、タトゥは3を意味する。できた当時3シリングだったらしいが今は20ー40シリングだ。クラブのように音がガンガンかかっており、しかもwifi完備。乗ってる人の7割程度が男性、うち3割弱が車内でスマホをいじっている。

バスの音を聞きながら、朝からグルーヴ感を得た。ちなみにバスの見た目はバキバキだ。

新市街についた。新市街は高層ビルが建っており、どれも最近立てられたものではなさそうだ。この国には昔から高層ビルはあるのだろう。ヒルトンホテルを見つけた。その奥にはダウンタウンがあり、さすがに世界屈指の凶悪都市と名高いナイロビのダウンタウンは、道を一本挟んで眺めるにとどめ、新市街散策を続けた。

不意にモスクが現れた。男に話しかける。入り口はどこか、と。男は入り口を指し示すばかりか、中に招き入れてくれた。
モスクでは蛇口をひねり、手足と顔を清めて中に入れてもらった。その時間こそ10分程度であったが、ムスリムの兄ちゃんは、丁寧な態度を取ってくれて案内してくれた。日本は宗教とライフスタイルが結びついていないが、ムスリムは結びついていることが興味深かったことと、丁寧な対応に対するお礼を伝えてさよならした。

昼ごはんはチキンビリヤニ。パサパサのバスマティライス(白、黄)に鶏モモが乗り、2種類のソースをかける。味は良し。辛いソースは少し酸っぱい。

リベラルなケニアの現代アート

午後はとある芸術家村にいる日本人のMさんに会いに。ケニア在住20年+のベテランの版画家さんである。3年前まで駐在員として働き、今は芸術家村にいる。2人のハーフの娘をもうけてナイロビに住んでいらっしゃる穏やかな方だ。

右腕がない、英雄の像を作る作家さんや、マタトゥをモチーフに彫り進みという技法(一度掘って紙に色を写し、別の箇所を彫り直す、というやりかた)で国内屈指の知名度を誇る作家さんなどを紹介してもらった。ケニアには1つだけ総合大学の中にアートの学部があるが、基本的には独学で勉強した人が多いようだ。

Mさんとの話で印象深く残ってるのは4つ。
1つ目に、アフリカのソーラービジネスが、電源に困っている田舎で流行している事と、他方都会ではそもそも困らないから流行っていないこと。
2つ目に、東アフリカ特にケニアは今でも民族性を保っているものの、西アフリカに比べて民族の単位が小さいために現代アートの波に寛容にリベラルに、現代アートを取り入れた作品を作れているとのこと。今でも祭は民族ごと、政治は民族間対立を起こすが、一大勢力が台頭しないために割とリベラルに物事を考えるということ。
3つ目に、今後のアートの成長可能性というテーマであるが、画材や素材において品質の高いものが入ってこない(たとえば彫刻刀が入ってこない、彫るための板が合板など)ため、急成長はせず一回り遅れる状況は変わらないということ。
4つ目に、ケニア人はタンザニア人よりビジネスにおいて1聞けば3わかるというように理解度が高く、情報処理スピードが早く、プレゼン力が高いということ。(ポジショントークも含まれていると思うが記憶に残すために書き残しておく)

夜は読書をした後に客の居ないバーへ。
Tusker🍺を飲みフィッシュフライをつまんだのちに、ウーバーで遠く離れた宿へ戻る。

「何妙法華経」を唱えるガーナ人と出会う

ナイロビ3日目。天気は快晴。ショッピングモール巡り、ダウンタウン巡り。昨日同様、目玉焼き2つとミルクティーの朝ごはん。バナナも付いた。

まずは新市街に向かい、その後Two riversという、最新のショッピングモールに向かった。昼はChipsとBhajiaを食べる。どちらもジャガイモを揚げてるのだがChipsの方は味がついてる。

ダウンタウンを歩く。手ぶらで慣れてしまえばダウンタウンの歩き方は分かるので、恐怖感はない。しかし警戒心はゼロではない。ここは魔都・ナイロビである。遠くの音や、追っかけてくる人には十分注意を払う。自分がかなり早足で歩く限り、自分より早足で歩く人は明らかに不審者であり、その存在を常に確認しながら歩く。感覚が研ぎ澄まされる一方で、相変わらず話しかけてくる人は多い。マサイマラのガイドをするという人は3人ほど。タイコンドーというひとは10人に1人。愛想を振りまきつつ適当に散らす。

今日のハイライトは、ガーナ出身でナイロビの大学でキリスト教を勉強するカトリックの学生が、自分が作務衣で歩いていたら突如「何妙法華経」を唱えてきてその教養の高さに驚いた。

