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ナイロン100℃『Don't freak out』が上質なホラーだったから配信で見てほしい

2023年初観劇はひさびさのザ・スズナリでひさびさのナイロン100℃になった。せっかくなので感想をしたためておこう。

ナイロン100℃ 48th SESSION「Don't freak out」概要

2023~2024年は劇団ナイロン100℃結成30周年!
2023年2~3月下北沢ザ・スズナリにて、2024年夏本多劇場にて新作劇団公演の上演が決定いたしました!

2023年はナイロン100℃としては2013年上演の劇団若手公演『SEX,LOVE&DEATH ~ケラリーノ・サンドロヴィッチ短編三作によるオムニバス~』から10年振り、本公演としては97年の『カメラ≠万年筆』『ライフ・アフター・パンク・ロック』二本立て公演から26年振りの下北沢 ザ・スズナリにて上演!
出演には、松永玲子、村岡希美、みのすけ、安澤千草、新谷真弓、廣川三憲、藤田秀世、
吉増裕士、小園茉奈、大石将弘の劇団員に加え、松本まりか、尾上寛之、岩谷健司、入江雅人が客演いたします。

https://sillywalk.com/nylon/schedule.html

あらすじ
天皇がまだ神だった頃。とある屋敷の女中部屋。身を寄せ合うようにして暮らすふたりの女。
部屋の外、土間を挟んだ居間からは怒号。宿痾と向き合う家主が、冷淡な家人たちと言い争っている。
どこか遠くから、気が違った女の声。今にも死んでしまいそうな犬の遠吠え。
窓の外、庭に黒ずんだ雪がちらついている。今夜は芯から冷える。
ふたりの女中は可笑しくもない話をして無理矢理笑う。それでもかき消せぬ魂魄たちの囁き。ふたりの耳元で小さく。「怖がらないで」。

https://www.cubeinc.co.jp/archives/theater/nylon48th

ナイロン結成30周年らしい。おめでとうございます。
わたし個人としては、ナイロン100℃という劇団を追っているというより、一時期ケラリーノ・サンドロヴィッチ作演の舞台を好きで見に行っていた。その中には劇団公演もそうでないものもあった、という感じだ。

舞台自体からも離れて見なくなっていたのだが、ここ2〜3年でまた舞台を見るようになり、去年KERA作品を2本、配信で見た。1本目の「世界は笑う」という作品が大変すばらしく、また見に行こうかなと思っていた時に今回の公演についてこんなツイートがあった。

不条理ホラー! 見たい! と思い先行で無事チケットを取れた。

実際に見た感想をネタバレなしで一言でいうと「鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』に通じるような、とても上質なホラー作品」だった。

オンデマンド配信

公演は既に終了してしまったが、現在オンデマンド配信されている。
4月23日まで見られるので、ご興味のある方はこの週末にぜひご覧頂きたい。

狂気は伝染するのか?

ここから先はネタバレを含む。

あらすじをもう少し詳しく説明すると、主人公は「あめ」(妹)と「くも」(姉)という姉妹である。戦前、脳病院の院長の屋敷に仕える女中だ。
院長の屋敷というだけで、ここ自体は脳病院ではない。主人も、奥様も、子どもたちも、出入りする警官らも狂ってはいない、はずだった。
しかし、この屋敷にはひとつの歪みがあり、それは早々に明かされる。今館の主人として、脳病院の院長として振る舞っているのは、本来の主人である天房征太郎の弟・茂次郎だ。
征太郎は気が触れたということで、外向きには重い病気で遠くで療養しているということにして、屋敷の地下に閉じ込められている。
くもはもともと征太郎の妾で、今は征太郎の世話係をしている。くもと話す征太郎は一見すると狂っているようには見えない。
あめの方はかつて婚約者がいて、結婚を目前にその婚約者に死なれている。彼から借りた『一握の砂』を何度も読んで、その思い出から前に進めないでいる。

この作品はシンプルなワンテーマで書かれているとわたしは思っている。それは、「キチガイは伝染る」というものだ。
(キチガイという表現は作中の雰囲気に合わせて使っているが、何かしらの怒られが生じたら直します)

これについては作中にセリフとしてそのものズバリの表現がされている。
地下牢で、くもが征太郎に「キチガイって伝染うつるの?」と訊ねる。無論、精神病はウイルスのように感染はしない。

