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おじいちゃんのお葬式。泣けないわたしはてがみを書いた。

わたしにとって、初めての死は祖父のものだった。

天国にいる、おじいちゃんへ。


・ ・ ・


共働きの母と父。
ふたりに代わって保育園の迎えにきてくれるのはおじいちゃんでした。

保育園のグラウンドで友達と遊んでいるときてくれる。
わたしや弟をすぐにつれて帰らず、一緒で遊んでくれた日もあります。
保育園の竹馬にのってひょいひょいと歩くおじいちゃん。
わたしのおじいちゃんは竹馬が得意なのよと、ほこらしくおもっていました。

保育園の帰り道、近くの公園で遊んだ日もありました。
ハトがいつもたくさんいて、おじいちゃんはかぶっているぼうしでハトを捕まえようとするのです。
キャップのつばを持って、手首を返してハトをすくい上げようとするおじいちゃん。
捕まえていた記憶はないのですが、どうだったかな。


そんな元気なおじいちゃんも、わたしが小学生になったころから車いす生活になりました。

この時期、おじいちゃんはもちろん、おばあちゃんも大変だったろうなと今になって気づきます。
おじいちゃんの介護と、家族の夜ご飯の準備と。
友達と遊びまわっていたわたしの知らないところで、たくさんたくさん、家族を支えてくれていました。


おじいちゃんの車いす生活はどれくらい続いたのでしょうか。
気がついたら入院が決まっていて、ある日家からいなくなりました。
おとなたちの間では、きちんと話がまとまっていたんでしょう。
もしかしたら、こどもたちにも説明していたのかもしれません。よく覚えてないけど。

毎日ごはんを食べるダイニングテーブル。
おじいちゃんの席は、車いすのじゃまになるからとイスを置いていませんでした。

どこかへ追いやられていたイスは戻ってきて、夜ごはんの時におじいちゃんはいない。

それがいちばんの変化だったように思われます。


・ ・ ・


それからまた数年。わたしが中学生のうちに、おじいちゃんは亡くなりました。
その日、わたしたちきょうだいは病院に行かず、家にいたんだと思います。

おじいちゃんが亡くなったと聞いても、実感がありませんでした。
家にいないおじいちゃんは、どうやらもう病院にもいないらしい。
はじめて身近な人が亡くなったのに、死の気配はどうにも希薄でした。
死に際に立ち会っていたら、またちがったのでしょうか。


おじいちゃんが死んだ日よりも、お葬式のほうがよっぽど心に残っています。

みんなみんなまっくろな服をきて集まる葬式。
2つ上のいとこもぽろぽろと泣いていました。

かなしさばかりがただようその場所でわたしは泣けませんでした。
まっくろな中学の制服をきて、ただ突っ立っていました。

「ほら、もう最後だよ」

おばあちゃんが棺桶でねむるおじいちゃんのもとへ誘ってくれました。

きれいな顔でした。おだやかな表情。しろい肌。
こんなにきれいなのに、触れたほほはぞっとするほどつめたかった。

こおりのような、つき離すつめたさではありません。

探せば、おじいちゃんの体温がみつかりそうなのに、
また血がめぐれば、あたたかさが戻りそうなのに。

それは無理だとそっと手を離されるつめたさ。

受け入れがたい感情がお腹のそこから湧き上がったけれど、それでもわたしは泣けませんでした。



おじいちゃんのお葬式で泣けなかった。

それが、当時のわたしにはひどく悪いことに思えました。
後ろ指をさされたわけでもないのに、恩を仇で返すような、罪悪感でいっぱいでした。


泣けなかったのはきっと、実感が持てなかったんでしょう。

入院して家からいなくなったおじいちゃん。
小学生のころなんて、家と学校が毎日のほとんどでした。
だから入院した時点でもう、おじいちゃんは外側の世界の人になっていたのかもしれません。
病院にいるか天国にいるか。
乱暴な言い方だけど、わたしにとって違いはなかったんだと思います。

今となっては、なんとでも理由づけができます。
それでも当時のわたしには「おじいちゃんのお葬式で泣けなかったこと」がなんとも悪いことに思えました。


あるとき耐えかねて、部屋でひとり手紙を書きました。
緑色でふちどられて、絵本の挿絵みたいなピンクの小さな花がちりばめられている便せん。
そこに、おじいちゃんへの手紙を書きました。


おじいちゃんへ

おじいちゃん、お葬式で泣けなくてごめんなさい。


この手紙を書いて初めて、わたしは泣きました。

ごめんなさい、ごめんなさい。

大粒の雨のように、涙が便せんに落ちました。


・ ・ ・


あれから10年が経ちました。
おじいちゃんはいませんが、おばあちゃんはまだまだ元気です。敷地内のはなれで過ごしています。

家におばあちゃんあての荷物が届くと、はなれまでもっていきます。

「おばあちゃーん、荷物きたよー」

ノックしながら声をかけると、「はーい」と元気そうな声が返ってくる。


おばあちゃんに荷物を渡すと、次はおじいちゃんの仏壇です。

行くたびに変わるお供え物をちらりと見て、
正座して、背筋をのばして、ふれる程度に両手を合わせて。
最近あったこと、今日のことを報告しています。

おばあちゃんを待たせるのも悪いので手短に。
終われば静かに目をひらき、
似たような内容を今度はおばあちゃんに話すのです。


もしかしたら、わたしは今もおじいちゃんに手紙を書き続けているのかもしれません。

手を合わせたとき、心の中で。

でも、その手紙にごめんなさいの言葉はもうありません。

時間のおかげか手紙のおかげか。
おじいちゃんの葬式で泣けなかった自分を、責めるわたしはどこにもいない。


おじいちゃん、最近は急にすずしくなったよ。もう10月になっちゃった。はやいねえ。


心の中で書いた手紙は、おじいちゃんに届いているでしょうか。

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