宿でだらだらしてると、一緒にサファリに行く組が宿に到着。これで今回のメンバーが5人となった。

夜は市街で明日からのマサイマラツアー準備をし、パンとハムとチーズを買い込む。治安がよろしくないので宿の近くに戻り、ローカルフードを食べる。

この晩はTusker🍺を何杯も飲んだ。軽い飲み口で美味しい。おかわりしつつ、旅人同士の過去の経験談をかたり、夜が更けていった。

ケニアに来たからには、M-Pesaの実態を知ろうと思いバスで隣になったおっちゃんに話しかけて事情を聴いた。ケニアではM-Pesaはほとんどの個人が使っており、事前に聞いていた通り何でも買えるし送れるという。例えば、個人が屋台で買い物をする場合は、屋台のお兄ちゃんもM-Pesaのアカウントを持っているため、彼らのアカウントに対して直接送金ができる。家族では、銀行もない離れた田舎に住む家族に、即座に送金ができる。

おっちゃんもナイロビに出稼ぎに来ていたが、今までは信頼できる人やバスドライバーに預けて送金をするかウェスタンユニオンの送金しかなかった。でも今は田舎の家族にすぐに送金できてしまう。ケニア人とってM-Pesaは社会インフラになっており、非常に助かってると言っていた。

宿の近くでNjugnas (ジュグナズ)という、ソーセージや各種の肉を焼いたものを買う。ヤギ肉のソーセージ、ハツ、心臓の肉詰めを買い、宿で食べた。個人的には牛のソーセージの方がいい味がした。

Hey, my brother from another mother

ナイロビ4日目(マサイマラツアー1日目)。天気は快晴。

ツアーに備えて朝は4時半に起床。1度目の朝ごはんは、先日買ったパンに、ハムとチーズを乗せて食べる。空には南十字星がきれいに輝いている。ここが南半球であることを実感させられる。

5時に迎えにくると聞いていたが、結局ドライバーのPhilipsは30分遅れで宿に迎えに来た。彼の何度も申し訳ないと謝る姿をみて、信頼できる人物だと感じた。また、彼の車は我々日本人5人だけを乗せており、他の観光客を気にしないでいい事に安堵感を覚えた。

僕は彼にTakaと名乗った。するとスワヒリ語ではKakaがBrotherを指すと教えてくれた。

その結果、僕だけが「Hey Kaka, my brother from another mother」と呼ばれ続けることとなった。昔、ナイジェリア人の行商とマリで暮らしていた時にBrotherの範囲が広いことを思い出した。異母兄弟どころではなく、血がつながっていなくてもBrotherなわけで、アフリカでは西も東もBrotherの範囲が広い。馴れ馴れしいアフリカはとても好きだし、呼ばれないよりは良いが、2~30回呼ばれるとさすがにこっちも疲れる。

マサイマラ国立公園は、ナイロビの南西方面へ車で5時間。スムーズな幹線道路とガタガタの未舗装道路を半々くらいの時間をかけてマサイマラ国立公園に到着。

途中の街で2度目の朝食休憩。1度目の朝食はツアーに含まれてたことを知らなかったので2度取る羽目に。ちまきのような具材が入ったサモサ、パンにバター、豆、ソーセージ、マンゴージュース、グァバジュースなどを食べた。

国立公園では、午前中はシマウマ、キリン、バッファロー、トムソンガゼル、象、アンテロープなどを見ることができた。

午後2時前、1つの岩に到着。ケニアとタンザニアの国境である。なんと今回予定していなかったタンザニアに足を踏み入れることができた。ここではレンジャーについていき、川地に生息するカバの大群とクロコダイルをみた。カバは目と耳以外を水の中に潜め、クロコダイルも上半身しか出さず、写真を撮影は非常に厄介な相手だった。

川沿いで色々見終えてから、ランチタイム。ランチはターキー、サンドイッチ、ポテト、卵という炭水化物多めの弁当。清潔感があってボリューミーだった。

午後はまたサファリ再開。午後は近距離での象、キリン、バッファローが見れた事と、ライオン、チーター、ハゲタカ、が見れた事が(しかも近距離で!)素晴らしかった。

サファリで一番印象的だったのは、ハイエナがシマウマの残骸を食べているシーン。

彼は空の動きを察知して我々の車を動かしていた

空がハゲタカで賑わう。100頭を越えるハゲタカが空にやってくる。
次に、ハゲタカがハイエナ&シマウマ肉の周りめがけて急降下する。地面はハゲタカでにぎわう。

次に、ハゲタカがハイエナに圧力をかけ始める。シマウマの肉を啄むのではなく、おしくらまんじゅうのような圧力をかけていく。

しまいに、ハイエナにとって全部のシマウマの肉を食べるのが不可能な状況になり、肉を咥えたハイエナはハゲタカ集団から力ずくで逃げ出す。最後に、取り残された肉を、そこにいる100匹を越えるハゲタカが一斉に囲み出し、乱闘状態になりながら肉を食べる。

