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短編『脅迫者の報酬』

いきなりですが、小説の、小説らしい点とは何でしょうか?

それは「人の内面を克明に描写できること」だと思います。

これは小説の一番の長所です。映像ではなかなか難しいです。だから、心理描写に長けた小説を映画化すると、たいてい失敗作に終わります。

この短編は、実はそういった小説的長所を生かすことを意識しました。

ドラマは外部の世界にだけでなく、人の内面にもあるんですね。

松本清張の『顔』などはその代表例でしょう。

清張先生の偉大なる心理サスペンスを目指して(むろん絶対に及びませんが・・)、私も書いてみました。以下どうぞ。


青山勇(あおやまゆう)は若き成功者である。

二十代半ばのとき、数千万円の資金を元手に「ワーカーズドア」を設立し、人材派遣業をスタートさせた。この業種を起業の対象として選んだのは、事務所と電話さえあればすぐにでも営業が始められる手軽さゆえである。要はピンハネ商売なのだ。

折しも、バブル経済崩壊後のときである。企業は経費削減の手段として正社員に代わりパート・アルバイトを積極的に登用し始めていた。

青山がつくった会社は、期間労働者やスポット派遣と呼ばれる短期の労働者の派遣を収益の柱に置いたので、たちまち売り上げが伸びていった。会社は軌道にのり、青山は自分が実業家として幸運なスタートを切ったことに一応の満足をえた。

もっとも、起業時の興奮が冷めるのに反比例して、ある気持ちが次第に強まっていくことも否めなかった。「思ったほど儲からない」という失望である。

たしかに、期間に応じて労働者をよこしてくれという企業はいくらでもあった。人材派遣業者はそういった企業側からの注文に応じて、とにかく人を集めなければならない。その人集めの力量こそが、その業者としての能力でもある。

だが、ここで中小派遣業者としてのハンデを必然的に負った。いわゆるフリーターたちの間で会社のネームヴァリューが低いため、経費に占める人集めの宣伝費の割合が大手に比べると必然的に高くなってしまうのだ。

では儲けを大きくするためにピンハネ率を上げればいいのかというと、事はそう単純ではない。なぜなら、労働者側の取り分を少なくすれば、今度はますます人が集まりにくくなるからだ。この辺りのジレンマは、この業種が常に抱えるものである。

ゆえに、青山の「ワーカーズドア」のような中小業者は、ピンハネ率を最大限に上げても業界大手の水準を追随するのがやっとであり、通常はむしろそれより下げ気味にしなければならないくらいだった。

やがて、彼の不満の矛先は、切っても切れない関係にある求人広告誌の掲載料へと向き始めた。誌面上の、花札一枚分くらいのスペースの値段が、なんと五万円もする。それで最低価格なのである。人材派遣業者として、人集めのためには広告を多数、打ちつづけなければならない。この掲載料が常に大きな負担となり、経営を圧迫していた。

しかも、雑誌の印刷流通の関係で、掲載は申し込んでから二週間も後ときている。

高すぎると思った。また、遅すぎると思った。

青山はそれがいつも不満であった。

都市部の書店やコンビニ、キオスクなどにことごとく配本されるような求人広告誌を取り扱っているのは、ほんの数社の企業だけだった。いわば寡占状態である。しかも、広告料も暗黙のカルテルを結んだ状態にあるらしいと想像がついた。

青山は考えた末、一念発起した。

「よし、それならば自分でやろう」と

実は、彼にそう決意させたのが、1990年代後半における、ある新しいメディアの勃興であり、その急速な普及だった。インターネットである。

青山の「ワーカーズドア」は、それまでの儲けをすべて吐き出して、自前でサーバーを購入し、ネット上に求人広告サイトを運営する新規事業を立ち上げた。

勝算はあった。広告掲載料は雑誌よりはるかに安価であり、しかも申し込みの即日に掲載される。あらゆる点で雑誌媒体より優れている。

彼はサイトが連日、賑わう様を想像し、己の先見の明を誇った。

ところが、いざ新事業を初めてみると、期待はものの見事に裏切られた。

原因はユーザーの閲覧数の少なさである。わずかな訪問者しかいないネットサイトに、お金を支払ってまで広告を掲載しようと思う企業はなかった。

むろん、青山の会社は必死で営業に回り、広告主を獲得した。だが、反響がないため、その顧客もそれっきりで掲載を打ち切ってしまう。

なにはともあれサイトへの訪問者数を増やさねばならないと思った青山は、宣伝に資金を投じた。しかし、求職者が興味をもってサイトにアクセスしても、求人広告の数があまりに少ないため、実用に耐えないと考えるらしく、二度と訪れようとしない。しばらくすると元の閑散とした状態に戻ってしまう。そこで再び宣伝費を投じるものの、やはり一時的に閲覧数を増やす効果しかなく、結局、また元の状態へと戻ってしまう・・。

青山の新規事業は、この悪循環の堂々巡りに陥った。

やがて資金が底をつき始めた。追い討ちをかけるように、銀行からも融資を断られた。

青山は断崖絶壁へと追い詰められた。インターネットの利用者は増えているのに、自分たちのサイトの利用者は一向に増えない。宣伝費にいくら金をかけても一時的なカンフル剤にしかならず、投資効果が低い。

なぜだ、どうすればいいと、悩む日々が続いた。いくら考えても答えは出なかった。日に日に会社の金は蒸発していく。焦れば焦るほど空回りしてしまうのだった。

だが、倒産寸前にまで来た時、ようやく、ふいに発想の転換が訪れた。

要は、閲覧数を増やせばいいのである。ならば、求人広告一本にこだわらなくてもよいではないか。極端な話、それは「オマケ」でもいいではないか……。

青山は自社のサイトに、楽しい情報をふんだんに盛り込むことにした。最新の映画の話題から、レストランなどのグルメ情報、芸能、スポーツ、タレントのコラムまで。

それこそ求人とは何の関係もないが、ただしフリーター層が好むであろう情報を幅広く取り扱い始めた。ニュースや路線、地図情報を提供する業者とも連携した。

青山はこの方針に賭けた。

やがて、閲覧数が少しずつ伸び始めた。それにつれ、求人広告の掲載を希望する企業の数も次第に増え始めた。それがまた求人広告の閲覧それ自体を目当てとする求職者をも引きつけ始めた。そして、その現象がまた広告主を増やす効果をもたらした。

ついに「上昇のスパイラル」が始まった。

会社の業績は一転して上がり始めた。増収増益が続いた。気が付けば、彼はそれまで大手の寡占状態にあった求人情報市場の一角に食い込んでいた。

青山の快進撃は留まるところを知らなかった。

携帯電話からもサイトの閲覧を可能にした。さらに、賃貸住宅情報や中古車情報、はては個人売買の仲介にまでビジネスの枝を伸ばしていった。

青山勇が三十五歳の誕生日に元女優を妻に迎えたときには、「ワーカーズドア」の年間売上高は二百億円をこえ、純利益も数十億円をたたき出すまでになっていた。

仕事とプライベートの両面で順風満帆だった。今では同業者が乱立したために売り上げの伸び率はやや頭打ちだが、それでも十分に先行者利益を享受していた。

求人サイトの運営企業として屈指の存在となった青山の会社は、著名な六本木の高層ビルに本社を構えた。ゆくゆくは自社ビルを建てる目算だ。「勝ち組」「成功者」としての彼の名声も広がり、上場を勧める証券関係者の日参も相次いでいた。

青山はベンチャー向けの新興証券市場を跳び越し、一気に東証二部への上場を予定していた。実は、上場が遅すぎたくらいである。というのも、広告ビジネスはキャッシュフローが豊富に転がり込む。つまり、手元の自己資金が常に豊富である。たしかにサーバーを維持管理する必要はあるが、雑誌の発行費に比べれば安かった。

だから、彼の会社は他者の資金をあまり必要としなかった。実際、無借金経営にしようと思えば、できた。それをあえてしないのは、法人税の節税が関係しているからに他ならない。だから、会社としては必ずしも上場を必要としなかった。

だが、彼個人にそうではない事情が生じた。

それは青山が「大富豪」としての生活を望むようになったことである。

若き成功者は今や、都心に数百坪もの豪邸を建て、避暑地に大掛かりな別荘を有したいと考えていた。そこで著名人を呼んでパーティーを催し、数十億円ものプライベートジェットや大型クルーザーを乗り回すといった、より派手な暮らしを渇望していた。

青山は世間に自分が成功者であることをもっとアピールしたかった。その夢を手に入れるためには、個人的な巨額の上場益が欠かせない。それがこの度「ワーカーズドア」の上場を決意した理由であった。そして、その夢は、手の届くところにあった。

「だが…」と、青山は思った。

彼は一枚の手紙を手にとった。

「代表取締役 青山勇様」宛てだ。送り主は「匿名希望」とあり不明。

局印を見るに、何者かが池袋のポストから投函したらしい。中には、A4サイズの無地の紙が一枚入っており、大きめの油性ペンの字でこう記されていた。

「オマエノ過去ノ秘密ヲ知ッテイルゾ」

手紙の宛先同様、字は角がとがり、意図して筆跡をごまかしているのが見て取れる。

今までもおかしな手紙はあった。「政治団体」からの寄付の要請、「NPO法人」からの慈善事業へのお誘いといった、強請りやたかりの数々。その他、殺すとか、会社を爆破するなどといった脅迫の類い…。成功者につきものの代償であろう。

だが、このような内容の手紙は初めてだった。明らかにそれまでとは異質だった。

次第に不安が募った。まるでどす黒い染みが広がるように。

いったい「過去の秘密」とは何のことなのか? 送り主は誰だろうか? そして目的は何なのだろうか…と。

手紙の文面が、脳裏でいつまでも木霊し続けた。

考えるにつれ、疑念はますます膨れ上がっていく。掌にじっとりと汗が滲んできた。

「もしや、あのことが…」

青山は息を呑んだ。

“それ”が表ざたになることは、彼の破滅を意味していた。

青山勇はひとり苦悩していた。事が事だけに、唯一の理解者である妻にも、会社の顧問弁護士にも相談できずにいた。

不安を覚えつつも無視を決め込んでいると、しばらくして、前回と同じ人物と思われる者から、第二の手紙が送られてきた。

「二十代ノ前半ニ何ガアッタカ、知ッテイルゾ」

文面に目を通した瞬間、胸にナイフを突き立てられた気になった。頭が真っ白になり、次の瞬間には身体が震えだした。

どうやら間違いない。送り主は「あのこと」を知っている人物らしい…。

だとすれば、その対象はある程度、絞られる。

それにしても、いったい何が目的だろうかと思った。事業の成功者を脅迫し、大金を強請りとろうという魂胆に間違いないと思うが、詳しくは今後の出方を待つほかない。

考えてみれば、今度のことは、成功への階段を踏み出して以来、なんとなく心の底で不安に思ってきたことであった。いつかこんな時がくるのではないかと内心、恐れていたのだ。それがついに現実となって、目の前にやって来たということだ。

その日、青山勇は代表席に座り、秘書の中村茂から今日のスケジュールの説明を受けていた。そこは一般社員の席とはパーティションで仕切られているだけだ。フロアには「社長執務室」と銘打った個室もあるが、社員とのコミュニケーションの関係上、あまり使用しない。本日、通常の仕事のほかに、財界や官界からの客人が数組ほどあるらしいが、意識が時々あらぬ方向へと飛んでしまうせいか、どうも説明が頭に入ってこない。

「社長、なにか心配事でもあるのですか?」

二十代後半の若者は眉間に皺を寄せていた。

「あ、いや…」青山はハッと我にかえった。「別に、なんにもないが…」

青山は内心ではこの青年をあまり買っていなかった。というのも、当初は、その卑屈ともいえる臣従ぶりが気に入って秘書に就けたものの、最近では今ひとつ仕事に身が入っていないというか、妙に機械的・惰性的になりつつあるからだ。

秘書の主な仕事は、社長のスケジュール管理と社内外の連絡役、対外折衝などである。中村は、一応は彼の手足となって動き、それを無難なくこなすものの、今ではなぜか以前ほどのサービス精神や気配りは見られなくなっていた。

だから機会をみて秘書を別の有能な社員に挿げ替え、中村を社内の適当な部署に追いやろうかと考えていた矢先だった。実際、上場企業になればさらに露出の機会も多くなるし、広報の意味でも若い女性を秘書にしたほうがいいだろうと思っていた。

「私にご相談ください。社長のためでしたら、ご尽力いたします」

ほう、と青山は思った。たしかに、こちらの顔色をうかがう中村の目には、雇用主を救おうという熱意なのか、妙に爛々とした輝きが満ちている。

この男も捨てたものではないと、少しは見直したが、かといって今度の心配事は、こんな若輩者に解決を託せる筋のものでもなかった。

「いや、結構。ありがとう」

一瞬、中村は失望をあらわにした。青山は机の書類に視線を移した。それは秘書に対して「もう用事はないから行ってよい」というジェスチャーでもあった。

中村が一礼して去った、その時だった。

ふいにある考えが脳裏に閃いた。

「ああ、待て、待て」青山は彼を背後から呼び止めた。「ひとつ頼みがあるんだ…」

社長の話を聴きはじめて、中村茂は内心、「ほらほらきたぞ」とほくそえんだ。

中村が青山に揺さぶりをかけることを決意したのは、最近のことである。

その理由は、自分がストックオプションの対象からもれたことだった。

予定されている株式上場に伴い、社長の青山が全社員に提示したストックオプションの条件は「二〇〇X年のX月までに入社した者に限る」というものだった。

その年までの入社組ならば、創業または創業時のメンバーに比較的近い、会社躍進の功労者と見なして、会社の株を譲り別ける、というのである。

当然、その後から入社した者は、漏れることになる。

まさに中村がそうだった。仮にその条件から程遠ければ、諦めもつこう。だが、不運なことに、彼の入社日はその条件からわずか数ヶ月遅れているだけだった。

たったそれだけのことで、彼は上場益にあずかれなくなってしまったのである。

中村はこれが許せなかった。仮に他人も平等に上場益にあずかれないとすれば問題はない。しかし、他人が恩恵を受けて、自分が受けられないことが彼にとって問題なのだ。

それまでも中村は、若くして成功した社長の何気ない言動や振る舞いに屈辱を覚えてきた。実際、青山はときに人を人とも思わぬ傲慢な態度をとることがあった。

彼は昔からこうだったわけではない。人が変わったのは、成功に伴う負の副産物だった。そんな社長の下で傷つき、耐えながらも、中村は彼なりに必死で努力し、会社のため、また社長個人のために身体を張ってきたつもりだった。気に入られるために奴隷的忠実さで仕え、卑屈かつ臣従的な姿勢を己に強いることも厭わなかった。その過程で生じた憤り・不満・屈辱などのマイナスの感情は、すべて意識下に封じ込めてきた。

だが、その身を切るような犠牲に対して、若き成功者は報いようとしなかった。

中村は憤激した。「裏切られた」と感じた。

一転して、それまでの反動がやって来た。意識下に抑圧し、鬱積していた、何か黒々とした邪悪なものが、一挙に表面に噴出してきた。

(そっちがその気ならばこっちだって…)

彼自身は認めたくなかったが、そこには成功者に対する激しい嫉妬や羨望、そして劣等感も渦巻いていた。社を率いる男を間近で見ていて彼が常々感じていた、「おれはこの男には敵わない」という敗北感は、完全に敵意へと変化を遂げた。中村の傷ついた自尊心は、よもや目の前の男が苦しんだ末に破滅することによってしか修復を果たせなかった。