しかし、この作品の中で「キチガイ」、狂気はじわじわと舞台上全体を蝕むように侵食していく。

序盤から、天房の屋敷は不穏さ、嫌な雰囲気で満ちている。主人が成り代わっている違和感、学校でいじめられているらしい息子、過干渉の大奥様、奔放でわがままな娘……だがそれらはいわゆる「人間の嫌な部分」であって、いわゆる狂気とは異なる。

それが、次第に狂気へと変わっていく。どこが発端かは見る人によると思う。わたしは大奥様・せんが狂いの発端のように思った。
息子の清は学校で浮いているようで、いじめっ子に階段から突き落とされたと言っていた。しかし、それは狂言であったと後から告白している。それについて祖母であるせんは「そんな嘘を吐く必要はない。友達など必要ない。やられたらやり返せ」と言う。母親の雅代は「最初に突き落とされたと嘘をついたのは悪いことだが、それを嘘と認められたのはいいこと」と主張するが、全く聞き入れられない。杖で打たれて、清は再び「友達に突き落とされた」と言う。その間、父親である茂次郎は雅代の方を抑えるばかりで何もしない。

せんがいわゆる妄想を持っているというわけではない。狂気か正気かで言えば正気だと思う。だけど、彼女の理屈は事実をないがしろにしている。彼女にとってあるべき世界であれ、という理屈である。それが家庭内の権力構造と相まって、暴力となっている。それは「正常な状態」から大きく逸脱する。
実際、この出来事を発端に複数の人間が死ぬ。実際に手を下すのはせんではないが、せんによって清や雅代が狂気の近くへと追い立てられていく。

この「キチガイは伝染る」というのは、病理でもあり、ホラーでもある。

病理として読むなら「感応精神病」と呼ばれるものがある。一人の精神疾患患者の妄想が、親しい他者にも共有されることを指す。また、単純に精神疾患患者とのやりとりや世話は精神的に負荷がかかり、世話をしている方が心を病むことは容易に想像できる。事実として「キチガイは伝染る」のだ。

他方、ホラーとして読むならそれは「呪いの伝染」である。狂気に陥り、通常ではありえない行動を起こすのは「呪い」の表出としてよくある。狂気という怪異が意志を持って一家を襲っているようにも見える。

この着眼、そしてそのワンテーマだけをじっくりと見せる2時間20分は体験としてかなりリッチだった。

「あらゆる嫌なことを網羅する」というホラー表現

すでに述べたように、この作品にはあらゆる「嫌な雰囲気」や「人間の嫌なところ」が詰まっている。

せんの他人の感情を無視した主張、折檻。院長の後釜に居座っているだけなのに偉そうな茂次郎、雅代への横柄な態度、血の繋がらない娘・颯子への歪んだ劣情。清は意趣返しのつもりで誤ってせんを殺してしまう。その責任は若い女中になすりつけられる。雅代はせんの死を喜んでいたのに、せんの言葉を内面化してしまい清をいじめた子を誘拐。その子の母が清を殺す。
あめの婚約者は結婚直前に教え子と心中。その婚約者にそっくり(だとあめは思っている)の葬儀屋の男はクズ。そのクズと颯子は遊び友達で、颯子の婚約者・ソネの前でクスクスと笑い合う。ソネだって颯子に理解あるフリをして実際は支配欲を腹の中にたぎらせている。くもとまともに会話していたように見えた征太郎は実は夜な夜な地下牢を抜け出して村の女を強姦している。

とにかく「嫌」の物量が多い。
そして種類も多い。嫁いびり、モラハラ、虐待、裏切りなど、思い付く限りの嫌な出来事が起こり続ける。

個人的に、ホラー表現というものは恐怖の対象が一つに絞られている方がよりその対象の恐ろしさが強固になるようなイメージを持っていた。いくつかの怪奇現象があり、それらにはある共通点があって、それを探っていくと呪いの発生源とも言うべき原因が明らかになる。Jホラーの王道の構成だ。
また、たとえば心霊現象を主題としたホラーに生半可なヒトコワを含めてしまうと、バランス調整を失敗すると心霊の怖さが薄れてしまう(直近では『哭悲』の電車のおっさんのシーンなどがそれに当たる。全編を通して尤もおぞましいのはゾンビではなく、序盤に登場する人間状態のおっさんだ)。

しかし、本作はそのバランス調整が見事なのか、バラバラの「嫌なこと」が畳み掛けるように起きることで、恐怖が増幅していく。これもわたしにとっては新鮮な体験だった。
もちろん、所謂心霊ホラーではないというところが大きいとは思うが、ヒトコワにしてもよくある手法はひとりの狂気をフィーチャーする方法だし、全員発狂のパターンはそれに恐怖する観測者がいないので怖くなくなるリスクが高い。