この光景を見ながら、そういう事か、と膝を打った。

最初の時点では、地面で何が起きているか見えていない。しかし、レンジャーはおそらくハイエナが他の動物とシマウマの肉を取り合っているをこと想像していた。彼は空の動きを察知して我々の車を動かしていた。

昔、毎日船に乗っていた時に、船長が「魚群探知機はいらない。イワシの集団を見つけるにはカモメの集団を見つればいい」と言っていた事を思い出した。

パウロ・コエーリョの名作「アルケミスト」では、主人公の少年は二羽の空高く飛ぶタカの様子を見て前兆をとらえ、軍隊が少年がいるオアシスを襲撃する前兆を見ていたことも同時に思い出した。

これらはすべて「前兆」だ。前兆を大事にしていこうと心に誓った。

ちなみに「風が吹けば桶屋が儲かる」は前兆ではない。あれは単にあてにならない期待をすることであり、意外なところに影響がでる類いのものだ。因果関係を明らかにしたうえで、自分が前兆であると確信をしたものに賭けて行動をしたいものだ。

ともすれば本当に怖いのは動物ではなく人間である

長時間車に揺られ疲れた我々にとって、宿泊施設は大いに我々の体を休めてくれた。今晩はテント泊。清潔感溢れ、電気も点き(6時半から10時)、広々とした部屋でディナーの時間までゆったりした。

ディナーの場所に向かう際に、星降る夜を散策しながら10年前にアフリカやインドを旅してる時に考えてた事を思い出した。あの時は、夕方や夜になると、ボケが始まった祖母が無事でいる事を案じ、家族や友人の大切さを実感させられたのだが、今年祖母が亡くなったこともあり、今時点で家族に大きな懸念がないので、あまり心配をしていない自分に気づかされて、安堵感を覚えた。このまま誰も大きな心配をしない世界が続いて欲しい、と星空に祈った。

ディナーはカレーやサラダのビュッフェ形式。追加でTusker🍺を注文。味は間違いなかった。カレーは牛肉とピーマンの味ががっつり効いていた。

夜は月明かりの下、獣の声聞こえる国立公園のテントの軒先でマサイ族の人たちにおやすみを言い、1日を振り返って充足感に包まれつつベットに入った。

人が溢れるナイロビ市内は、どこもかしこも柵で囲まれていた。他方、大型動物が溢れる公園では柵がほとんどない。ナイロビの方がマサイマラよりも柵の数が多かった。

ともすれば本当に怖いのは動物ではなく人間である。

インフォーマルセクターの片鱗に触れる

ナイロビ5日目(マサイマラツアー2日目)。快晴。
朝5時半、南十字星を見に外へ繰り出すと、今日も東の空に煌々と輝いていた。マサイ族の男衆の3人は夜通し警備をしてくれていたようだ。空を眺めていたら後ろからジャンボ(こんにちは)と声をかけられた。マサイ族は長い手足と柔らかい筋肉を具えており、彼らに警備をされるのはとても安心感がある。彼らの右耳は下半分がない、正確にいうと上半分の中に、何らかの形で押し込んでいる。そして左耳は耳たぶに大きく穴が空き、10cmほど垂れ下がっていた。

6時半、朝食を摂る。ビュッフェ形式でパンとソーセージとゆで卵を食べ、7時からのモーニングサファリへ出発。サバンナの動物は朝と夕方に活発に動くから、朝のサファリは期待できるとのこと。考えてみれば至極当然であり、昼間は暑いから動くだけでもエネルギーの消費量が多くなるからである。

モーニングサファリ一発目に、昨日見なかったヌーの100匹程の群れが目の前に現れた。おまけに2匹のチーターが獲物を定めようとしていた。

チーターはのそのそと近づき、ヌーの群れとの距離を詰めていく。一定の距離に近づくと、チーターが動くとヌーの群れもけん制して動くようになり、チーターが少し走り出したらヌーは走り出し、群れは発散してしまった。結局チーターが全力疾走をして獲物を捕らえるまでは至らず、チーターはヌーを襲えなかった。