結局、ありとあらゆる負の感情が心のフラスコの中で複雑に混ざり合い、化学変化して生成されたのは、何のことはない、純粋な憎悪の結晶だった。

そして今や中村は、その結晶ストーンから生じる憎悪のパワーによって動かされていた。

実は今回、脅迫状の送付にあたってヒントとなったのが、一年ほど前に青山に対して行われたマスコミの取材だった。

当時、ある雑誌から「ワーカーズドアの社長にインタビューをしたい」という申し入れがあり、中村がそれをアレンジした。社の応接室で行われたそれは「若き成功者の秘密を探る」というありきたりな題名にふさわしく、「初期の逆境や失敗をこうして乗り越え…」等の陳腐なやり取りだったのだが、独創性のない記者の質問にあくびをもらしそうになったそのとき、ふと彼の注意を引き付ける場面が訪れたのだ。

それが、青山がビジネスを始める際の運転資金、すなわち「種銭」について、記者が何気なく質問を投げかけたときだった。

「若いのによく小さくない資金が貯まりましたね。何か秘密でも?」

なぜか青山は一瞬、青くなった。

そして次の瞬間には笑ってごまかし、もちろん必死で働いただけですよ、眠い目をこすりながらね、ハハハハと笑って、うまくはぐらかしてしまった。

やり手社長が今まで人前で見せたことのない、奇妙な表情であり、態度だった。

そばで見ていた中村は、それを見逃さなかった。そして「何かある」と直感した。

考えてみれば、青山勇という人物には謎の一時期があった。すでに公に喧伝された彼の立志伝は、次のようなものだった。

神奈川県平塚市の貧しい小売店の家に生まれる。地元の高校を卒業後、新聞奨学生として苦学し、千葉のT私大に進学するものの、二年で中退。以後、アルバイト三昧の暮らしを送りながら資金をコツコツと溜め、二十六歳の時に一念発起して起業した…。

問題は、大学を去った二十歳から起業までの六、七年間である。この時期の彼を知る者は少ない。いわゆるフリーターとして、将来への夢と不安の狭間で漂うがごとく、首都圏各地を転々としていたという。孤独で、謎に包まれたこの人生の漂流期に、彼が本当は何者で具体的に何をしていたのか、会社の人間で知るものは誰もいない。

貧しい若者が本当に自分だけの力で、あるいは百%完全に合法的な手段で、数千万円もの資金を用意することができたのだろうか。

このマスコミの取材をきっかけに、中村は心のどこかでそれが引っかかっていた。若き成功者は、何か世間に知られたくないことを隠しているのではないかと疑ってきた。

そう思っていたところに、今度のこの「仕打ち」を受けたわけである。

中村は、かつてある男が、まったく面識のない医者や美容外科医たちに対して、片っ端から証拠もないのに「脱税の証拠を握っているぞ」という脅迫文を送り付け、多額の金を騙し取ることに成功した事件を思い起こした。

無差別に送ったにしては、意外にも振込み率が高かったという。見知らぬ人物に弱みを握られたと錯覚した人間の心理というのは、案外そんなものかもしれない。

この事例を参考にして、中村は青山を陥れることにした。

なにしろ憎むべき相手である。恵まれすぎた男から少しくらい掠め取るくらい、どうということはない。開き直りというか、自己正当化の思いが強かった。罪悪感も躊躇もなかった。思わせぶりな手紙を書いて、青年実業家の反応を探ることにした。

むろん、青山がすぐに警察に相談するようであれば、この危険なゲームは直ちに中止せねばなるまい。だが、仮にそれが警察にも知られたくない過去だとすれば、相談はしないはずだ。今回の脅迫状送付は、それを判別する試金石の意味あいもあった。

そうしたら、ドンピシャリだった。

社長は一通目に関しては無視を決め込んでいたが、それでも様子がどことなく変なのが傍で見て取れた。「おや?」と思い、思い切って二通目を送ってみた。

すると、この反応である。どうやら「カマかけ」は成功を収めたらしい。

やはり青年社長は「何か」の過去を隠しているのだ。

勝負はこれからだぞ、と中村は脅迫者としての闘志を燃やした。

「…というわけで、会社の名前も私も名前も一切、表に出したくないのだ。だから、あくまで君個人が調査しているということにしてくれないか?」

「分かりました」

中村は青年社長に向かって頷いた。

「うむ、助かる」青山は珍しく秘書に対して軽く頭を下げた。

社長が言うには、要は青山が「中村茂」の名前でしたためた依頼書を、中村が開封することなく探偵会社にそのまま渡してほしい、ということである。

そして、先方からの報告書もまた同様にして、青山に届けなければならない。

つまり、中村はただ名義を貸すだけなのだ。

もっとも、中村は内心で「開封するなと言われれば開封したくなるのが人情というものよ」などとぺろりと舌を出していた。

数日後、青山からその文書の入った封筒の現物を手渡された。

「なるほど、敵もさるものだ」中村は思わず唸った。

いったいどこから用意してきたのか、それは特殊な色の封筒だった。青みを帯びた銀色とでもいおうか。市販のものとしては見たことがない。当然、厳封されている。

青山と探偵事務所の間でこの封筒の情報が共有されていれば、中村が別のものにすりかえることはできない。それは中身を開封できないことを意味する。

中村は指定された新宿の探偵事務所の門を叩く前に、大きな文房具店に入って商品棚を覗いた。だが、同じものは見当たらなかった。また、店主に実物を見せて尋ねても「こんな封筒は見たことがない」と言って首をかしげるばかりだ。

開封したくとも代替品が用意できないので、中村は困り果てた。文書には日付が入っているであろうから、手渡されたその日のうちに指定されたZ探偵事務所に持ち込まなくてはならない。そうこうしているうちに時間切れとなり、依頼書の中身を盗み見てやろうという彼の目論見は脆くも崩れ去った。

中村はやむなく新宿のZ社に向かった。Z社は業界でも屈指の調査力で評判だ。

事前に指示された通り、中村は封筒と巨額のキャッシュを相手側に手渡した。そして、一応、依頼者は彼という建前なので、「中村茂」の名で契約書にサインした。

Z社の玄関を出たとき、中村はひどく腹を立てていた。

彼はとうとう依頼の内容を知ることができなかった。社長の青山は、個人的なことは一切秘密で通すつもりだ。やはり、秘書といえども、彼はまるで信用されていないのだ。

実際に脅迫状を送ったのが自分であることも忘れて、そのことが癪に触って仕方がなかった。そして、それが彼をしてますます加虐的な心理へと追いやった。

「ようし、そうまでおれを信用しないなら、もっといたぶってやるぞ」

その日、青山勇は仕事を終えると、まっすぐ帰宅した。自宅は赤坂のタワーマンションの最上階にある部屋だ。百五十平米ほどで二億円もした物件である。

「お帰りなさい、あなた」

九時を回っていたが、妻の美香子が夕食を作って待っていた。

二年前に結婚した美香子は、夫の目から見ても美しかった。かつては青山もプレイボーイ気取りで多数の女性と浮名を流したものだが、結婚してからは彼女一筋だった。

美香子は元女優だ。もっとも、一流ではなかった。グラビア界でも映画界でも、結局は泣かず飛ばずで終わった。ただ、青山が気に入ったのはまさにその点だった。

青山が付き合った女性の中には、芸能界で成功を収めていた女優もいないわけではなかった。だが、映画にドラマ、CM出演等で忙しい毎日を送っていれば、必然的に家庭がおろそかになる。とくに問題になるのは子育てだ。相手が売れっ子女優の場合、本業から足を洗ってもらわなくては、家庭を切り盛りすることは難しいと青山は考えた。その点、売れっ子になれずじまいの美香子はちょうどよかったのである。

青山の考えが正しかったことは、一緒に暮らしてみて、すぐに証明された。

美香子は料理が得意で、インテリアと園芸の趣味に秀でていた。彼女は無機質な高級マンションの一室をうまくコーディネイトし、たちまちくつろげる空間へと作り変えた。

今では彼女の存在こそが、ホッと安らげる一番の理由だった。なんだかんだといって、男にとってはこれが一番、家庭に求めることだった。

そのことに気づいた時、青山は美香子を選んで本当によかったと思った。

世間一般では、大物実業家たる者、愛人のひとりやふたりを作って当然だし、逆にそうでなくては器量不足と見なす風潮すらあるらしいが、今の青山にとって妻以外の女性と関係を持つということは、まったく想像すらできないことであった。

夕食中もふたりの会話は弾んだ。

「もうすぐ上場するからな」

「まあ、またその話?」美香子が呆れて笑った。「もう何十回聞いたかしら。今でもお金が使い切れなくて困っているのに、どうしたらいいか分からないわ、あたし」

このところ夫の口癖になっているのは、数百億円の創業者利益が手に入るので一躍、富豪の仲間入りができるぞという夢物語だった。

「おまえがもっと贅沢すればいいじゃないか。どんどん使っていいって、いつも言っているだろう」

「でも…」

美香子は嬉しいのか困ったのか分からない表情をしていた。

彼女は見た目が華やかなせいか、一見、派手好きに見えた。だが、人は見かけによらない。中身は全然、違っていた。夫と同様、裕福でない家庭で育ったが、夫と違うのは彼女の経済感覚がいつまで経っても庶民のままだということだった。青山と知り合う以前は、スーパーマーケットのチラシを睨んで特売品を探す毎日だったという。彼女にとって、高級洋菓子店で一個千円もするそれを買うことは、未だに決断を要する出来事らしかった。

「一億円のダイヤの指輪を買ってもいいんだぞ」

「関節炎になるわ」

「自宅だって、こんな狭いマンションじゃなく、渋谷の松濤辺りの一軒家にするか。別荘はどのあたりがいい?」

「そうねえ…軽井沢かしら? よく分からないわ、あたしには」

「ありきたりだな。沖縄のどこか、プライベートビーチのあるところにしよう。そこに橋桁を作ってクルーザーを横付けするんだ。近いうちに船舶免許もとるよ」

「まあ、夢があってよろしいこと」

「ああ、ずっと夢に見てたよ。アジアに事業を拡大すれば、プライベートジェットも買うぞ。それで世界中を行き来するんだ。成田とか羽田のあの混雑は、もう真っ平だ」

「フフフ…」美香子が笑った。目を伏せて言う。「私は今のままでも十分に幸せだわ」

「相変わらず無欲なやつだなあ」

いつものことだが、妻は富豪としての暮らしにそれほど執着する風ではない。

「ねえ、あなた」美香子が目を上げた。瞳にちょっと真剣な色が混じっている。

「なんだい?」

「上場益が入ったら、少しどこかに寄付するっていうのはどう?」

「寄付だって?」

「そう。そうすれば、もっと社会の役に立てると思うわ」

「あのなあ…」勇はちょっとむくれて見せた。「今でも十分、社会の役に立っているじゃないか。情報産業の一翼を担い、職を探す人と人を探す企業との間を取り持って…」

言っている最中から、企業広告みたいなセリフの陳腐さに自分で萎えていた。

そして、本当に自慢できるほど、おれは世の中の役に立っているのだろうかと、内心で首をかしげた。

二週間ほど経った頃だった。中村はZ社から呼び出しを受けた。

その間、中村は、前回の脅迫状の文面を少し変えて、「二十代ノ前半ニ何ヲシタカ、知ッテイルゾ」という字句の三通目を社長に送りつけていた。

「中村様のご依頼の件ですが…」Z社の担当者は、やはり厳封されたA四サイズの水色の封筒を差し出した。「ご希望通りにして、こちらに収めておりますので」

と言われても、中村は「はあ」と曖昧に返事するしかない。社長の指示で、中村は受け取ったこの報告書をそのまま彼に渡さなければならないのだ。

今度は社名入りの封筒である。あくまで中村が開封できない仕掛けなのだ。

昼食に立ち寄ったファミリーレストランの席で、この封筒を前にした中村は、「はて、どうしたものか」と腕を組んで考え込んだ。

中村はとりあえず、太陽の光に透かしてみたり、理化学教材店で買ったアルコールで拭いたりして、中身を覗こうとした。しかし、中身の字句の判別は不可能だった。

だが、ある閃きをえた中村は、さっそく行動を開始した。

彼はこの社名入り封筒を印刷した印刷会社を探すことにしたのだ。

ただし、報告書には日付が入っているだろうから、あまり提出が遅いと青山に疑われる。焦った。脚が棒になり、途中で何度も諦めようかと思った。

だが、夜の帳が下りた頃に、ようやく目的の印刷所を探し当てることができた。

急きょZ社の社員に偽装した中村は、「ちょっと緊急に必要になった」と言い、社名入り封筒を百枚ほど刷ってほしいと頼んだ。むろん、支払いはキャッシュであり、「請求書はよこさなくていい」とも言った。印刷所の所長は少し不思議そうにしたものの、商売になれば何でもよいのであろう、気前よくその場で封筒を刷ってよこした。

中村はZ社から受け取った封筒を破いて報告書を取り出した。とりあえずコピーした。なぜか、依頼書が入れてあった青みを帯びた銀色の封筒――当然、開封済みで、Z社の押印もある――も一緒に同封されていた。理由は報告書を読めば分かるだろう。

中村は、自前で調達した社名入りの封筒の一枚にそれらを入れ直して厳封し、待ちかねている社長の青山のもとへ、うやうやしく提出した。

中村は報告書のコピーを自宅に持ち帰るなり、さっそく目を通すことにした。

報告書のあて先は「中村茂様」となっている。読み始めて、彼は青くなった。

まず、型どおりの挨拶文が終わると、次の一文が目に飛び込んできた。

「依頼書の入った封筒が厳封でない場合は依頼が無効であること、又その封筒に弊社の社印を押して一緒に送り返してほしいとのお客様のご要望等につきましては、了解する旨…」

危ない、危ない、と中村は冷や汗を垂らした。

仮に中村が依頼書の封筒を開封したままZ社に渡せば、探偵事務所はその依頼を無効と見なして動かない。また、封筒を別の物にすりかえれば、たとえ厳封したとしても、封筒の現物が送り返されることから、その事実がたちどころに青山に分かってしまう。

どうやら、社長の青山は、徹底して秘書を信用していないらしい。

おそらく、探偵のZ社も、事務所を直接訪問した中村なる人物が、真の依頼者とZ社との間の緩衝材に過ぎないということは、とうに承知しているだろう。そして、このような取り決めを奇妙に思いつつも、一応は客の頼みであるから遵守するだろう。

中村は社長がこのような予防策を張っていることを腹立たしく思ったが、一方で開封しなくてよかったと、心から胸を撫で下ろした。

とりあえず、これからも社長が記した依頼書のほうは読まなくていい。調査サイドの報告書を熟読することで、ある程度の推測をするしかない。

さて、肝心の報告書の中身であるが、それはある人物たちについての記述だった。

「李文烈(イムンヨル)は二〇一×年現在、六×歳。東京都台東区東上野××番の土地を所有し、妻の朴秀美(パクスミ)とともに当地で地元客相手のキムチ屋を営んでいる。

店の売り物は、主力商品が自家製のキムチとカクテキであり、その他、韓国製の焼酎や香辛料、乾物なども扱っている。キムチは在日韓国人だけでなく、近隣の日本人にも評判であり、年間の売上高は数千万円に達する。

現在では融資も完済しており、いかなる借金もなく、経済状態は裕福なクラスに属する。店舗は二・三階が自宅を兼ね、裏が漬物工場になっており、もっぱら数名のアルバイトに指示して作らせている。