すでに述べたように本作は単なるヒトコワ、病理としての狂気だけではなく、狂気そのものという「呪い」が感染していく、現象系ホラーとしての側面も併せ持つ。
これはまた別のテーマになってくるので簡単に話すが、近年では悪人の登場しないドラマ、悪意の不介在のドラマも増えてきたように感じているので、従来的な「誰かの怨念」や「個人の狂気」ではなく、「ただそこにある避けられない現象」が襲ってくる方が(感染症とのからみもあり?)怖いのかもしれない。

「物語が停滞する」事自体が体験として機能する

これから配信で見る方にひとつ伝えておきたいのは、最初のうちは「なかなかお話が進まない」と感じるかもしれない、ということだ。

わたしは普段、物語の推進力を重視するタイプだ。出来事は起きるがお話が進まず、いつまでも主題がわからないタイプの筋をあまり評価していない。
なので本作も、最初のうちはやや不安があったというか、推進力が低いな……という感触はあった。

ただ見終わってみると、その点も含めて非常に体験が良かったな、と感じた。ここはまだあまりうまく言語化出来ていないのだが、その物語の停滞感自体が、天房の屋敷で起きていることの閉塞感を表していると感じたのかもしれない。

もちろん、推進力が弱く感じるというだけで様々な出来事は起きるし、「結局何が言いたかったの?」というようなお粗末な出来では決して無いので、その点は安心してほしい。

狂気と平穏は共存するか

終わり方も大変好みだ。

本作は多くの人物が登場するが、主人公はあくまであめとくもの姉妹である(KERA作品は群像劇が多いが、本作は群像劇とは呼べないように思う)。
もちろん彼女らもある程度の狂気を孕んではいるが、それでも取り返しのつかない状況(死んだり、犯罪を犯したり)にはならず、最後まで天房家の女中であり続ける。作中で最初から最後まで同じ状態でいるのは二人だけ(のはず)だ。
天房の屋敷に狂気が充満していく中で、あめからくもに、くもからあめに、その狂気の矛先が向けられることはない。べったりとしているわけでもなく、意見が食い違うこともあるが、二人のやりとりは普通の姉妹喧嘩のそれの域を出ない。

最後には、二人がトランプ遊びに興じて、ケラケラと笑い合う中で証明が落ちていく。笑い声はたしかに狂気を示すわかりやすい表象のひとつではあるが、しかし、あめとくもの間には間違いなくシスターフッドと呼べるものがあった。これは社会的なニュアンスというよりも、自身らの置かれた状況をサバイブするための強固な連係、というような意味である。

あめとくもを明確に狂気の側に落としてしまったほうが、ホラーとしては収まりが良いのかもしれない。
だけど、ある程度の狂気を持ちながらある程度の正気を保って、姉と妹、二人で笑って過ごしているというある種の強かさ、完全に嘘とはいえないそこにある平穏みたいなものに、ひどくぐっときた。

宣伝(勝手に)

「とても上質なホラーを見た」という感覚が強かったのでホラー文脈の感想ばかり書いてしまったが、演出や俳優陣も勿論良い。
俳優では特にくも役・村岡希美の可愛らしさと諦念、カガミ/クグツ役・入江雅人の色気のある演じ分けが素晴らしかった。入江さんはかなり恰幅が良くなっていて、最初入江さんだと気付かなかった。
また舞台全体がセピアになる照明や狭いスズナリの舞台をうまく使った空間構築等、見どころは沢山ある。

いつもどおり後手後手になり配信終了間近の投稿になってしまった。しかも実際に書いてみると、良さの言語化が難しくあまりクリアに伝えられている感じがしない。己の力不足を悔いる。

それでも興味を持ってくれた方はぜひオンデマンド配信で見てほしい。

また、冒頭で引き合いに出した『ツィゴイネルワイゼン』も現在渋谷で上映中だ。4Kリマスタとのことでわたしも見に行く予定。『Don't freak out』が好きで『ツィゴイネルワイゼン』未見の方はこちらもぜひ。

最後におまけだが、本作を見てモロに影響を受け、短編連作を書いた。
完全にパクっているというわけでも無いが、上に書いたような「あらゆる嫌なことが起きる」などを実践してみようという習作的なものだ。戦前が舞台、姉妹ものなどのざっくりした枠組みも踏襲している。
もしよければこちらも合わせてお読みいただけたら幸いである。

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