自分が生きる世界における、ヌーは誰だろうか。チーターは誰だろうか。異なるもの同士が共存するにあたり、向き合う距離感はそれでいいのだろうか。もっと上手い方法はなかったのだろうか。という問いを持ち帰った。

サファリを終えて、ナイロビへ向かう帰路でランチ。パン、ハンバーグ、ゆで卵、バナナ、オレンジのランチパック。ツアーのメニューはひとつひとつラップが包んであり清潔感がある。

ナイロビへの帰路で突如登り坂が続き、見晴らしがいい場所で停車。紅海からモザンビークまでの9600kmをつなぐアフリカ大地溝帯を見晴らす。400万年前に人類が誕生した場所はとても開けていて、空気が澄んでいた。

マサイマラのサファリを終えてナイロビ近郊の宿に着いた。フランス語で談笑する2人組がいたのでフランス語で話しかけたら予想通り西アフリカの人だった。彼はカメルーンのヤウンデ出身の人で、西アフリカに関する話をして打ち解けた。話を聞くとコンゴから金を仕入れてドバイに売る金のブローカーとのこと。インフォーマルセクターのため、一般的にトレードされている金より安く、彼は金の売買のコミッションで儲けているとのこと。またビジネスにおける成功要因はコネクションで、2年前まではカメルーンで政治家をしていたがそこでパイプを作っていた。

ドバイに住み、金の単価も高いため暮らしには満足してるが、日本のテクノロジー、特にオート化された機械に興味があり、それらをリースしてアフリカに持ってくるビジネスをやりたいとのこと。

日本で金の輸出入をやっている友人の話をしたらとても興味を持ってくれて、もっと話をしたいと言っていたが彼に電話がかかってきたため中座、連絡先だけ交換して別れた。

ここケニアはコンゴとUAEの中間だ。文化人類学者の小川さやかさんの「『その日暮らし』の人類学」ではタンザニアのインフォーマルセクターの人々の暮らしが記述されているが、描かれていたインォーマルセクターの片鱗に触れられたことは個人的にとても面白かった。

夜はナイロビダウンタウンに面したレストランに入った。僕はお腹ぎ空いてなかったので何も食べなかったが、同行者がラムステーキ&ウガリ、ヤギカレー&チャパティ、魚&プランテーンを食べた。ローカル客もおらず、値段も高く、その割に大したことない味だったが、同行の人たちは喜んでたのが面白かった。
英国領だったケニアはむしろフライドポテトやチキンの店ばかりのなかで、好んで高いレストランに入り、ウガリを食べる事はもうないだろう。

自分の考えが少し偏ってきたな、と思いつつ宿に戻り、Tusker🍺をたらふくあおってすぐ寝た。

大みそかのアンボセリ

ナイロビ6日目(アンボセリツアー1日目)。快晴。
朝7時30分集合だというのに、4時に目覚めた。原因は庭にいるニワトリの鳴き声だ。彼らの朝は4時から始まるり全く止む気配もない。何はともあれ朝は自分のためにあらゆる時間を使えるので好きだ。

パン、ハム、チャイ、という定番の朝ごはんを食べて朝8時に宿を出発。
今日のドライバーはSimon、背が高く強面のおっちゃんである。アンボセリの「セリ」とは竜巻という意味である事を教えてもらいながらアンボセリまで出発。

アンボセリへの道は、マサイマラへ向かう道と異なり、最後まで舗装がされていた道だった。そして至る所に竜巻が発生していた。アンボセリへ着くとマサイマラとは光景が異なり、まず一面見渡す限り平地。そして南方にはキリマンジャロ。キリマンジャロは昼間は山頂が雲に隠れていてまだ見えないが、17時を過ぎると見えてくるらしい。

アンボセリでのご飯はビュッフェ。カレー、パパド。加えて占い師の友人から教わった言葉で「Tusker🍺Baridi sana(冷たいTuskerをください)」と注文したら、店員にクスッと笑われた。ケニアのレストランではBaridiと言わないとぬるいビールが出てくるため、Baridiは必須である。
3時頃までだらだら食べ飲み、サンセットサファリへ。マサイマラとは異なり湿地があり、そこには象の群れ、カバ、フラミンゴがいた。

5時過ぎにようやくキリマンジャロの山頂が雲の中から姿を現したと思ったらサンセットの時間になる。月、山、太陽がそれぞれ90度の方位を隔てて並んだ満月前日は、すべてのものが無垢に輝いていた。

ホテルはSOPA Lodge。バッファローの顔を模したベット、セキュリティーBOX、オートロック機能、自社製アメニティー、清潔さ、など何をとってもこだわりがある、ケニア随一の宿だろう。