家族構成は長男と次男がともに亡くなっているため、夫婦ふたりきりである。そのせいか、ふたりとも子供好きで、同胞苦学生の奨学金や交通遺児基金などに寄付をしている。

李文烈は真面目な性格として知られ、趣味と呼べるものは散歩以外にほとんどないが、ようやく近年になって、妻の誘いで日韓の国内旅行をよくするようになった。酒は少したしなむ程度で、ギャンブルには一切手をつけず、女関係の噂は昔からまったくない。

妻の朴秀美も夫に忠実で真面目な女であり、働き者として知られるが、長男の病死にひどくショックを受け、そのせいで次男を溺愛し、結果的に誤れる道を歩ませてしまった(後述)ことを今でも悔いている模様である。現在は温泉地巡りを愉しみとしている。

李文烈は一九四〇年、済州島で生まれた。二十六歳のときに朴正熙政権下の韓国に見切りをつけ、親類を頼って日本に密入国。荒川区東日暮里にある親類の家に居候しつつ、金属リサイクル業に従事する。その後、同地区にあるアパートに移り、飲食店やパチンコ店の従業員、トラック運転手など職を転々とする。

飲食店時代に同じ済州島出身の朴秀美と知り合い、六八年に結婚。その年に生まれた長男の允植(ユンシク)は、三歳のときに風邪をこじらせたのが原因で病死。

その後、一念発起して、民族系の信用組合の融資をうけ、現在の住所である東京都台東区東上野××番の土地を買い取り、キムチ店を開業する。だが、当初は事業がなかなか軌道にのらず、その後、何度も倒産の瀬戸際に追い詰められる。李自身はその原因について、自分が済州島出身者で、しかも新参の密航者であったため、長らく在日社会から白眼視されたためと周囲に漏らしていた模様。もっとも、今では事業も順調で、すっかり地元の顔・古参者であり、商工会活動などにも参画している。

次男の永吉(ヨンギル)は六九年に生まれた。永吉は在日韓国人として地元の小中学校に通い、日本人の子弟と一緒に机を並べた。早くから悪童として頭角を現し、中学時代には完全に不良仲間の一員としてケンカや器物破損、窃盗などをくり返し、度々、警察の厄介にもなっている。

少年時代がちょうど店の経営が苦しかった時期と重なっていたため、永吉は割りを食った。実家の経済的貧窮だけでなく、同胞からもキムチ屋をからかわれたことがトラウマとなり、店を絶対に継がないと宣言して父親と対立。中学を卒業後、いったんは金属加工会社に工員として就職するが、しばらくして退職し、以後、建設現場やパチンコ店などで職をえるものの、いずれも長続きしていない。そのうち、店を手伝いながら不良仲間と戯れる日々を送り始め、実家を飛び出したり、戻ったりをくり返した。

李永吉の転機は、十七歳のときに訪れた。仲間から誘われたのがきっかけで、関東の広域暴力団として有名なS会の二次団体六田組に出入りするようになり、結局、そのまま組員となった。

台東区に拠点をおき、構成員・準構成員あわせて百名ほどの六田組の中で、永吉は次第に頭角を現しはじめた。とくに組の重要な資金源を担ったことで、二十代半ばにして幹部になり、フロント企業の社長にも就任した。

彼は「ヨンギル」ではなく日本風の「エイキチ」で通っていた模様。暴行傷害などの容疑で数回、警察に逮捕・起訴されているが、いずれも懲役自体は免れている。

一九九九年、ホテルの一室で、覚せい剤の打ちすぎが原因と思われるショック死を起こす。享年三十。ちなみにその数年後、大量の覚せい剤密輸の嫌疑で、六田組は警察の一斉摘発をうけ、幹部が多数逮捕された。現在は組長が病死・不在で、組員の脱退が相次ぎ、活動はほとんど休眠状態になっている…」

中村茂は、一読して、この内容をいったいどう受け取ればいいのか、しばらく考えあぐねた。要は、キムチ屋の老夫婦とその亡くなった息子についてのレポートである。

どうやら青山は、この連中が彼に「オマエノ過去ノ秘密ヲ知ッテイルゾ」という手紙を送りつけた、と思い込んでいるらしい。

つまり、「ワーカーズドア」の創業以前に、両者に何らかの接点があり、彼らが青山に関する何かいかがわしい秘密を握っている可能性のあることを意味している。

少なくとも青山はそれを恐れているということであろう。

中村は報告書の内容を何度も読み返し、推理を働かせた。そろそろ脅迫状にも何らかの具体的な文句を挿入しなければ、実際は何も知らないことを青山から見抜かれてしまう可能性がある。そのためには、報告書から何か具体的情報を読み取らなくてはならない。

おそらく、ビジネスをスタートさせた時の資金に関わることに間違いない。

また、キムチ屋の主人である李文烈よりも、その息子の永吉のほうが怪しい気が否めない。なにしろ、元暴力団の幹部である。そして彼と、彼の組は、覚せい剤と深く関わっていた。ふと、中村の脳裏に閃くものがあった。

(まさか青山勇という男は、この六田組の構成員だったのか!? 又は準構成員だったのか!? 世間にその過去を知られることを恐れているのだろうか!?)

そう思った次の瞬間には、しかし、中村自身がその閃きを否定していた。

もし本当にそうだとしたら、今頃は青山を強請ろうとする輩が引きも切らなかったであろう。なにしろ六田組はかつて百名もの大所帯だったのだ。しかも、今では没落している。当然、ジリ貧になった組員・元組員たちは甘い汁を求めて我先に青山のもとに群がっていたはずだ。だが、秘書としてそういう現象を見聞きした覚えがないということは、この仮説は否定されねばならないということである。

ただ、まったく無関係かというと、そうでもあるまい。

おそらく、両者は「何か」が絡んでいるのだ。

たとえば、組織の一員というのとは、また別の形で関わっていた可能性もある。

推理力を働かせろ、と中村は己を叱咤した。

今更のように彼らのことを調べるということは、今ではすっかり連絡が途絶えているということだ。だが、過去には何らかの形で関わっていた。又知り合いだった。そしてその関係性の中から、青山は数千万円もの起業資金を捻り出したに違いない。

しかも、彼が恐れているということは、「何らかの不正」である可能性が高い。

この報告書の行間には、たぶん、大きなスキャンダルが埋もれている。

中村はとりあえず新たに得たキーワードを考えてみた。

暴力団、覚せい剤、キムチ……といった単語が浮かんできた。

中村茂が首をかしげている同じ頃、報告書に目を通した青山勇は、強い衝撃を受けていた。彼は顔を蒼白にして、「やっぱり…」と独語した。

それは彼が密かに恐れていたとおりだった。

脳裏に、辛く、孤独だったフリーター時代の思い出が蘇ってきた。

当時、青山は「将来、何かのビジネスを始めてみたい」と思っていた。

だが、そうやって己の将来像をなんとなく思い描いたところで、先立つ資金もほとんどなかった。彼の夢は「絵に描いた餅」でしかなかった。

だが、希望と失意の狭間で揺れ動いていた二十四歳のときに、思いもよらなかったチャンスがめぐってきた。上野の焼肉屋でホール係のアルバイトをしていた頃である。

あるとき、青山は、ある常連客からそのきびきびした働きぶりを見止められ、声をかけられたのである。

「いい仕事があるんだが、やってみないか?」

それがキムチ屋の店主だった李文烈との出会いだった。

仕事の内容は、月に数回、韓国の釜山から韓国産のキムチや唐辛子を手荷物として東京まで大量に運んでくるものだった。しかも一回につき報酬は五十万円だという。

信じがたい好条件だった。釜山と東京を往復するだけで、当時の月収二ヶ月分に相当するキャッシュが手に入るのだ。青山は一も二もなく李の申し出を快諾した。

実際にやってみると、仕事は体力と若干の神経を使うこと以外、何も難しくはなかった。これで五十万円も貰っていいのかと、青山のほうが気を使うほどだった。

まず、新幹線で東京から下関まで行く。そこから十九時発の日本船の関釜フェリーに乗り込み、翌朝の八時半に釜山に到着する。その日のうちに指定の場所に向かい、取引先の韓国人から大量のキムチと唐辛子の荷物を受け取る。帰りは、釜山十九時発・下関八時半到着の韓国船の釜関フェリーを利用する。荷物は無税の個人携帯貨物品という扱いで船内に持ち込む。このような日韓フェリーの運賃は、往復で一万七千円と格安だ。

むろん、絨毯の床に雑魚寝する二等船室を使うし、手荷物は別途、重量に応じて運賃に加算されるが、それでもせいぜい追加数千円ほどである。下関に到着後は宅配便を利用するものの、なぜか店舗への「直送り」が禁止されていた。宛先を自宅アパートに指定しろと言われた。荷物を自宅で受け取ってから、その手でキムチ屋の裏口に運んだ。

「うちのキムチは本場韓国産の唐辛子を使用していることが売りなんだ」

李文烈はそう得意そうに言った。

「そうやって韓国産のキムチそのものをブレンドすることによって、乳酸発酵まで韓国で漬けたのと同じになる。競争に勝つには何か他と違うことをやらないとな」

青山は月に数回、この運び屋稼業に従事した。

日韓フェリーには彼と同じような人間が多数、乗り込んでいた。彼らはどうやら、一方の国の商品を個人荷物として大量に船内に持ち込み、もう一方に引き渡すことで生計を立てているらしかった。荷物は食料品や生活雑貨が多かったが、日本から韓国へ向かうときにはそれに家電製品が加わっていた。

この運び屋たちの大半は韓国人のおばさんであるが、明らかに在日韓国人と思われる男性などもおり、在日社会の独自の物流ネットワークの存在を改めて感じさせた。

大勢の運び屋たちのせいで二等船室の一角はいつも窮屈であるが、メリットがないわけではなかった。通常、国境を越えるには出入国審査に手間取るものだが、日韓フェリーには「いつもの運び屋たち」が大量の荷物を抱えて下船のために群れをなしているという特殊事情がある。管理局側もそれを心得ていて、物理的・時間的制約から荷物チェックにもその現実が反映されていた。こうして青山も彼らの一員に埋もれることができた。

稼いだ金をほとんど使わなかったこともあり、青山の貯金は月日とともに膨らんでいった。一年と少し過ぎた頃には、二千万円にも達していた。念願だった商売を始める際の種銭ができたことを思うと、降って沸いたような幸運に喜ぶことしきりだった。

だが、貯金が膨らむのに比例して、疑問もまた次第に膨らんでいった。

あまりに話がうますぎるのである。余計な口はきかないほうがいいと分かりつつも、ある日、青山はその疑問を何気なしに李文烈に投げかけてみた。

「正規に輸入すると関税がかかるが、個人荷物だと無税なんだよ」李は笑顔で答えた。「だから、結果的に安くつく…そういうことだ」

たしかに、それが日韓フェリーの船内に行商人が跋扈している理由ではあった。

だが、それでも五十万円という報酬が、関税や通関手続きにかかる費用を下回っているとは思えなかった。つまり、李の言葉とは裏腹に、「結果的に高くついているのではないか」と思えてならなかった。もっとも、内心でそう疑問に思いつつも、この仕事を失うことを恐れて、青山はそれ以上立ち入った質問はしなかった。

だが、疑問はますます膨らんでいった。彼はやがて、「自分は何かの禁制品を運ばされているのではないか」と思うようになった。

そしてある日、思い切って尋ねてみた。

「おじさん。荷物の中身は、本当にキムチと唐辛子だけなんですか?」

外から荷物を見る限りは、たしかにそうだった。

李文烈の顔からいつもの笑みが消えた。

「余計なことは知らないほうがいい。これは韓国産のキムチと唐辛子だけだ…あくまで君はそう信じていなさい。それが君のためだ」

その言葉を聴いて、青山は「ああ、やっぱりそうだったのか」と思った。

だが、慣れとは恐ろしいもので、青山はその日以降も平然と通関することができた。

日本側の入国審査官は荷物について質問をした際に、返答する相手の目をじっと見ているようだった。おそらく、何かやましいことがあると、質問を受けた際に目の表情として表れるはずだというマニュアルでもあるのだろう、と青山は憶測した。

だが、彼は現実に自分の運んでいる袋の中にキムチと唐辛子以外の何が入っているかを知らない。だから、ごく平然としていられたし、荷物チェックでビニール袋を破かれたことも一度もなかった。もっとも、そんなことをすればキムチの臭いで周囲は惨事になるだろうが――。周りの、同じような運び屋軍団が絶好のカモフラージュになっているという安心感もあった。

青山は、彼の雇い主である李文烈のことが好きだった。親しみを込めて「おじさん」と呼んでいた。釜山で受け取った荷物を店に運び込んだとき、よく夫妻は「飯でも食っていきなさい」と自宅に招いてくれた。おいしいキムチも分けてくれた。青山はキムチが大好物になった。上野の繁華街に、何度も飲みに連れて行ってもくれた。

そんなある日、青山は裏事情の一端を知った。焼酎をたくさん開け、ひどく酔ったときに、李文烈がそれを漏らしたからだ。後の彼の様子を見るに、おそらく秘密を明かしているという自覚がその時になく、記憶にも残らなかったことは、幸いだったかもしれない。

それは思い出話から始まった。苦労人は誰かにそれを語りたがるものである。

李文烈は済州島からの密入国者で、以前は在日社会でもよく差別されていた。ひとり目の息子は幼くして急逝した。一念発起して始めたキムチ屋も、当初はうまくいかなかった。そのために貧乏で、次男の永吉に教育をつけさせてやれなかった。その次男坊は成長すると不良になり、最後にはヤクザになってしまった。

永吉は、ヤクザ社会での出世を目指した。彼には猛烈な劣等感とそれを克服しようとする上昇志向が同居していた。だから、率先して危ない橋を渡ろうとする傾向があった。

ある日、永吉は、組の資金源である密輸のカモフラージュとして、実家のキムチ屋を利用することを思いついた。それは彼にしてみれば一世一代の大博打であり、組内でのし上がるためには絶対に成功させなければならない事業だった。息子は親に土下座してまで頼み込んだ。李文烈には、子供を高校にも行かせてやれなかったという負い目があった。ひとり目の息子が亡くなったこともあり、妻の秀美も彼を溺愛していた。

結局、李文烈は協力を約束してしまった。

「こういう運び屋には、カタギの人間がぴったりなんだ。おれたちじゃすぐに目を付けられるから」

息子の永吉はそう言ったという。

青山は結局、その永吉とやらには会ったことがなかったし、顔もついぞ知ることがなかった。むろん、これは意図的であろうと思った。

なぜなら、万一、運び屋が逮捕されても、黒幕は逮捕されずにすむからだ。

実際、顔を真っ赤にして酔った李文烈も、その時にこう言っていた。

万一のときは自分たちも「知らなかった」で押し通し、あくまで息子をかばい立てするつもりなのだ、と。

次に会ったときには、李文烈は酔った勢いで青山に話したことをまったく覚えておらず、いつもの秘密主義の彼に戻っていた。

ただ、自分が何らかの密輸の片棒を担いでいるという事実だけは分かった。

やがて、二年が過ぎた。青山は三千万円もの大金を溜め込んでいた。相変わらず、自分が本当は何を運んでいるかは、知らなかった。いや、正確には知るのが怖かった。

青山は、大金を稼いでいるにも関わらず、いつまで経っても質素な身なりをしていた。あるとき、李文烈は一向に派手にならない彼を不思議に思って、そのことを尋ねた。

「お金をためて商売をやりたいんです」

青山がそう返答すると、李文烈はしばらく青年の顔を見つめて、じっと考え込んだ。

「私の若かった頃を思い出すな」李はまるで息子か何かを見るような優しげな目つきになった。そして勇気付けるように青山の肩を叩いた。

「悪いことは言わん。それなら、今の仕事を早くやめたほうがいい。もうとっくに気付いているだろうが、運んでいるものは違法な品だ。巻き込んですまなかった。息子には、私のほうからよく言っておくから…」

こうして、両者の関係は終焉をむかえた。そして、それっきりになった。

これが、青山が今まで口外することのなかった、若き日の思い出であった。

Z社の報告書によると、李永吉の所属していた六田組は、覚せい剤を大量に密輸していたという。

間違いない、と青山勇は思った。

自分があの時、運んでいた荷物の中に隠されていたのは覚せい剤だったのだ!