ディナーはお決まりのビュッフェ。大晦日だから、席にはパーティー帽子とメガネと笛が置いてあり、子供が盛り上がっている。あらゆる美味しそうなものと、シェフたちが目の前で焼くヤギ肉(Njugnas)を食べる。マサイ族の乱入もあり、控えめに言ってもカオスだった。

Tuskerバリディ、赤と白のワインを空けて年越し。南アのメルロー(赤ワイン)の味のバランスが取れていた。人種、性別、年齢関係なく、踊って握手して新年を祝った。

マサイの人にスワヒリ語でHeri ya mwaka mpiya! Matunaini utakuwa ni mwaka mzuri!(明けましておめでとうございます。良い一年を!)というととにかく喜んでくれたので、暗記をし多用した。

2018年元旦、「死」が近づく

1月1日(月) 快晴。ナイロビ7日目(アンボセリツアー2日目)
初日の出を見るために5時半起床。キリマンジャロには若干の雲がかかっていたが、6時半の日の出前には見事に雲がなくなる。キリマンジャロは宿の南に位置し、東から昇る太陽がキリマンジャロの斜面を上の方から照らしていき、次第に全部照らされた。

ホテルのサービスで朝からシャンパンを空けてビュッフェを食べた。非常に快適な一年の幕開けだ(朝時点ではトラブルやその前兆の気配すらない。)
会う人にMwaka mpiya!といい祝福する。アンボセリツアーのモーニングサファリは8時から10時までサクッと一周。地図では湖と書いたる場所も乾季は地面が干上がっていた。

同行者のうち2人とお別れ。タンザニアの入国イミグレを通過したところで下車しお別れ。Uターンし出国イミグレで職員に話かけられた。
「タンザニアはどうだ?セレンゲティはどうだったか?」
「タンザニアもセレンゲティも素晴らしかった。再訪したい」
と伝えたら彼は非常に喜んでくれた。タンザニアには10分しかいなかったし、ましてやセレンゲティは行ってない。

ぼんやり物思いに耽っているうちに、午後3時前にはナイロビについた。
午後7時発のケニア・ナイロビからウガンダ・カンパラ行きのバスを予約している為、バスダウンタウンの宿でシャワーを貸してもらった。
そしたら宿の人から「昨日、僕らが乗るバスのコースで正面衝突の大事故で36人死亡が出たため。政府が夜行バスを一時停止してる」と聞いた。

「死」が不意に近づいた瞬間だった。普段、僕たちの生は固く守られている。この瞬間、普段はまるでコーラックのように何層も囲まれていて感じない「死」をとても身近に感じた。一日間違っていたら自分の命もなかっただろう。10年前に、インドで一本遅ければ電車衝突事故に巻き込まれていた事を久しぶりに思い出した。

急遽バスを取りやめ、ケニアとウガンダの旅を空路に変更して宿泊することにした。Tusker🍺を飲み、ポテトとソーセージを食べた。
夜は旅に持ち込んだハードカバーの本6冊を読み、会社で受けている研修のレポートを書いていてまとめ切った。加えて海外との仕事をしていると元旦以外は日本と異なり動いているので、メールも収支の集計業務も膨大に溜まっていた。ここで一気に終わらせた。

ロレックスとの出会い

ナイロビ8日目 カンパラ移動日。

朝はチャイを飲み、サモサとチャパティを食べて昼過ぎにローカルバスで空港に向かう。ずっと撮りたかったこちらのデコトラに近い飾りのバスをたくさん撮りまくる。写真展でもやろうかと思わせるくらい、バリェーションに富んでいる。Tusker Baridi🍺を飲んでから、フライト。

機内はがらんとしおり、ビジネスクラスの席も座りたい放題だったので一番前の広い席に座る。LCCなので🍺がないので景色を眺め、気づいたらエンテベに着いていた。空から見るビクトリア湖は稜線が複雑で綺麗だった。

市内までは知らないお兄ちゃんに乗せてもらい移動。資源会社のエンジニアで、インドや中国やヨーロッパは訪れたことがあり、あとはブラジルに行くのが一生の目標だとのこと。都心部の彼のオフィスまで、お金のことは何も言わずに無料で乗せてくれた。非常に礼儀正しい人だった。こういう経験が旅を彩るし僕がウガンダの国民性を語る時などに大きく印象付けられるから、僕自身もそうありたい。
彼のオフィスからは、彼にテザリングさせてもらった電波でウーバーを呼び宿まで移動。現地の人も中間層以上はUberを多用している。距離による明瞭会計、現金不要(カード決済)、交渉やチップ不要。

カンパラの街は赤土で、ナイロビよりも郊外は木が多く坂が多い街で、建物の屋根が赤いところから、まるでマダガスカルのアンタタナリボにいるような感じがした。市街は高層階の建物が乱立し、マダガスカルよりも数段進んでいる気がした。日本と同じ形状の信号機があるが、面白いほどまるで機能しておらず警察が手信号で誘導をしていた。信号機の存在意義を考えさせられた。

ウガンダは人口密度がアフリカの中でも非常に高い。夜はカンパラの街はバイクと車に溢れ、屋台はナイロビと異なり夜に盛り上がっていた。そこではロレックスと呼ばれる、オムレツのチャパティ巻を食べた。Rolling Eggsが語源だろう。1500シリング(50円)でめちゃくちゃうまい。他、ヤギ肉、鶏砂肝、鶏レバーの串を注文。どれも焼きたてで炭火で新鮮で申し分なし。

頭に極端に大きい荷物を乗せた兄ちゃんが、夜道で僕に興味津々だったので色々話した。気分が良かったせいか、話を聞いた。彼は「中国人はリッチだがクレバーではない。だから安い製品ばかりだろう。日本人はクレバーでスキルを持っている。だからどの車もトヨタだろう。トヨタはリスペクトしてるよ。」という、ツッコミがい&もう一段堀りがいのある話をしてくれたが、あまりに一方的に話されたのでツッコミができなかったのと、気づけば宿まで来てしまったのでお別れした。

宿に戻り、ピザ窯を見つけたのでマルゲリータをニンニク多めで注文し、ウガンダNILE🍺とClub🍺を何本か飲み、屋台と宿(宿のご飯は10倍くらい高い)の金銭感覚の差に滑稽さを覚えながら眠りに入った。

赤道を通過して南半球へ

曇りのち雨。カンパラ2日目 カバレ&キソロ移動日

朝から移動のためにバスターミナルへ。屋台の味をしめたので早起きして屋台でサモサを食べる。緑色のムング豆は塩気が効いてる。ついでにバスターミナルの人がみんなつまんでるポップコーンも食べる。これも美味しい。

カンパラからカバレに移動するバスでは赤道を通過する。せっかく道路に赤道が書いてあるのだが、あいにく寝てたら見逃した。

道を眺めながら、ぼんやり「モバイルペイメントを活用した非電化地域のソーラーパネルリース事業がアフリカで流行している」という友人からの話を思い出し、目を凝らしたらM-KOPAというソーラーメーカーの看板が目に付くようになった。しかし幹線道路沿いには実際にソーラーをつけている家が見当たらなかった。
他に、食文化を知るために屋台とレストラン事情を見た。外国のレストランはほぼ皆無。例外はハラール料理店とピザ。旧イギリス領なのに。どこもかしこもポテト&チキンの店が、チェーンでも個人でも林立している。屋台の主食はチャパティやウガリ(とうもろこしなどの粉にして蒸したもの)や豆であり、それにチキンやビーフや魚などをつける。

夜はその辺のキオスクに人が集まってたので入って、NILE🍺を頼んだら、常温のビールをさっと取り出し駆け足で店外に消えたと思ったら1分後に戻ってきて、横のレストランから冷たいビールと交換してくれていた。パウチの袋に入ったウォッカやジンも飲んだ。

ピグミーの村に赴く

曇りのち雨。キガリ1日目&キソロ移動、ピグミーツアー

朝からピグミー族のツアーに参加。
ツアー全容は、バイクで村に行く→おうち(3つ)訪問→ダンス鑑賞→火起こし見学→バイクでルワンダ国境へ、というパッケージで30ドル。ドライバーは名をモーゼと言った。

ガタガタの道を抜けて、山を駆け上り村が現れてバイクを降りると、どこからともなく子供が現れて来て囲まれた。その数ざっと50人。なかなか子供の写真を撮れるような長閑な場所がアフリカにはないから、一眼レフでたくさん撮った。

そして次に村長(Chairman)と挨拶して村に入った。ピグミー村の村長は150cmほどの小柄であるが威厳があり、尊敬する気持ちを前面に出して村に入った。村長の家(8人住まい)、向かいの家(12人住まい)、別の人の家(4人住まい)を見せてもらったが、どれも三畳に満たなくて、狭い。
小さいからここに住めるというよりは、体が小さいだけでなくコンパクトハウスを求めてここに住んでるミニマリストという感じを受けた。