それまでも薄々感づいてはいたが、改めて確信すると衝撃のあまり息が止まった。まるで時間と空間が凍りついたようだった。自分が今いる社長執務室が牢獄に感じられた。

青山は、自分がかつてしたことに対して、改めて罪悪感を覚えた。社会に撒き散らした害毒を思うと、戦慄せざるをえなかった。そして何よりも、自分が覚せい剤の密輸に従事していた事実が万一、世間に表ざたになれば、確実に人生が破滅すると恐怖した。

脅迫犯がその事実を握っていると想像するだけで、いても立ってもいられなかった。もしそうだとしたら、その人物は彼の生殺与奪の権限を手中に収めていることになる。

しかしながら、李文烈が本当にその脅迫犯だろうか、と疑問に思った。

青山は李文烈に対して複雑な感情を催した。彼が密輸に従事していたことを直接知っているのは李文烈だけである。報告書によると、黒幕の李永吉はすでに亡くなっている。

李文烈から、密輸の片棒を担がされたのはたしかだ。だが、そのおかげで彼は自分でビジネスを始めることができた。それに李おじさんは優しかった。最後には彼のことを気遣い、違法行為から解放してくれた。ある意味、今日の成功は彼のおかげと言ってよい。

その李は今、借金もないし、経済的に裕福で、寄付までしているという。

果たして、そんな人間に他者を強請ろうという気が起こるだろうか。

常識的に考えれば、まさか起ころうはずもない。

考えてみれば、このような脅迫状を青山に送りつければ、真っ先に疑われるのは李文烈自身である。そして犯人を突き止めようとする青山側の調査追求の手から逃れられるはずもない。それが分からないほど李文烈が頭の悪い人間でないことは、彼と間近で接していた青山が一番よく知っている。

だいたい、他ならぬ李自身も密輸の片棒を担いでいたのだ。規模こそ異なるが、世間に表ざたになることによって築き上げてきたものを失うという意味では、青山と同じ立場である。つまり、彼も強請られる立場であって、強請る立場ではありえないはずだ。

こういった理由から、脅迫状をよこしたのは李文烈ではないと思えた。同様に彼の口から青山が密輸に加担していた事実が漏れることも考えられない。なぜなら、李自身が共犯者である以上、それが外部に漏れることは自身の破滅をも意味するからだ。

報告書から察するに、六田組に対する一斉摘発の際に、李文烈のキムチ店は無事だったようだ。これは、その頃には組の密輸と完全に関係を断っていたことを意味する。

おそらくは、息子の永吉の死とともに、その関係は終わったのだろう。摘発当時、六田組は多数の幹部が逮捕されたそうだが、彼らの供述からも漏れなかったということは、李永吉が活用した密輸ルートが極めて個人的なものだったからに他ならない。

むろん、当時の永吉自身にも家族を守る意志があったのだろう。

そう考えると、永吉の口から青山のことが漏れた可能性も低いと考えざるをえない。なぜなら、自身の家族をも巻き込んでしまうからだ。

では、脅迫状を送っている者は、いったい誰なのだろうか? 脅迫者は今現実に存在し、彼に脅威を与えているのだ。青山はますます分からなくなった。

李夫妻はかくのごとしだし、息子の永吉も一九九九年に死亡している。

彼はたぶん、自分が密輸した覚せい剤に手を出してしまい、中毒か何かになってしまったのだろう。そう考えると、晩年は正常な思考が困難になっており、運び屋だった青山のことをうっかり周囲に漏らした可能性も考えられる。だが、それにしては脅迫の時期が遅すぎる感も否めない。なぜなら、ベンチャー企業家としての青山の名前と顔が喧伝され始めたのは、ネット株がバブルの様相を呈していた六、七年も前のことだからだ。

つまり、仮に李永吉周辺の暴力団関係者が、永吉が死亡する一九九九年以前に青山の情報を手に入れていたとしたら、もっと早くに「ワーカーズドア」を標的にしたはずなのである。仮に脅迫犯がそのような暴力団関係者だとすれば、その熱狂が下火になってしまった今の時期になってようやく強請りを始める可能性は低いはずだ。

もっとも、結局のところこれも推測の域を出ない。

たとえば、最近になって急に金に困り始めたのかもしれない。実際、企業家を強請ろうなどという考えは、普通はカタギの人間には思い浮かばない。

青山勇はいろいろと考えた末、やはり故李永吉の周辺がもっとも怪しいのではないかという結論に落ち着いた。まだ永吉が生きていた頃に、彼を通して何らかの形で青山が密輸に関与していた事実を知った暴力団関係者がいた。そして、最近になって、企業恐喝という犯罪へと駆り立てる窮状が、その男に生じた……。

とりあえず、そんな予想を立ててみた。

ただの推測とはいえ、犯人像に独自に目星をつけたことは、青山にとってある程度の心理的な救いにはなった。いずれにしても、焦点は今後の調査の進め方であろう。

脅迫者はいったい誰なのか? 調べねばなるまい、なんとしても。

秘書の中村がその日の予定を社長に説明していた。

「…部長級会議は五時半までに終了させ、移動。六時から、ホテルニューオータニでIT企業経営者の集いがあります。ライバルのNも出席の予定です。それが終了次第、今度の上場に関して『日刊Jスポーツ』をはじめマスコミ数社の記者から取材があります。その後、赤坂のY亭で、経団連のT氏をまじえて会食…。本日の予定は以上です」

青山はあからさまなため息をついた。

「Jスポはこれで三度目じゃないのか」

「はい。デスクに尋ねたところ、読者層が読者層ですので、社長のような『若き成功者』の記事は羨望とやっかみを引き起こすらしく、反響がとても高いのだとか」

そんな男が薬物絡みで逮捕されれば反響はもっと凄まじいことだろうよ。

と青山は思わず内心で自嘲した。

成功者が破滅する様を見た読者たちは、きっと小躍りするに違いない。

「ところで中村。また、これをZ社に届けてくれないか?」

青山が差し出したのは、例の銀色の珍しい封筒だった。第二の依頼書である。

ほらほらおいでなすったぞと、中村はほくそえんだ。

中村はZ社に行き、依頼書をそのまま手渡した。その帰り、彼は上野に向かった。

東上野にそのキムチ屋はあった。店内では、老眼鏡をかけた老いた男が丸椅子に座り、新聞を広げていた。李文烈だと中村は直感した。

ふと、過去に本当に青山勇と接点があったのかどうか、確かめてみようと思った。

中村はキムチ屋に入り、品定めをしながら、親しそうに店主に話しかけた。キムチに関する質問には何でも答えてくれた。

うちは韓国産の唐辛子を使っているんだ、発酵の度合いによってちゃんと食べごろの期間というのがある、材料は白菜と唐辛子だけじゃなく魚介類や果物も混ぜて複雑な味にしているんだ……李親父は得意げに語り、話は弾んだ。

「ああ、そうそう」中村は頃合をみて言った。「そういえば、バンクソフトの孫義正さんって、在日同胞なんだってね」

「ああ、らしいがね」親父の顔が少し誇らしげにほころんだ。

「あの人、資産がウン千億円なんでしょ? いいねえ、ベンチャー企業の創業経営者なんて、株式上場すれば一夜にして億万長者だからね」

「私らの頃とは時代が違うね」

「新聞か何かで読んだんだけど、そういえば今度、『ワーカーズドア』の青山勇っていうのが新興市場に会社を上場させるらしいね。なんでも、まだ三十七だとか」

突然、親父の顔つきが変わり、目があちこちに泳いだ。

「おじさん、知っている?」

「あ、ええっと…」店主はもごもごと口ごもった。「いやあ、初耳だな…」

「日本人も最近はキムチを食べるようになってきたじゃない。商売は繁盛しているんでしょう? おじさんだって、工場作って、上場を目指せば?」

「アハハ…」親父は少し引きつった笑みを浮かべた。「私ももう少し若ければ、この商売を拡張して、本格的な食品製造会社にするんだがなあ…」

「なあに、まだまだお若いじゃないですか」

中村はキムチ屋を出た。店主に背を見せつつ、「間違いない」とほくそえみながら。

このキムチ屋の主人は、明らかに青山勇のことを知っている。そして、何らかの理由で他人のふりをしたのだ。やはり「何か」を隠したいらしい。

社長の青山は、この主人が脅迫状を出したのではないかと思い込んでいるらしい。強請られていると思い込んだということは、青山がこの主人に何らかの弱みを握られている可能性があるということだろう。だから、この男のことを恐れているのだ。

では、その弱みとはなんだろうか。おそらく、創業時の起業資金の出所が絡んでいるに違いない。もしかして、何らかの非合法な活動が関わっており、その過去を暴露されることを恐れているのだろうか。だから、相手の動向を気にしているのではないか。

いずれにしても、両者は過去に接点があったのだ。

今回はそれが分かっただけでも収穫である。そしてそうと分かった以上、次の脅迫状には、具体的に過去を連想させる言葉を遠慮なく挿入することができる。

中村は報告書を盗み見た成果を反映させる形で、四通目の脅迫状をしたためた。

「手錠ヲカケラレタイカ? キムチ、暴力団、覚セイ剤」

かくして、青山勇のもとに、また追い討ちのように脅迫状が届けられた。

青山は社長執務室に閉じこもって中から鍵をかけると、文面を開いた。

その瞬間、ある文字に目が吸い寄せられた。

「…キムチ、暴力団、覚セイ剤」

今度は決定的だった。あまりに具体的過ぎる。

もう間違いなかった。送り主はあのことを知っている!

青山は椅子に崩れた。恐怖の重圧で胸が圧迫された。まるで全力疾走で駆けたように、心臓がドクドクと痛みを伴って脈打ち始めた。

万一、覚せい剤の密輸でビジネスの運転資金を手に入れた事実が世間にばらされたら、確実に警察に逮捕されるだろう。

今を時めく青年実業家の一大スキャンダル……マスコミが狂喜する様が目に浮かぶようだった。当然、会社を上場し、創業者利益を手に入れてセレブな暮らしを楽しむという夢も露と化すだろう。いや、企業家生命の終焉程度ではすまないかもしれない。明らかに反社会性の強い重罪である。懲役も食らって人生そのものが終焉しかねない。

ふと、美香子の姿が脳裏に浮かんだ。結婚した青年実業家の正体が覚せい剤の元密輸人だったと知って、いったい彼女はどう思うだろうか。

家庭崩壊は免れないに違いない。彼女は夫を軽蔑し、見捨てるだろう。夫婦の間にまだ子供がいないことが幸いだったかもしれない。

要は、この件でいったん逮捕されてしまえば、以後は一生、日陰者として世間から隠れて生きるほかないということだ。それは想像するだに恐ろしい未来だった。

そして、決してあってはならないことだった。

とても警察や顧問弁護士に相談できるような事柄ではない。

青山は震える手で、棚から六法全書を取り出した。ほとんどまっさらだ。

調べてみてはじめて知ったが、覚醒剤取締法というのは数十条にも及ぶ長大な法律だった。そして自分が過去に行った行為は、ありとあらゆる条項に違反していた。

中でも青山の目を引いたのは罰則の項目だった。

第四十一条では、「覚せい剤を、みだりに、本邦若しくは外国に輸入し、本邦若しくは外国から輸出し、又は製造した者は、一年以上の有期懲役に処する」とあるが、次の二項では「営利の目的で前項の罪を犯した者は、無期若しくは3年以上の懲役に処し…」とあった。また、同条の三では、「輸入及び輸出の制限及び禁止の規定に違反した者」の罰則として、「十年以下の懲役に処する」とも定めていた。

法律の文言を読んでいるだけで、まるで自分がその刑に処せられるような気がして――事実その可能性があるが――さらに心臓が痛んだ。

六法を紐解くうちに、自分が密輸人として関税法にも違反しているだけでなく、もっと重い罪に該当している可能性もあることが分かった。それは薬物の営利目的での輸入を「業」として行った場合に適用される麻薬特例法である。これによると、罰則は「無期または五年以上の懲役及び一千万円以下の罰金」と定められている。

青山は分厚い書籍をパタンと閉じた。

ひとつはっきりとした。彼が今、姿を見せない脅迫者によって生殺与奪の権限を握られているということだ。生かすも殺すもその者の気分次第である。

青山の運命は今、他人の手の平にある。

悪戯ではありえない。目的はやはり金だろう。彼の肝が十分に冷えた頃を見計らって、要求を突きつけてくるに違いない。

青山には、強請りに応じるしか選択肢はないように思われた。

だが、一度、強請りに応じてしまったら、以後も強請られつづけるに違いない。犯人にとって、彼は黄金の打ち出の小槌だ。永遠にたかられる可能性が高い。

どうすればいい?