次にダンスが始まった。1人の女性が祭り囃子を唄ってみんなが乗っかる。祭り囃子はみんなの重奏で非常に盛り上がった。仮面や民族衣装などはないが、壮観であった。

次いで火起こし見学。木と木を合わせて煙を出してそこから木屑や葉っぱにつけるタイプであり、5-6分で火がついた。

この辺りで満足したらまたダンスがはじまり、今度はゴリラの親子の塗り物をした2名が現れてゴリラ歩き&葉っぱを食べるパフォーマンスを見せてくれた。

大満足の旅を終え、我々は国境の町のチャニカに向かい、ウガンダ最後のロレックス(1500シリング)を食べて陸路で出国。

ルワンダはルヘンゲリという街まで乗合タクシー、キガリまでバスで向かう。バスはぎゅうぎゅう詰めでなくて快適である。

途中の休憩地でビールを昼間から飲んでる人がいたからたまげた。他のアフリカは昼間から道端でビール飲んでる人は稀である(エチオピア、シエラレオネ、モザンビークが僕の知る限りの例外)。多くの国では治安上、昼間の売店にビールが売っていない。安全な国・タイなんかでもそうだ。そのような点でもこの国の安全さに驚嘆した。そして僕もビール🍺をがぶ飲みした。

酔っ払いながらキガリについた。豪雨のためタクシーで宿まで移動。ここでもビビったのは、歩道がある事、信号をみんな(車、バイク、人間)が守ってる事である。これは本当にすごい。ハードのインフラが整いまくっている。

宿には日本人が2人。Kさんというグループ会社の人と、コンゴで青年海外協力隊をしてる人。グループ会社の人もびっくりだが、コンゴの彼はアカペラをやってるとのことで別のアカペラをやっている友人の名前をだしたらまさかの彼の彼女ということでこれまたびっくり。
夜は、ルワンダ在住の日本人と、日本人レストランで合流。中華風の炒め物、グリーンカレーに加えてビールをしこたま飲んだ。
帰りのバイクタクシーは横入りもぼったくりもしないし本当に素晴らしい国。

印象に残った話① ルワンダの乗合タクシーやバスはプリペイドカード(Tap&Go)がメイン。1000Frでカードを買い、デポジットをし使う。
現金でも払えるが例外的。このアイデアはIT起業家向けのオープンスペースKLabにいる学生から着想され、政府の構想とも合致し実装されている。

印象に残った話② ルワンダにはウムガンダという、月一の掃除イベントがあり家族の誰か1人が必ず土曜の午前に駆り出されて街を掃除するというイベントがある。また、露天商を禁止する法律が2016年に制定されたため屋台がない のだけど、このような取り組みも現在の大統領のもと、大きな反乱分子はなく執り行われている事についても、素晴らしいと思った。

宿の近くには売店がありビールが売っている。だらだらとビールを飲み夜は過ぎて行った。

ジェノサイトの地で想いを馳せる

1月5日(金)晴れのち雨。キガリ2日目
Belgian Peacekeepers Memorial。1994年4月、ジェノサイドが始まってすぐにPKOのベルギー兵10名が殺された場所。弾痕が壁一面に残っており凄まじかった。祈りを捧げて帰った。

その足で、Kigali memorial centerへ。
たった23年前、ルワンダではたった100日の間に80-100万人の人が、少数派のツチ族と多数派のフツ族をメインに殺された。

1958-62年に起こった独立運動で、少数派の牧畜民族のツチが支配階級から降ろされ、独立後は農耕民族のフツが対ツチ差別政策をとる。長い間揉めるも、1993年のフツの大統領暗殺、1994年4月6日に再度、フツの大統領暗殺がなされて一気にルワンダ大虐殺が始まっていく。

この悲劇は国際社会において防げなかったのだろうか。そもそもツチとフツという部族も、言語も宗教も同じ中で、ツチの方が鼻が高く相対的に白い顔を持つということでベルギー人との植民地関係の中で中間支配層になったわけで、1850年代のベルギー人による部族分けに真因があると僕は思い、いたたまれない気持ちになった。沈んだ気持ちのままKimironkoマーケットに向かった。

このマーケットは賑やかであった。通りごとに肉屋や魚屋、米、電化製品、野菜、布などなんでも売ってる。ジャケットを一着オーダーメイドした。

夕方、宿に帰り、宿にいた日本人と、どうしたらコンゴが発展するかを議論した結果、まずは①内陸国&大国はインフラ整備に時間がかかるためそもそも不利で急速な発展は望めず、次に②大統領の汚職や腐敗体制の国にありがちな外資規制があるため大統領の交代or地方分権or地域の独立をしないと統率力がつかず、最後に③教育を時間かけてやらないといけない、という話をした。