要求に応じなければ地獄に落ちる。だが、応じてもまた無間地獄である。

地獄の「度合い」を考えてみた。

仮に、過去の犯罪を世間にばらされれば、すべてを失う。相手の要求に応じれば、とりあえずは、それは避けられるだろう。それに、相手もいったん金を強請りとることに成功すれば、さらに罪を重ねたことになり、もはやばらすことはできなくなる。なぜなら、ばらせば、犯人自身にとっても身の破滅に繋がるからだ。

もっとも、そこまで持っていくには、ある程度、犯人の身元の証となる、又は犯人に繋がる何らかの手がかりを手に入れなくてはならない。

というのも、相手がまったくの正体不明を通すことに成功すれば、十分な金を強請り取った後にばらす、という鬼畜の所業に及ぶことも考えられるからだ。

探偵事務所のZ社には、第二の依頼書をしたため、臭いと睨んだ故李永吉周辺の暴力団関係者を洗わせている。こちらも、相手に対する包囲を狭めていかなくてはならない。

青山は、苦渋の末「強請りにはとりあえず応じたほうがいい」と考えた。

すべてを失うよりはマシだからだ。

だが、その先に待ち受けているのは、底なし沼かもしれなかった。

この脅迫状が届いて以降、青山は、表の自信家ぶりとは裏腹に、内心では常に不安に苛まれ、ビクビクするようになった。

過去の忌まわしい記憶がいつも彼の脳裏に纏わりついた。

しばらくして、青山勇は不眠症になってしまった。豪華なディナーパーティで出されるフォアグラや銀座の高級寿司を食べても、さっぱり味が分からなかった。

街の様子も違って見えるようになった。そこはいつもの喧騒で満たされていた。

だが、すれ違う人々の何事もないかのような表情を見ていると、まるで自分だけがこの世界から疎外され、重圧に苦しんでいるような気がしてならなかった。

「あなた、どうかしたの?」

夕食時だった。

テーブルの向こうで、美香子が形のよい細い眉毛をしかめて、心配そうに尋ねた。

「いや、何でもない…」

「何もないはずがないじゃない。あなたったら、最近ため息ばっかりついているし、食だってめっきり細くなったし、本当に変よ」

青山勇は、初めて自分が茶碗を持ったまま止まっていたことに気付いた。これではおかしいと思われるはずだ。

だが、この件に関しては、相手がいくら妻でも言えなかった。覚せい剤とか密輸といった物騒な話は、平和な家庭に持ち込めるものではないのだ。

「大丈夫だ」

勇は飯を無理して飯をかき込んだ。相変わらず、味がしなかった。

美香子がそんな夫を悲しそうな目でじっと見つめていた。

寝る前だった。勇は居間のソファでクラシックのCDを聴いていた。頭から少しでも苦悩を追い払いたかったからだ。

だが、美しい調べへの集中は途切れがちで、ふと気が付くと、例の心配事に意識が行っているのだった。そして無意識のうちにこんな言葉が口をついて出た。

「おれは、どうすればいいんだ」

悩みを誰にも打ち明けられず、ひとりで抱え込むのは存外に辛かった。

ふと、何の前触れもなく、美香子が隣に腰掛け、寄りかかってきた。

「私はあなたの妻よ」頭を夫の肩に持たれかけさせた彼女が呟いた。「あなたが辛い思いをしていると、私も辛いわ」

「…………」

「どうか、隠し事はしないで。私はあなたが大富豪になることよりも、毎日を平穏無事でいてくれることのほうが、ずっと嬉しいの」

クラシックの調べが、ふいに甘いものに変わった。

「ありがとう」

美香子の優しさに触れることができて、少しばかり救いとなった。

ふと、以前、妻が何気なく漏らした「少しどこかに寄付するっていうのはどう?」という言葉が脳裏に思い浮かんだ。

その場でそれはすぐに財団の設立というアイデアへと発展した。公益法人を通して何らかの慈善事業をやれば、自分の罪を少しでも相殺できるのではないかと思ったからだ。それに、この措置は脅迫者が万一、自分の過去を暴露した時の備えともなる。

「青年実業家はたしかに社会的に許されない罪を犯したが、一方で罪悪感に苦しみ、罪滅ぼしをしていた」ともなれば、世間の理解も断然違ってくるだろうからだ。

つまり、財団の設立は予防線であり、いわば将来のセイフティネットである。

夫の表情が少し明るくなったのを見て取ったのか、美香子が少し微笑んだ。勇も微笑み返し、彼女の肩を優しく抱いた。

翌朝。青山はいつもの時間に六本木の本社に姿を現し、いつものごとく仕事を始めた。

傍目には何も変わりない。だが、心の中は相変わらず落ち着かなかった。

考えごとをしていると、手元がおぼつかない。青山が社判を書類に押しているときだった。いつの間にかスタンプ台のインクが指に付いており、大事な書類に赤い指紋を残してしまった。青山は思わず「チッ」と舌打ちした。

彼はそのくっきりとした己の赤い指紋を、しばらくじっと見つめた。


社長の青山が日に日に憔悴していくのを見て、中村はしてやったりとほくそえんだ。

やはり、あの「キムチ、暴力団、覚セイ剤」という文言が効いたらしい。思いのほか的の真ん中を射たのかもしれないと思った。

この「成功」は中村を悪い意味で勇気付けた。社長が心理的に追い詰められるのに比例して、その秘書はますます邪悪になった。

いつしか中村は青山から大金を毟り取るべく、思案するようになった。

もっとも、それは彼にしてみれば、本来ストックオプションで受け取れるはずのお金だったので、いわば正当な権利であり、よって犯罪との認識はなかった。

わずかに疼く良心も、「おれがこんなことをせざるをえなくなったのも貴様のせいだ」という責任転嫁と、「部下からこんな風に思われる社長のほうこそ悪いのだ」という自己正当化の論理によって、跡形もなく消し飛んだ。

ダークサイドに堕ちた中村は今や、傲慢な青年実業家に対して、このおれが「罰」をくれてやるのだというような錯覚すら催していた。

考えた末、匿名口座を用意し、そこに大金を振り込ませるアイデアに落ち着いた。

むろん、その口座を獲得するプロセスで、己の素性がいかなる形であっても表に露出してはならない。それ以上に課題といえるのは、金の引き出し方法である。匿名のキャッシュカードを使用しても、ATMの防犯カメラに、ばっちりと容姿を録画されてしまう。強請られているとして青山が警察に駆け込んだ場合、警察は直ちにその録画を彼に照会するだろう。その瞬間、脅迫者が秘書であることを特定されてしまう。

中村は解決策を熱心に模索した。誰でも己の利益に直結することにはかけては勤勉な調査マンに変貌するものである。彼が行き当たった解決策は、その都度「出し子」を雇うというものだった。高額報酬を餌に、その場限りのバイトを雇えばいい。渋谷の繁華街にたむろしている少年たちで十分だ。互いに身元を知る必要もない。

結論は出た。目的はあくまで大金の入手である。

よく晴れた平日の昼間だった。椅子に腰掛けて店番していた李文烈は、一見してその客を不審に思った。店先に現れたのは、サングラスで目元を隠し、口ひげを生やした長髪の男だ。右手に紙袋を提げている。

男は入店するなり、しきりに店内をきょろきょろとし始めた。怪しいが、品物を見定めているので、一応は客なのだろう。

やがて、男は店内の冷蔵ケースに入ったキムチの桶を指差すと、紙袋からタッパーを取り出し、「これに入れてくれ」と注文した。近所の、なじみの客はよくこういった買い方をするが、一見では珍しい。通常はビニール袋に入れたものを買っていく。

桶に入っているのは半分になった白菜なので、李は「一個ですか、それとも二分の一、四分の一ですか」と尋ねた。

男は一瞬躊躇したが、「このタッパーに入るだけ」と返事した。

李はタッパーの容積を適当に見繕って、まな板の上で白菜をカットした。

「毎度あり」李文烈はキムチを入れたタッパーを男に手渡そうとした。

しかし、男の顔を見ると、その目はあらぬ方角へと向いていた。

サングラス越しの視線の先を追うと、店内の隅で積み重なった新聞紙に行き当たった。それは包み紙として利用しているものだ。

その束の一番上がたまたま「日刊Jスポーツ」だった。なぜかは分からないが、客の視線がその数日前のスポーツ新聞の表紙に釘付けになっていた。

男は、眼前にキムチの入ったタッパーが差し出されていることに気付くと、慌ててそれを受け取り、「どうも」と口ごもってお金を手渡すと、逃げるように店から出て行った。

(最近は)李文烈は思った。(変な客が多い……)

暗闇の中――。青山勇の顔が不気味な紫色の光線に照らし出されていた。

青山が変装してまで李文烈に直接、タッパーを手渡したのには訳があった。

彼の指紋を採るためである。青山は少しでも犯人に近づく手段として、脅迫状から独自に指紋を採取することを思いついたのだ。

タッパーのそれと比較してみれば、李文烈が犯人か否かもすぐに分かるはずだ。

青山はそのための方法を、わざわざ専門書やインターネットで調べた。

テレビドラマや映画などでは、警察の鑑識係が事件現場で指紋を採取している場面がよく登場する。あれは主としてアルミ粉末を指紋に吸着させてゼラチンシートに転写する手法である。だが、今日では捜査科学が進展したおかげで、指紋をくっきりと浮かび上がらせて採取する方法は、より多岐にわたるようになった。むろん、大半は特殊な薬品や技術を必要とするが、中には素人が比較的入手しやすく、また扱い易いのもある。

青山が選んだのが後者である。方法は、耳掻きの綿に蛍光粉末をつけ、それをはたいて指紋に吸着させ、紫外線ライトを照射するという、ごく簡単なものだ。こうすると、暗くした部屋の中で指紋がくっきりと浮かび上がる。道具は東急ハンズでもそろう。

青山としては、妻に心配をかけたくない気持ちもあり、今度の出来事を一切、家庭に持ち込みたくなかった。だから、日曜日のオフィスに出社するや、内側から執務室に鍵をかけて作業を開始した。

青山は、脅迫状の本文に蛍光粉末をはたき、紫外線ライト――いわゆるブラックライトを当てた。すると、黄緑色に光る指紋が多数、浮かび上がった。

「やったぞ!」青山は快哉を上げた。

どうやら脅迫犯は、自分の指紋を手紙に残すことまでは気が回らなかったようだ。

しかも、幸いなのはその種の無頓着だけでない。どうやら犯人は脅迫文をしたためるときに緊張し、通常よりも手の平の発汗が多かったに違いない。指紋は驚くほど鮮明だった。これならば素人でも他との違いを容易に判別することができる。

虫眼鏡を覗きながら、青山は思った。少しでも自力で犯人に近づくのだ、と。

彼がとくに注目したのが親指の指紋である。なぜなら、親指の指紋はひとりにつき左右ひとつずつしかない。それが右手のものか左手のものかも、他の指に比べて判別しやすい。

たとえば、調査対象を左手の親指の指紋ひとつに絞れば、その一種類がひとりの人物に対応するため、何人の人間が手紙を触ったかも分かるはずだ。

しばらくして、結果が出た。脅迫状本文に付着している親指の指紋は、青山のそれを除けば、ひとつだけだった。これは脅迫状がひとりの人物によって書かれ、青山が開封するまでは、その他の誰にも手に取られなかったことを意味する。

つまり、犯人は単独犯である可能性が高い。これが分かっただけでも収穫である。

青山は封筒のほうも調べてみた。こちらのほうには、多種類の指紋が付いていた。親指の指紋の痕から判断するに、どうやら五、六名がこの封筒に触れているようだ。そして当たり前ながら、その内の一つの指紋は、脅迫状本文のそれと一致していた。

一致しない残りの指紋は、集配や仕分けなどの郵便業者のものと、社内の人間のものだろう。社内では、総務部のアルバイトと秘書の中村がこれに触れているはずだ。

青山は緊張しながら、次にタッパーに付着した李文烈の指紋を浮かび上がらせてみた。直ちに脅迫状のものと比較してみたところ、二つはまったく異なっていた。

青山はその場で、思わず安堵のため息をついた。

やはり、あのキムチ屋の老人は脅迫者ではなかったのだ。

彼がそんなことをするはずがないとは思っていたが、それが改めて証拠付きで確認できたことは、今回の大きな収穫だった。

だいたい、店内に「日刊Jスポーツ」が積み重なっていたところを見ると、李文烈はかつて密輸に雇っていた青年が今や事業の成功者となっていることを、とうの昔に知っているのだ。にもかかわらず、今まで青山と連絡をとろうとすらしなかったということは、李老人には青山を強請ろうとか、たかろうという気持ちが毛頭なかったことを意味する。

だが、それが確信できたからといって、問題そのものが解決したわけではない。あくまで犯人を突き止めることが最終目標である。

いずれにしても、脅迫者本人の指紋は入手した。今、探偵のZ社に故李永吉周辺の暴力団関係者を洗わせている。調査の対象はさらに広がった。リストが出来上がれば、次の段階としてその中で「怪しい」と思われる者順に、指紋を入手していけばいい。そして脅迫者のそれと照合していく。こうして相手に対する包囲を徐々に狭めていくのだ。

むろん、それで犯人を特定することができるか否かは、今の段階では分からない。容疑者が今度の包囲網にかかるという保障はどこにもない。

だが、仮に特定することができれば、それなりに対処しようもある。

犯人が「影の存在」であることが余計に不安を掻きたてるのだ。だから、なんとしても独自に犯人を絞り込んでいかなくてはならない。

とりあえず今は、Z社からの報告書待ちである。

中村はインターネットの「闇サイト」を片っ端から当たっていた。

「お手持ちの銀行口座を高価買い取りします」とか「売ります」といった類いの広告は、思いのほかたくさんあった。

どうやら、裏の世界では、金さえ出せば、通常の都銀の銀行口座はおろか、郵便口座やネット銀行の口座まで簡単に手に入るらしかった。

中には、免許証や国民健康保険証、プリペイド式携帯電話まで売りに出しているところもあった。わざわざ「当方は闇金融や振り込め詐欺等とは一切関係ありません」などと断りを入れているものもあり、失笑させられた。

中村はそんな広告の一つに連絡を入れた。それは携帯電話の番号だった。どうせ匿名のプリペイド式であろう。中村は身元が割れないよう、公衆電話を使った。

電話に出たのは中年の男だった。男は待ち合わせの場所と期日を指定してきた。都心の某駅前である。目印は中村がコカコーラの赤い缶を持っていること。

当日、取引は驚くほど簡単に済んだ。

赤い缶を持った中村に、ふいに男が話しかけてきた。

男が提示するところによると、著名な都市銀行の口座がひとつ三万円。中村がキャッシュで支払うと、相手はその場で通帳とキャッシュカード、そして暗証番号のメモを手渡した。通帳の残高は一円で、まったく見知らぬ人物の名前が記されていた。

むろん、互いに身元を明かす必要もなかった。相手が誰かなど、知りたくもなかった。

中村茂はこうして匿名口座を持つことに成功した。

中村のもとに、探偵事務所のZ社から連絡が入った。報告書が出来たので、すぐに取りに来て欲しいとのことである。

中村は二番目の報告書を手にすると、さっそく中身を取り出し、コピーした。そして自分で用意した探偵事務所の社名入り封筒に厳封しなおし、青山に手渡した。

中村は自宅でゆっくりコピーに目を通した。

どうやら、青山の出した第二の依頼とは、故永吉周辺の暴力団関係者を調べることだったらしいと推測がついた。報告書には該当者として十数名が記載されていた。

李文烈の息子の永吉はすでに他界している。ということは、その永吉の周辺にいた人物から今度の脅迫状が出てきた可能性が高い…青山はそう考えたのだろう。

なにしろ永吉は六田組とかいう暴力団の元幹部で、その周辺の者も当然ながらすねに傷を持つ者たちである。彼らを怪しいと睨んだのは妥当な判断だろう、通常ならば。

中村は報告書のコピーを読みながら、さすがの青山も脅迫者がまさかすぐ目の前にいる人間だとは気付くまいと、ほくそえんだ。

青山勇は二番目の報告書に目を通していた。

彼が覚せい剤の密輸に関わっていた過去が何らかの形で外部に漏れたとすれば、それは元締めだった李永吉の周辺だと推測するのが妥当だ。

報告書には、永吉と繋がりの濃かった暴力団関係者として、十数名がリストアップされていた。その中で九名が六田組の関係者だ。当時の若頭や舎弟など、会社組織でいえば永吉の上司・同僚・部下にあたる者たちである。

探偵の調査に拠ると、彼らの近況は様々だった。

今も落ち目の六田組にしがみついている者もいれば、独立して小さな組を構えている者、足を洗って堅気になった者までいる。表向き不動産会社社長として数千万円もの年収を稼いでいる者もいれば、定職のないチンピラ風情や住所不定・無職の者もいた。さらに周辺の人間として、スナック経営者になっている元愛人や、風俗店のオーナー、自動車修理工場の経営者、個人的な友人であるトラック運転手なども挙げられていた。