地の利はさておきルワンダが再興したのは①に投資をし②③を徹底した事が要因だったと振り返った。

夜は別の日本人夫婦が切り盛りするレストランに行って、ビールと唐揚げ丼を注文したここにも、半年前に会社を卒業した同僚が遊びに来てて驚く。

まさか自分の子供たちがこんな発展した世界を謳歌してると思ってるだろうか

晴れのち雨。キガリ3日目。
Nyamirambo women's centreで料理教室に参加。アフリカンフードを3時間かけて作る。野菜を切るところから始めて食べる所まで合わせると4時間。
コンゴ出身のマダムとその助手の男の子を10人の旅人が囲み、みんなで野菜を切り、芋やプランテーン(緑色のバナナ)を剥き、鍋の底を回した。

メインは、マトケやドドというカレーに近い料理。
サブは、サブジやキャベツmix、インゲン、豆などの付け合わせ料理。
主食は、バスマティライス、キャッサバ、サツマイモ。
特殊な機械を使わず基本ナイフで切るスタイルのため日本でもマネできる。7つの七輪を用いて作る料理は彩り良く、経済的で、贅沢だった。

宿に帰ってお土産の服を買う。冬用夏用共に、いい服が買えた。ビール🍺を飲んでスコールを待機し、最後の晩はAirBnBで一棟借りしてる家へ向かった。

この家からは発展したキガリの市街がよく見える。1994年にキガリにいた人はこの世界を想像していただろうか。国が自壊したタイミングで亡くなった人は、まさか自分の子供たちがこんな発展した世界を謳歌してると思ってるだろうか。

誰もが平和とリスペクトを大切にするルワンダの街はアフリカの奇跡にふさわしい街で、あまりに綺麗な夕暮れ時に言葉を失っていた。

夜は最初のアジアンレストラン。グリーンカレー、チキンカレー炒め、トムヤムヌードルを食べる。何1つ海外ぽくない味で心から安心をした。宿に戻り、バナナワインを浴びるほど飲んで寝た。尿瓶のような入れ物に入り、泥のような色をしたバナナワインは見た目こそ独特の異彩を放つが、味はとてもまろやかで甘く、その上とても安かった。

À la prochaine fois!

晴れのち雨。キガリ4日目。アフリカ最終日

旅は共感ではなく、発見と振り返りである。溜まってた日記をベッドの上で仕上げて、この2週間の出来事に想いを馳せる。

内なる発見としては、現地の人、旅行者、同行者。僕は、誰に対してもまずはユーモアのあるコミュニケーションをしている事に気付いた。ジェスチャーとかリアクションとか愛想笑いではなく、外国語というツールで、自ら適切なタイミングで笑いを起こせるようになった。これは海外とのミーティングでのアイスブレイクやユーモアが意図せず身についたのだろう。

ハイライトを強いて3つあげるならば、ケニアの柵とショッピングモールに見た格差と統制、マサイマラ国立公園のハイエナで見た前兆と行動、ルワンダの自壊の歴史と発展から感じたインフラと教育の重要さ。

朝からKimironko marketに行き、二日前にオーダーしていたジャケットを取りに行く。想像以上にしっかりできていた。合わせて、ピンクのネクタイとマサイ柄のストールを買う。とてもいい柄ばかりである。たくさん服を買った。

そして近くのレストランでビュッフェとビールを飲みだらだらして、宿で荷造りをして空港を出た。

ルワンダは、旧宗主国はベルギーでフランス語なのだが、ジェノサイド後に公用語を英語にし、高等教育を英語で執り行う事ができた稀有な国であり、僕の場合はどの年代の人が相手でもフランス語と英語を選んでコミュニケーション出来た事が非常にありがたかった。それにしても商売の基本は笑顔、ということをどこで教わったのだろう。ルワンダは本当にみんなが笑顔でいて、とはいえお金が欲しいから今日支払ってほしい、などの本音を言ってくれる。次に来るのはいつだろうか。早くて今年中。遅くとも何年後にはこっちにいるだろう。またアフリカの地を踏むことを願って、飛行機に乗り込んだ。

アフリカの毒。一度アフリカの地を踏んだものは、必ずアフリカに戻ってくる。そのような言葉が市民権を得るほど、アフリカ大陸は魅力的である。毒がいちはやく僕の体内を回ることを願う。

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比叡山の山伏、文化人類学徒、ニートもどき