果たして、この中で彼の過去を知り、彼に脅迫状を送りつけた人物は誰だろうか。

やはり、怪しいのは金に困っている者である。つまり、経済状態を基準として、調査の優先順位を振ればいい。幸い、報告書には該当者の簡単な経済状態も記されている。

Z社への次の依頼は、この優先順位ごとの指紋の入手だ。これは今までのように間接的に調査するのとは訳が違うので、探偵事務所としても厄介な仕事だろう。ヘタすれば相手ともニアミスしかねない。当然、報酬アップを要求されるだろうが、背に腹は代えられない。そして入手した指紋を、自らの手で、脅迫状のそれと照合していくのだ。

青山は、改めて「脅迫者はこの十数名の中の誰だろうか?」と考えた。

次からは金を強請っていくぞ……中村茂はそう決心していた。

だが、そのためには、青山にとってさらに具体的な恐怖が必要だろう。

幸い、第二の報告書のコピーを手に入れたことで、新たな文言を盛り込んだ脅迫状を作ることが可能だ。

その報告書には多数の暴力団関係者の名前が記されている。青山は彼らから脅迫状が送りつけられている可能性が高いと思い込んでいる。ならば、その思い込みを利用して、そう臭わせる文言を挿入してはどうだろうか。これは真犯人である自分から調査の矛先をうまく反らせるという意味でも、有効な方法であるように思われた。

中村は、これまで社長に送りつけた脅迫状を、改めて振り返ってみた。

最初は「オマエノ過去ノ秘密ヲ知ッテイルゾ」だ。

次は「二十代ノ前半ニ何ガアッタカ、知ッテイルゾ」である。

その次は少し変えて、「二十代ノ前半ニ何ヲシタカ、知ッテイルゾ」とした。

その後、第一の報告書の入手に成功したことにより、「手錠ヲカケラレタイカ? キムチ、暴力団、覚セイ剤」という文言を考え出すことができた。

青山の様子を見るに、この文言はかなりのショックを与えたらしい。

おそらく、脅迫状が段々と具体化していくことで、社長の青山は、目に見えない脅迫者の足音が徐々に迫ってくるような恐怖感を覚えているに違いない。

中村は考えた末、第五の脅迫状を次のような文面にした。

「ワレワレハ、オマエガ知ラレタクナイ過去ヲ知ッテイルゾ。組織ヲ見クビルナ。秘密ヲバラサレタクナケレバ、次ノ口座ニ百万円ヲ振リ込メ」

中村はこの前、手に入れたばかりの匿名口座の番号と期限日を記した。

今までは主語を記さなかったが、今回は初めて「われわれ」という主語を置いた。「組織」という単語と併せ、青山は自分を脅しているのは複数の六田組関係者と疑うだろう。

百万円という金額は、とりあえず相手を試したものに過ぎない。そのために払いやすい金額に設定した。むろん、これがうまくいけば、次々と要求を重ねるつもりだった。

成功すれば、金がひとりでに湧き出てくる金庫を手に入れたのと同じである。

「社長!」中村が右手に一枚の封筒、左手に郵便物の束を抱え、さも心配げな表情で呼びかけた。「匿名の手紙がまた来ていますが、どうしますか? 一応、社長宛てのものはすべてお渡しするようにしていますが、これからはこちらで弾いておきましょうか?」

青山はその封筒を見るなり、さっと青ざめた。そして、手紙をひったくった。

「いや、いいんだ、今までどおりで。おまえは気にするな」

中村はいつものように郵便物の束を社長の机の上に置くと、一礼して去った。

六本木の本社には毎日、大量の郵便物が届く。それを部署ごとに仕分けるのは、総務部に所属するアルバイトの仕事だ。むろん、社長宛ての郵便物も少なくない。それを重要度ごとに仕分けなおして青山の机に置くのが、秘書の中村の仕事だった。

今回は青山の反応を直接、確かめてやろうと思い、このような仕儀に及んだのだった。換言すれば、どれだけ慌てふためくか、その情けない面を目の前で拝んでやろうという加虐的な思いつきから出た、気分的な行動だった。

青山は明らかに憔悴していた。このところ、食事も喉を通らない様子で、忙しいとの口実で来客も半数をキャンセルしていた。秘書としての仕事もめっきり暇になった。

(ヒヒヒ…)中村は内心で高笑いした。(相当、焦っていやがるな。今度の文面を見て、吠え面かくなよ)

傲慢な雇い主をビビらせてやったという思いは、それまで無理して卑屈に振舞ってきた彼の復讐心を、それなりに満たした。むろん、この青年実業家を完璧に「打ち出の小槌」に変えるまでは、彼の復讐は果されないのであった。

青山は第五の脅迫状の文面を見た瞬間、ぎょっとした。と同時に、「やっぱり…」という言葉が無意識のうちに口をついて出た。

相手は散々揺さぶった後で、とうとう金を要求してきた。当然だろう。

しかも、「ワレワレ」とか「組織」などと記しているところが、いかにも六田組の関係者を想起させた。

もっとも、相手が複数犯と思える一方で、単独犯が複数のふりをしているようにも思われた。なぜなら、脅迫状の文面からは未知の指紋が一種類しか検出されていないからだ。だが、複数犯の中で、脅迫状作成の担当者が固定されているだけかもしれなかった。

青山はその夜遅く、社長執務室に閉じこもると、蛍光粉末と虫眼鏡を用意し、デスクの上でブラックライトを灯した。

「さあ、どうする? いよいよ破滅の到来か……」

ため息と共に、そんな独り言が漏れるのだった。

中村は勝利を確信していた。

金を要求する脅迫状を送って以降、青山の憔悴ぶりは想像以上だった。今では社員も異変に感づいて噂するほど、見た目にもはっきりと表れていた。どうやら、脅しているのが複数の組関係者だと臭わせたことが、予想以上に効いたらしい。

ある日の夕方、中村は社長執務室に呼び出された。

げっそりと頬のこけた青山は、椅子に腰掛けるというよりは身体を支えていた。

「だいぶんお疲れのようですね」

秘書は目の下にクマを作った青年社長をねぎらった。だが、無精ヒゲを生やし、ネクタイをだらしなく緩めた男は、額を手で押さえてため息をつくだけだった。

「中村」青山が額を押さえたまま棚を指差した。「すまんが、そこのバーボンをとってくれ」

「よろしいんですか?」そう訊き返しつつも、中村は言われた通りにした。

青山は瓶の口の辺りを掴むと、グラスに琥珀色の液体を注いだ。そして間髪を入れずにぐいと飲み干した。

その様子を間近で観察しながら、中村は大金が手に入る日も近いとほくそえんだ。

「私でよかったら、社長の力になります。何なりとご相談ください」

青山は「そうか」と言ったが、信用していないのか、妙に暗い表情のままだった。

(おれも相当のワルだな)中村は内心で笑いを噛み殺した。

青山は机の引き出しから例の特殊な封筒を取り出すと、それを中村に差し出した。

「これをまたZ社に頼む…」

三番目の依頼書である。中村は受け取ると、すぐに探偵事務所に足を運んだ。

今日は脅迫状に記載した支払い期限の日だった。

中村は前日からドキドキしていた。青山は結局、警察に相談しなかったようだし、あれだけ追い詰められた様子から察すると、要求された金額をそのまま飲むであろうことに疑いを差し挟む余地はなかった。

考えてみれば、ここに至るまで、まるで綱渡りのようだった。

すべては、試しに「オマエノ過去ノ秘密ヲ知ッテイルゾ」という、思わせぶりな文言を送りつけたことから始まった。すると、意外なほど効果が現れたことから、思い切って二通目を送ってみると、青山は彼を通して探偵会社への調査を依頼した。

そして、彼は探偵会社の名義入り封筒を入手することで、その報告書の内容を盗み見することに成功した。さらに、そうやって知った情報を脅迫状に反映させることで、より真に迫ったものとなり、今や闇サイトを通じて匿名口座までもを獲得した。

我ながら神業だと、中村は自画自賛した。今日、ようやくその成果が日の目をみるのだ。それまでの努力を思うと、感慨深かった。そしてここまで苦労したのだから、百万円の報酬を得ることは、もはや当然の権利であるように思われた。

夜の九時ごろ。背広姿をした仕事帰りの中村は、JR新宿駅北側に位置するアルタ前の広場で、「出し子」をやってくれそうな若者を探した。ここはフリーターやギャングっぽい若者たちで溢れかえっている。数人目で、該当者が見つかった。

「えっ、金を下すだけで一万円もくれんの?」二十代前後と思しき、鼻の穴の横にピアスをした若者が途端に喜色を浮かべた。「ホントかよぉ?」

「もちろんだ」

ふたりはさっそく近くのATMに向かった。

中村はそこから数十メートルほど離れた位置で、若者にカードと通帳、暗証番号のメモを持たせ、とりあえず五十万円の引き落としを指示した。

中村は若者が万一にも下した金をもって逃走しないよう見張りつつも、一方で己の計画の完全性を頑なまでに信じていた。匿名口座から金を下すに当たっては、その都度、今回みたく「出し子」を雇えばいい。そうすれば彼は一切、尻尾を掴まれることがない。

まさに無限の金を振り出す「打ち出の小槌」を手に入れたも同然である。

完璧な計画だった。中村は己の犯行に酔ってすらいた。

しばらくして、若者が戻ってきた。眉間に皺をよせ、妙な表情をしていた。

「あのさあ、リーマンの兄サンよぉ。ぜんぜん引き落とせないんだけどさあ…」

「なにぃ!?」

中村は通帳をひったくり、開いた。残高は一円のままだった。一瞬、匿名口座の売人に、使えない偽物口座を掴まされたのかと思った。

「暗証番号は合っていたけど、残高が足りねえから、引き出せねえってさ」

「…………」

つまり、青山が要求された金を振り込んでいなかったのである。

「くそっ!」中村は思わず顔を真っ赤にして激怒した。

その剣幕に躊躇しつつも、若者が片手を差し出した。

「あのう…バイト代…」

中村は財布から乱暴に一万円札を引き抜くと、若者に手渡した。

翌日。中村はまだ怒り狂っていた。

この仕打ちに関して、相応の報いをくれてやらねばと決意していた。

とりあえず、青山の様子を偵察するのだ。スケジュールの確認という用事を作って、執務室に閉じこもる社長のところへ出向いた。

青山は、相変わらず、げっそりとしていた。無精ひげがさらに濃くなっていた。

中村が社長のスケジュールについて確認していた最中だった。

その間、青山は上の空で、なにやらぶつぶつ言っていた。

「…ばれたら、身の破滅だ。…まだ時効じゃない…。ベンチャー企業の社長ともあろう者が……空前のスキャンダルだ。…マスコミのやつらは…ハイエナみたいに、一斉に飛びつくぞ…。連日、パパラッチに追い回され…フラッシュの雨だ…。財界への復帰は…いや、それどころか、社会復帰も難しいかも……」

ところどころで聴こえてくる独り言は、まるで絶望の歌声だった。

社長は頭がおかしくなりつつあるのだろうか。もしかして追い詰めた過ぎたのかもしれないと、中村は本気で心配した。

青山は適当に「分かった」と相槌を打って、もういいぞという風に手で払う仕草をした。

去り際だった。ドアのノブを握った中村の耳に、背後から独り言が耳に入った。

「やるしかない……やるしか…」

中村がぞっとして振り返ると、椅子を回転させた青山が窓の向こうを虚ろな表情で見つめていた。

中村は新たな脅迫状をしたためた。今度は何日もかけて文面を練った。

それは強い非難を含んでいた。また、「百万円」という安すぎる金額が、かえって相手に悪戯との印象を与えてしまったのかもしれないと反省し、金額を一気に二千万円に引き上げることで脅迫者側の本気度を示した。

「ナゼ期日マデニ百万円ヲ振リ込マナカッタ? 罰トシテ今度ハ金額ヲ増ヤス。組織ヲ甘ク見ルナ。オマエハ二十代ノ前半ニ人ニ知ラレテハマズイコトヲシタ。ワレワレハ、オマエノ秘密ヲ知ッテイル。オマエヲ破滅サセルコトナド容易イ。ソレガ嫌ダッタラ、今度ハ期日マデニ必ズ二千万円ヲ振リ込メ。モシ金ヲ支払ワナケレバ、組織ハオマエニ制裁ヲ加エル。コレハ単ナル脅シデハナイ」

中村は匿名口座の番号と期限日を最後に記した。そして、今度こそ金を支払わせてやるという決意を込めて、池袋のポストから投函した。

自信はあった。青山は最近、秘書を含め、容易に他人を近づけなくなっていた。社長執務室に閉じこもり、用事があればそこから連絡をよこした。

それは彼が心理的に絶壁にまで追い詰められている証拠だった。そのおかげで、秘書としての仕事が減った中村も、暇をもてあまし気味だった。

むろん、相手に対する同情など露ほどもなかった。心の中にあるのは、傲慢社長をここまで打ちのめした己の力量に対する誇らしさと、復讐してやったりという満足感、そして絞れるだけ搾り取ってやるぞという貪欲で固い決意だけだった。

もう一押しのはずだった。

それから一週間ほど経った頃だった。Z社から中村のもとに連絡が入った。第三の報告書が完成したという。中村は探偵事務所に赴いた。

「実は、これが完成したその日に、新たな事態が生じまして…」担当者が封筒を持ち上げつつ言った。「それで、ページの最後に、そのことを追加した格好になりました」

「新たな事態とは何ですか?」

「お読みいただければ分かると思います」

担当者はあくまで口頭では明かさなかった。

まあいい、と中村は思った。どうせ盗み見すれば分かることだ。

中村は封筒を開封すると、例のごとく中身をコピーした。その際、「追加」と銘打たれた、報告書の最後のページにだけ目を通した。

「東上野のキムチ屋夫妻の失踪の件について」と題されていた。

一瞬、目を疑った。最後のページに添付されたその臨時の報告書によると、数日前から李文烈(イムンヨル)と妻の朴秀美(パクスミ)が姿を消しているという。

いったい、どういうことだろうかと中村は訝った。とりあえず、自分で用意したZ社の社名入りの封筒に報告書を入れなおし、それを青山のもとに届けた。

社長執務室にいた青山勇は、まだ日が降りていないにもかかわらず、酒臭かった。最新の脅迫状がさらに心理的な打撃となったのだろうと、中村は推測した。

青山の表情は奇妙だった。なぜか、クマに縁取られた目だけが輝いていた。

それはしばしば狂気の域の入った者が見せるような、妙に爛々とした光だった。そして、しきりと「やってやったぞ」などと、ぶつぶつ独り言を口にしていた。

中村は少し怖くなって、用事が済むなりそそくさと部屋を出た。そして、外で場所を作って、三番目の報告書に目を通し始めた。

探偵の調査は、元六田組の組員であるDとGを中心に進んでいた。どうやら、青山は前回の十数名の中から、この二人にあたりをつけたらしい。

あるいは、調査対象を絞ったというよりは、単に調査の優先順位なのかもしれない。というのも、二人とも経済状態が一番悪い部類に属するからだ。前回の報告書では、どちらも住所不定・無職とだけ簡潔に記されていた。

新たな報告書によると、Dは山谷地区の「ビジネスホテル」に暮らしており、Gは友人・知人の家を転々とする居候らしい。二人とも無職のチンピラといって差し支えなく、収入も日雇い労働など不安定で、その日暮らしのようだ。

いずれにしても、青山がまったくの別人を犯人だと思い込んでくれているのは、都合がよかった。

中村は改めて報告書の追加分に目を通した。あのキムチ屋の主人が忽然と姿を消したらしいが、よく読むと近所の人への聞き込み内容も記されていた。誰に訊いても「分からない」という返事だという。中村はこれが何を意味しているのだろうかと考えた。

その時だった。突然、先日の青山の姿が脳裏に蘇った。

彼は窓の外を見ながら「やるしかない…」と呟いていた。

「まさか…そんな…」中村は背筋が凍るのを感じた。

そして、ついさっき、異様に目を輝かせた青山がぶつぶつと口にしていた独り言の内容が、唐突に思い出された。中村は顔面蒼白になった。

青山はたしかに「やってやったぞ」と言っていた。

中村は自分の目で確かめることにした。

東上野のキムチ屋に向かった。店は平日にもかかわらずシャッターを下していた。

その日は通り過ぎただけだったが、数日後、また様子を見に行った。やはり、シャッターが閉じていた。中村は近所の人に尋ねてみた。

「いきなり店を閉めたんだよ」

李夫妻と知り合いだという中年の女は、不審そうに口を尖らせた。

「隣近所に対して『少し店を閉める』とか、そういう伝言はなかったんですか?」

「ないさね。おかげで、ここの美味しいキムチが食べれなくて困っているよ。警察に届けたほうがいいのかしらねえ…」

その翌日だった。中村はいきなりZ社から呼び出しを受けた。

前回の依頼に関係して、また追加の報告があるという。

中村はZ社から薄い封筒を受け取った。中を開けてみると、報告書も数ページしかないぺらぺらの代物だった。その文面を見た瞬間、中村は衝撃を受けた。

「調査中だったDが突然、行方不明になっただと?」

中村は思わず独語した。

「そんな馬鹿な…」

その書面には「最近、殺されたらしいとの噂も流れている」と記されていた。

キムチ屋夫妻に続いて、Dまでが消えた…。

偶然ではありえないと中村は思った。おそらく、彼らは殺されたのだ!

Dに関しても、李夫妻のように直に確認したかったが、ドヤ街に住んでいては、それも不可能だった。

そして、殺す動機を持っている人間といえば、この世にただひとりしかいない…。

中村は報告書をZ社名義の封筒に入れて厳封しなおすと、社長執務室を訪ねた。

そして、恐る恐る青山の顔を見た。

彼は狂人めいた顔をしていた。とくに目つきが尋常ではなかった。

中村は臨時の報告書を手渡した。すると、青山はその場でいきなり封筒をビリビリに破いてデスク脇のゴミ篭に捨てた。それは今までになかった行動だった。

「読まなくていいんですか?」

青山は答える代わりに、「もういいぞ」という風に手で秘書を払った。

中村がドアから退室しようとしたその瞬間だった。

突然、背後で狂ったような笑い声がした。彼はぎょっとして振り返った。

報告書を手に持った青山が、勝利感に酔った表情で、半ば涙目で笑っていた。

ほどなくして、中村にも何となく事情が見えてきた。

数人のヤクザ者から会社に電話が入るようになった。相手は組織名こそ名乗らなかったが、それでも口調からその筋の人間であることが察せられた。

相手はいつも「合田からだと伝えてくれれば分かる」とか、「おれは吉田だ」とか、そういう連絡の入れ方をした。

青山にそのことを報告すると、両者はすぐに長電話に入った。

また、中村は久しぶりに秘書として運転手をさせられるようになった。しかも、行き先が今まで行ったことのない派手なクラブなどだった。

そこで青山は、いかにもヤクザ者という風貌の男たちと落ち合った。

そんなある時、中村は驚くべき光景を目にした。青山とヤクザ者たちが一緒にクラブから出てきた時だった。別れ際、ヤクザ者のほうが腰を低くして「それじゃあ、例の件は調べておきやす」と言った。それに対して、胸を反らした青山が「おう、頼んだぞ」と横柄に言った。青山が車に乗り込むと、ヤクザ者たちは「行ってらっしゃいやし」と、お辞儀をして見送った。その光景は誰が見ても仲間内の上下関係だった。

「だ、誰ですか、あの方たちは?」中村は思い切って尋ねてみた。

後部座席にふんぞり返った青山は、ぞんざいに返事した。

「おまえは知らなくてもいい」

中村は恐怖に近いものを感じ始めていた。自分は今までとんでもない思い違いをしていたのではないかと考え始めた。青山勇という人物は、暴力団関係者と何らかの繋がりがあるというよりは、関係者そのものではないのか。

つまり、この「ワーカーズドア」という会社は、いわゆる「舎弟企業」ではないのか。

「おれはもしかしてヤクザの会社を強請っていたのか…」中村は慄然とした。

仮に開業資金が暴力団から出ていたとすれば、自分は今まで、彼らが世間から隠しておきたい、まさにその弱みを激しく突付いていたことになる。

おそらく、己の過去の秘密を握られ、強請られたと思った青山は逆襲に出たのだ。自分を強請ったと思われる者をリストアップし、闇の勢力を動かして消しにかかった。あのキムチ屋の夫婦も、山谷に住んでいるというDも、そうやって殺されたに違いない。

中村は社長の恐ろしい素顔を知った気がして、ぞっとした。大変なことになったと震え上がった。なぜなら、彼らの矛先がいつ自分に向いてくるやもしれないからだ。

しばらくして、再び異常事態が起こった。

またしてもZ社が臨時の報告書を出した。中村はそれに目を通すなり、くらくらとした目眩を覚えた。

なんと、今度はGが姿を消したという。

急に寒気がして、鳥肌が立った。

報告書でそのことを知るなり、青山は狂気めいた笑みを浮かべた。

「あの野郎、やってやったぜ」本性をむき出しにして、青山が叫んだ。

中村は無言で一礼し、一刻も早く執務室を去ろうとした。

「どうした、中村?」

いきなり背後から声をかけられ、飛び上がりそうになった。

「え?」恐る恐る振り返った。

「顔が蒼いぞ」

二千万円の振込みを指示した第六の脅迫状の期日は今日だった。中村はとてもではないが確認する気にはなれなかった。このような追加の脅迫がさらに青山を激昂させ、犯人探しを加速させたであろうことを思うと、後悔すら襲ってくるのであった。

青山がZ社に第四の依頼書をしたためた。中村はいつものようにその書類の入った封筒を無事に先方に届け終えると、帰社するなりそのことを社長に報告した。

「ちょっとこっちに来てくれ」青山が彼を呼びつけた。

社長執務室に入るなり、中村はぎょっとした。部屋の中が真っ暗だった。青山の顔が紫の光線に照らし出されて不気味に光っていた。

「な、なんですか、それは?」

「これはブラックライトってやつだ」紫の光の中で青山の目がいっそう狂人めいた光を放った。「実はこのところ、会社に悪戯の手紙が来ていてな」

青山が例の脅迫状の入った封筒を掲げてみせた。

「い、悪戯ですか…」

「ああ。それも相当、タチの悪いやつだ」

「け、警察に届けたほうが…」

「あん?」青山は眉間に皺をよせ、ひどく怪訝な表情を浮かべた。「別にポリ公の力なんか必要ねえ。自分の問題は自分できっちり落とし前つける」

「し、しかし…」

青山が机の上に置かれた小瓶を手に取り、揺すってみせた。中には黄色く光る粉末が入っている。それは闇の中で奇妙に美しかった。

「実は、この蛍光粉末とブラックライトを利用して、手紙の主を調べているんだ」

「え!?」

「脅迫状の本文から、なんとか相手の指紋が取れたよ。指紋はひとり分だけだった。あとは相手を探し出して、落とし前をつけるだけだ」

「!」中村はハッとした。

自分は今までずっと素手で脅迫状や封筒を触っていた。指紋のことまで気が回らなかった。そこまでやるかと思った。

「さっきZ社に届けてもらった依頼だけどな」青山が不気味な笑みを浮かべた。「脅迫状の封筒に付いた指紋を片っ端から調べてもらうことにしたんだ。郵便ポストからおれのところに手紙が届くまで、いろいろな人間が触っている。ポストの収集人、局内の仕分け人、この地区の配達人…探偵を使ってそれぞれの指紋を手に入れるつもりだ。そうやって封筒から無関係な指紋を排除していく。むろん、社内で触った者も例外じゃない」

「で、ですが、犯人はひとりで、指紋も取れているとしたら、わざわざそんなことをする必要はないのでは…」

「たしかに本文にはひとりの指紋しかないが、それは脅迫文の作成者がひとりであることを意味するだけであって、必ずしも犯人が単独犯であることを意味するわけではない」

「と言いますと・・」

「たとえば、犯人が複数いて、文章を作成する人間と郵送する人間とに担当が別れていれば、その他の犯人の指紋が封筒に付いていることも考えられるわけだ。だから、封筒を触ったと思われる関係者の指紋を片っ端から採って照合していけば、正体不明の指紋、つまりはその他の犯人のものと思われる指紋が浮き彫りになる可能性もあるというわけさ」

青山はそう言って、凄みの利いた笑みを浮かべた。

(関係者の指紋を片っ端から採っていく…)

中村はガクガクと膝を振るわせた。暗闇であるのが幸いだった。

その一週間後。

中村はまた社長執務室に急に呼び出された。

青山が代表席で身を反り返らせて、ゴルフクラブのヘッドや軸を磨いていた。

「よう、中村、おはよう」青年社長はやけに機嫌がよかった。「実はな、郵便関係者の指紋がすべて採れてな。急いでいたんで、Z社に連絡をして、いつものようにおまえを介さずに直接、こっちに届けさせたんだ」

「そ、そうですか…」

「封筒に付いた指紋との照合も済ませたよ。これで残る正体不明の指紋は、あと数個に絞られた。今度は、順番に社内の人間を調べていくつもりだ」青山はタオルの動きを止めると、上目遣いに中村を見た。「当然、おまえにも協力してもらうからな」

中村は顔面蒼白で立ち尽くしていた。彼は自分の身体が小刻みにぶるぶると震えていることにすら気付いていなかった。

突然、青山が椅子をくるりと半回転させると、座ったままダーツの矢を投げた。それは執務室の壁に掲げられた的に命中した。

「必ずやってやる!」青山が激昂して叫んだ。「誰が金なんか払うもんか! 地の果てまで追いかけて殺してやる! おれを強請るやつは、すべて地獄行きだ!」

中村は追い詰められていた。彼は恐怖のあまり、完全に不眠症になってしまった。

脅迫状を送りつけたのが彼だとばれるのは、もはや時間の問題だった。そしてその時、彼を待ち受けているのは、李夫妻やDやGと同じ運命だ。

中村は必死で頭を回転させた。

このままでは自分も消される。いったいどうすればいい? いっそうのこと、青山に対して洗いざらい白状し、土下座して謝罪し、命だけは助けてくれと懇願するか?

いやいや、今さら許してもらえないだろう。なにしろ、社長の秘密を知り、強請ってしまったのだから。

それに、彼らはすでに四人もの人間を消している。自分だけお目こぼしに預かると期待するのは、まったく甘い見通しと言わざるをえない。

だが、謝罪が通用しないとなれば、他にどんな方法があるのか。

殺される前に、警察に逃げ込むか? しかし、自分が脅迫者であることも打ち明けなくてはならず、前科者になってしまう…。

だが、命あっての物種である。背に腹は代えられないと中村は決意した。

「助けてください、このままでは殺されまる!」

中村は最終手段として、自分が罪をかぶることを承知で地元の警察署に駆け込んだ。

彼は応対に出た刑事相手に、次のように必死で訴えた。

つい出来心で、会社の社長に悪戯の脅迫文を送りつけてしまった。すると社長はキムチ屋の老夫婦が脅迫者だと疑った。探偵事務所に調査も依頼しています。しばらくしてその老夫婦が失踪しました。おそらく殺されたと思います。それから、社長は元六田組の組員であるDとGを脅迫者だと疑った。彼らも相次いで姿を消しました。ふたりとも殺されたと思います。殺ったのは、うちの会社の社長と彼が関係する裏の組織に間違いありません。もうすでに何人も消されている。今度は私の番なんだ! このままでは私も彼らと同じように消されてしまう! 刑事さん、なんとか私を助けてください!

中村はこれまでの出来事を洗いざらいぶちまけた。殺されるよりマシだった。

地元署の刑事たちは、彼の証言に驚愕した。

本当なら連続殺人事件の可能性がある。彼らは直ちに捜査を開始すると約束した。

しばらくして、刑事たちは中村を呼びつけた。

「ガセを掴ませたな!」彼らはひどく怒っていた。

なんでも、しかるべき筋にちゃんと確認をとったという。

「そんな馬鹿な!?」中村は必死で抗弁した。「本当の話なんだ、信じてくれ!」

刑事たちは中村のほうを調べた。血液や毛髪も採取したが、薬物を使用した形跡は見当たらなかった。彼を拘留する理由はなかった。

中村は「私の身を保護してくれ、自分は脅迫罪を犯したから逮捕してくれても構わない!」などと訴えた。だが、刑事たちは「何の罪も犯していない者を逮捕するわけにはいかない」と返答して、取り合わなかった。

中村は警察署から追い出された。彼は呆然として、地元署の玄関を振り返った。

どうやら、警察は彼のことを守ってくれそうにない。中村はふと、青山が金をばら撒いて、警察にうまく手を回したのではないかと勘繰った。そうに違いないと、彼は己の思いつきに納得した。その考えは、すぐに彼の中で「事実」と化した。

なんということだ、と戦慄した。

彼は警察の腐敗ぶりに絶望した。もはや恐怖で理性は失われていた。

週末の深夜だった。突然、自宅に電話がかかってきた。青山からだった。

「夜遅くすまんな」青山の口調は不自然に機嫌がよかった。「実は、今度の日曜日だが、S山にキャンプに行きたいんだ。すまんがおまえに運転手をしてもらいたい…」

休日出勤を命ぜられたのは初めての経験だった。中村は直感した。脅迫状の主が彼であることを、やつらがついに探り当ててしまったのだ、と。

とうとう、追求の手が彼にも伸びた。連中はキャンプにかこつけて、人里はなれた山奥で彼を殺害するつもりなのだ。中村は恐怖で発狂寸前になった。

(もう駄目だ。このままでは確実に命はない…)

中村はやむなく、日本から逃げることを決意した。

預金の全額を下した中村が、東京の住まいを引き払って慌てて東南アジアに逃亡したという報告をZ社から受けた青山は、突然、にんまりと微笑んだ。

それはまるで雲間から陽が射したような笑顔だった。

彼は久しぶりに無精ひげを剃り落すと、髪を整え、クマに見せかけた目の下の化粧を拭った。それからデパートに向かって、飛び切り高価なワインを買った。

「今日は乾杯だ!」

帰宅するなり、青山は手に持ったワインを掲げた。

「あら、どうしたの、あなた?」美香子が不思議そうに微笑んだ。「しばらくお髭を伸ばすって言ってなかったかしら」

「もう、いいんだ、そんなことは」

美香子は、妙に祝杯ムードの夫の気持ちを量りかねていたが、それでも愛する夫が幸せそうな様子だと、自分もつい嬉しくなるのであった。

その夜、青山勇は、意味も分からぬまま微笑むと妻と、ワインで乾杯した。

実は、中村はひとつだけミスを犯していた。

それは、青年社長が狼狽する様を直接拝んでやろうという加虐的な思いつきをし、その喜悦に屈したことである。その精神的な欲が仇となった。彼はそのため、社長の目の前で脅迫状の入った封筒を掴むという、致命的な失敗を犯したのである。

中村が封筒を掴んでいた位置には、当然、彼の親指の指紋がくっきりと付着している。青山が例によってブラックライトと蛍光粉末でその手紙を調べた際に、中村が握った位置にあった指紋と、手紙の本文にある指紋とが完全に一致した。

当初、青山は「まさか?」と驚いた。何かの間違いではないかと思った。

今までは無意識のうちに「犯人の指紋と中村の指紋が同じであるはずがない」という思い込みがあり、本文と一致する指紋が封筒の表面に付着していても、それはあくまで「犯人のもの」であって、中村のものではないと信じていた。中村の指紋は「一致しないその他複数の指紋の中に含まれるひとつである」と、ずっと思い込んでいたのだ。

だが、中村が彼に封筒を差し出して見せた際の、その時の手の位置関係は、青山の記憶に鮮明に焼きついている。その位置にある指紋が中村のものであることは、間違いなかった。にわかに、それまで無意識のうちに当然としてきた、「犯人の指紋と中村のそれとは別である」という常識や前提が揺らいだ。

青山は最初、自分を疑った。自分の「勘違い」かもしれないと思った。そこで、それを確かめるためにも、中村を執務室に呼びつけて、バーボンのボトルを握らせ、さらに鮮明な彼の指紋を採った。改めて調べてみた結果、やはり中村の指紋は、脅迫状本文に付いているそれと一致した。もはや間違いなかった。脅迫状を送っていたのは、自分のすぐ身近にいた男、それも秘書だったのだ。

なんということか、と青山は思った。

驚愕すると共に「なぜ?」と青山は考えた。思い当たるフシがあるかどうか、考えてみた。動機面については、しょせんは本人の心のうちなので、よく分からなかった。

だが、金を要求してきたことから、金が目的であるのは確かだと思われた。いずれにせよ、脅迫者の正体が判明したことで、青山は急に冷静な自分を取り戻すことができた。

考えてみれば、脅迫者は今まで、核心部分である「青山が覚せい剤の密輸に従事していた」という事実については一切、触れようとしなかった。なぜだろうか。もしかして、知らなかったからではないか。

つまり、具体的なことは何も知らずに、脅迫を開始し、それがたまたま青山が潜在意識下に封じ込めてきた恐れをうまく刺激することに成功したのではないだろうか。

そう推測して、青山は改めて過去の脅迫文を振り返ってみた。

最初は「オマエノ過去ノ秘密ヲ知ッテイルゾ」だ。二番目は「二十代ノ前半ニ何ガアッタカ、知ッテイルゾ」。そして三番目が「二十代ノ前半ニ何ヲシタカ、知ッテイルゾ」である。今にして思えば、初期の三通は、極めて曖昧な文ばかりだ。

青山は突然、あることを思い出して、ハッとした。それは以前、ある雑誌が行ったインタビューだった。記者はその時、ビジネスを始める際の種銭について彼に質問した。その際、彼は妙に躊躇し、笑ってごまかしてしまった。思えば、その取材を手配したのが秘書の中村だったのだ。彼はインタビューの最中、すぐそばに立ち、その様子を見守っていた。おそらく中村は、社長の狼狽振りを見逃さなかったのだ。

仮に中村が、彼がビジネスをスタートさせた際の資金の出処に疑問を持っていたとしたら、この初期の三通については十分に説明がつく。

だが、だとしたら、四通目の脅迫文はどう説明するのであろうか。それは「手錠ヲカケラレタイカ? キムチ、暴力団、覚セイ剤」という、実に具体的な名詞を含んでいる。

謎の答えはすぐに思い浮かんだ。この四通目が届いたのが、Z社が作成した第一の報告書の後であることに気付いたからだ。仮に中村がその報告書に目を通すことができれば、そのような具体的な字句を脅迫状に挿入することも可能だ。

つまり、そのことから、中村が何らかの方法で開封していたに違いないと推測することができた。だが、仲介役の中村が、Z社への依頼の中身も、またそのレスポンスである報告書の中身も知ることができないよう、手を打っていたはずではなかったか。

実際、中村が彼に届けていた報告書は、常に厳封されたままだった。開封した痕跡がないにもかかわらず、彼はどうやって中身を知ることができたのだろうか?

新たな謎が生じた。そこで青山は、例の指紋検出の手法で、本来は指紋を採取する必要のなかった、報告書の入った封筒のほうも調べてみることにした。

その結果は青山を驚かせるに十分だった。なんとZ社の封筒からは、青山の指紋以外には、中村の指紋しか検出されなかったのだ。これは本来、ありえない話である。Z社の封筒には同社の関係者と思しき指紋が多数、付着していなければおかしいからだ。

さらに奇妙なのは、Z社の封筒だけではなく、厳封されているはずの報告書それ自体にも中村の指紋が多数、付いていたことだ。

だが、これで「中村が何らかの方法で開封していた」という推測が裏付けられた。

青山は彼の使った手口を考えてみた。その結果、この封筒自体がZ社の用意したものではないという結論に行き着いた。中村は何らかの方法で、探偵会社のネーミングの入った封筒を手に入れたのだ。

おそらく、それを刷っている印刷屋を見つけ出し、直接、封筒を買い取ったのであろう。中村は、Z社から報告書の入った厳封封筒を受け取る度に、それを破いて報告書を取り出し、自分で用意したそれに入れ直して青山に提出していたのだ。報告書はその場で目を通すか、コピーすればいい。中村はこうして、四通目の脅迫状に「キムチ、暴力団、覚セイ剤」という具体的な字句を挿入することができたのであろう。

いずれにせよ、脅迫者の正体が判明し、報告書開封の手口についてもあたりがついた。

そしてその時から、両者の逆転が始まったのである。

今度は、一転して青山のほうが中村を追い込む番となった。

青山は最初、すぐに警察に届けようと思った。もちろん、秘書が社長に脅迫状を送りつけていた事件ともなれば、マスコミの興味を引くだろう。ましてや今を時めくベンチャー企業のスキャンダルともなれば、格好の餌食ともなりかねない。だが、当初はそれを覚悟で警察沙汰にする他ないと思っていた。

だが、よくよく考えてみればそれは賢い選択ではなかった。なぜなら、キムチ屋の件を中村が知ってしまったからだ。

あの男はまた、青山がそのキムチ屋に関連する「何か」を恐れていることまで知っている。それがビジネスを始める際の資金に関わることも。

仮に、脅迫者が中村であるとして警察に届けるとなると、たしかに彼は逮捕されるだろう。だが、その結果、警察に売られたと思った中村が報復行動に出るかもしれない。あることないことを供述して青山を陥れようと画策する可能性もある。

中村の供述次第では、キムチ屋の李文烈と彼との関係について警察が疑い、探ることもありうる。もし警察が本格的に動き始めれば、キムチ屋を経営する李文烈の息子が、かつて六田組の幹部だった李永吉であることくらい、すぐに調べがつくだろう。

そしてそこから、六田組が過去に実施していた覚せい剤密輸の手口についても嗅ぎつけるかもしれない。さらに、その運び屋をしていたのが青山であったことまで・・・。

実際、両者の過去の関係とは、そういうものだったのだ。

雑魚を葬ることに異議はないが、そのためにわざわざ己が刺し違えたのでは何の意味もない。よって警察に届けるのは控えたほうがいいように思われた。

では、どうすればいいのだろうか。

青山は考えた。要は、中村が何を言ったところで、警察が相手にしなければいいのだ。仮に中村の信用性を失わせることができれば、彼が警察に駆け込んだところで、その証言はまったく見向きもされないだろう。

つまり、警察における中村の信用を失墜させると同時に、自発的に脅迫ゲームを止めさせ、かつ会社を辞めさせればいいのだと思い立った。

幸い、中村はZ社の社名入り封筒を用意することはできても、青山が依頼書を入れるために用意した特殊な封筒は自前で調達できないらしい。

つまり、彼は依頼書の中身を覗き見ることはできない。ならば、探偵事務所側と連携して中村を罠にはめることも可能なはずだ。

青山は初めて、中村の頭越しにZ社に連絡をとった。Z社サイドでも、中村が単なる仲介役に過ぎない事情は承知していたようで、真の依頼者――しかも追加の支払いを惜しまない富裕な実業家――の登場を歓迎した。

両者は密かに作戦を練った。その結果、青山が実はヤクザ組織の人間で、自分を脅迫したと疑った者たちを闇のコネクションを使って片っ端から消しにかかったと、中村に思わせることにした。そしてその矛先が最終的に自分に向かってくると錯覚させることで、恐慌に駆られた中村がトンズラするように仕向けることにした。

青山は心理的にますます追い詰められていく演技をし、探偵たちは彼と関係しているヤクザ者のふりをした。中村は、青山が自分の頭越しに探偵事務所を抱き込んでいるとは露とも知らず、次々と人が「消されて」いく報告書の内容を真に受け、戦慄した。

青山は李文烈とも再会した。李老人はすでにマスメディアを通して、青山がベンチャー企業の社長であることを知っていた。彼は青山の出世を、まるで我が息子のことのように喜んだ。ふたりは長い間、話し合った。李は息子が亡くなったことを一種の天罰と考えていた。覚せい剤を広める手助けをしてしまったことについて、彼は心から悔い、社会に対して申し訳ないと思っていた。その想いは青山もまったく同じだった。彼が交通遺児基金などに寄付をしているのも、社会に対するせめても償いとのことだった。青山はその志に共感した。彼は財団設立の構想をさらに進めることにした。

青山は李夫妻を一ヶ月の海外クルーズに招待した。

当然、李夫妻は大喜びした。ただし、青山は条件を出した。ひとつは店のアルバイトに対して有休扱いで給与を支給すること。もうひとつは、そのことを近所の人には一切教えず、また店のシャッターに長期不在をわざわざ通知する張り紙はしないこと。

李文烈は「せっかく招待してくれるのはありがたいが」と前置きし、前者についてはともかく、後者については困ると言った。青山は当初「空き巣を招くようなものだから」などと説明を試みたが、それでも李老人が納得しなかったので、仕方なく自分が脅迫されている事実を話し、その男を担ぐために協力してほしいと頼み込んだ。

さて、中村の「告発」を受けた警察は、当初、仰天し、当然ながら捜査を開始した。

警察は、青山勇という青年実業家と、彼の会社であるワーカーズドアが、ヤクザ組織やその資金と何らかの繋がりがあるかどうか、捜査した。

その結果は完全なシロであった。

また、東上野でキムチ店を構える李夫妻の行方を追った。その結果、夫婦そろって海外クルーズに出かけたことが判明した。アルバイトたちの証言も得た。彼らは、その間は有休扱いだといって喜んでいた。つまり、李夫妻は「消されて」などいなかった。

元六田組の組員であったDとGに関しても調べが行われた。Dは山谷地区の簡易宿泊所のひとつに泊まっており、またGは友人宅に居候していた。

ちなみに、Z社がなぜ「殺される」役としてDとGを選んだかというと、ふたりとも住所不定の人物であり、捜査機関やプロの探偵ならともかく、中村のような素人ならば真偽を確認しようがないと踏んだからだ。

警察は探偵事務所のZ社にも問い合わせた。同社は「わが社は中村なる人物から調査の依頼を受けたこともなければ、そんな報告書を作った覚えもない」と、木で鼻をくくったような返答をした。これもまた、中村が持っているとすればZ社の作成した書類のコピーでしかなく、それが本物だと証明する術が彼にないことを見越した上での対応だった。

むろん、警察は青山本人にも問い合わせた。

「脅迫状が来ましたか?」

「はあ? 脅迫状? いったい、なんの話ですか?」

警察は「そちらの社員の中村氏が言うには…」と必死で説明するのだが、青山は途中で笑い出して、呆れた風にこう言った。

「中村はたしかに私の秘書をしていますが、最近、言動がおかしいので、解雇しようかと思っていたところです。彼はどうも幻覚を見ているようなので、警察のほうでちょっと調べてもらったほうがいいかもしれませんねえ…」

捜査の結果、警察は中村の言ったことが全部デタラメだと知り、憤慨した。

事件の後、青年社長が一転して社内で笑みを振りまいたため、会社の雰囲気が明るくなったことは言うまでもない。

その後、青山の「ワーカーズドア」は東証二部への上場を果たした。

彼の会社は優良ベンチャー企業として、投資家の注目度も抜群で、若き経営者は一気に数百億円もの資産を手にした。

「しかし…」と青山は考えた。

今回、自分は秘書の裏切りにあった。いつもの彼だったら、相手を恨んでいたところだが、今回は己の不手際のように思えて、そういう気分になれなかった。

自分は一番身近にいる部下の人心すらも掌握できなかったのだ。

これは自らの不徳の致すところであり、組織のリーダーとしてどこか欠点を有していることを意味するのではないだろうか。

他人を批判する前に今一度、己自身を省みろ、と彼は己を叱咤した。

今回の出来事を通じて改めて痛感したことは、本来なら自分は犯罪者として逮捕されてもおかしくはない身だということだった。だが、裁きを受けて当然のところを、天から特別にお目こぼしに預かったうえ、あまつさえ事業の成功と充実した人生、そして巨万の富という報酬までいただいた。まったく身に余る光栄ではないか!

自分は過去、薬物を社会に広めることに加担してしまった。その結果、大勢の中毒患者が生まれ、たくさんの家庭が破壊されたに違いない。

社会に害毒を撒き散らした責任は重い。今さらだが、それを実感する。

この罪は一生をかけて償っていくしかない。仮に別荘でパーティー三昧の暮らしをしていては、いつか自分は天罰を受けるだろう。

青山勇は今回の事件を「教訓」であり、また天からの「警告」と受け取った。

幸い、よき妻の助言がヒントとなり、彼は慈善事業に乗り出すことを決意した。

会社の上場からしばらくして、彼は私財の一部を投じ、薬物依存症の患者やその家族を支援するための財団法人を設立した。

財団は都内に事務所を構えた。そして、長野県の諏訪にリゾートホテル顔負けの本格的な更正施設をオープンさせた。

この施設は基本的には民間からの寄付と基金の運用収益によって運営されるが、足りない分は青山がこれからも私財を投じていくつもりだった。

この構想は、もともとは己の犯罪が世間に明るみになった場合に備えたセイフティネットだった。慈善事業をしていれば世間の見る目も違うだろうという算段だ。

世間は「青山は過去を悔い、改心しているからこそ薬物中毒者の更正施設を建てたのだ」と考えてくれるはずだ……そんな計算高い思惑から始めた構想だった。

ところが、いざ建設に着手してみると、青山は心の底から慈善事業の成功を望んでいる自分を発見した。たしかに、マスコミも彼の行為を褒め称え、真の成功者だともてはやした。彼の名声はますます高まった。

だが、それ以上に、彼は内的な喜びを感じていた。思えば、ついこの間までは、己の犯罪が発覚するのではないかと怯え、恐怖と不安に苛まれる毎日だった。だが、その暗いトンネルの先にあったのは、むしろ幸福だったのだ。

「これも神の計らいか」青山はそう思った。

花壇に彩られた厚生施設の除幕式には、多数のマスコミも駆けつけた。

青山勇は参列者を前に演説をした。

会場の前列には妻の美香子もいた。彼女がこれほど幸せそうに微笑んでいる姿を見るのは久しぶりだった。

招待客として李夫妻の顔も見えた。彼らも寄付者に名を連ねていた。

青山はマイクに向かって力強く叫んだ。

「…企業はただお金を儲ければいいというものではなく、その儲けを積極的に社会貢献に回さねばなりません。それが真の成功というものではないでしょうか」

参列者たちが総立ちとなり、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

(了)

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