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【小説】花散らしの雪

【花散らしの雪】
お題:『全部僕のせいにしていいよ』
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 目を覚ますと、窓の外ははらはらと雪が降っていた。春先の雪だなんて珍しい。なごり雪だなと、とある曲を頭の中で思い浮かべる。春は来た筈なのに、外はとても寒そうだ。僕の位置から僅かに見える桜の木はもう満開なのに、風に舞う花びらと一緒に粉雪が降り注いでいる、不思議な光景だった。
 まるで夢のようだ。本当はこれも夢なのかも知れないと瞳を閉じようとした時、隣で物音がした。
「あら起きたの?」
 僕の傍らで本を読んでいた妻が顔を上げる。僕は頷き、視線だけ彼女へ向ける。
「まさか雪が降るなんてなあ」
「そうねえ。もう今季は見られないと思っていたのに」
 そう言いながら窓の外を見遣り、目を細める。目元に優しく刻まれた皺を見て、彼女が静かに積み重ねて来た柔らかな微笑みを思う。若い頃から変わらないそれに、僕は何度救われたか分からない。今こうして病魔に冒され、ベッドから動けなくなってしまっても。彼女の笑みが全ての痛みと苦しみを癒してくれる。
「今日は君も暗くなる前に帰った方がいいよ。足元に気を付けて」
「ええ、分かったわ。ありがとう」
 彼女は頷き、読んでいた本を閉じて鞄へしまう。妻は毎日僕のお見舞いへ来てくれる。どんなに天気が悪くても、ほんの僅かな時間でも。ベッドに縛られたままの僕にとって、それは間違いなく救いだった。慰めだった。妻の優しさを、これ程まで嬉しく思った事はない。大病を患うまでは毎日仕事に追われて、彼女との時間をなかなか作れずにいたのに。それでも彼女は文句一つ言わず、見返りを求めず、ずっと側にいてくれていた。その無償の愛に気付かず、あるいは甘え続け、病気になるまで振り返りもしなかったのだ。
「すまない」
 不意にそんな言葉が出た。自由に動かせない腕を伸ばしたくても出来ない。彼女の献身に応えようとしても、身体は鉛のようにベッドへ沈み込んでいる。歯痒かった。結婚当初は確かにあった、成熟と言う名の慣れによって追いやられていた愛が、再び息を吹き返す。苦悩に顔を歪める僕を驚いたような顔で見、やがてかぶりを振る妻。再度私へ向けた顔は何処か悲しげで。目元へ僅かに滲む涙。
「いいえ、いいえ。そんな事を言わないで。あなた。あなたがそんな風に思う必要なんてないのよ」
 殆ど感覚のない僕の手を握る妻。その温もりすら感じられないのが何処までも悲しかった。
「暖かくなって、お医者様が良いって仰ったら外へ行きましょう? きっと気分も晴れるわ」
「そうだね」
 そう言って、僕は再び窓の外を見る。まるで夢のような光景。真白の空に桜の柔らかな色が静かに映える。本来相容れないものが混ざり合って、一つの絵画のようにそこへ存在している。まるで僕と彼女のようだとぼんやり思う。
 僕らは、所謂許嫁だった。親同士が決めた婚約だったけれど、僕らはきちんとお互いを愛していた。少なくとも、僕はそう思っている。
 例え彼女が若かりし頃、他の誰かを愛していたとしても。僕が契りを盾に彼女の想いを引き裂いてしまっていたとしても。ああ、どうしてこんな事ばかり思い出してしまうのだろうか。ずっと寝たきりで、心が弱くなってしまっているのだろうか。悔恨、思い出、ほんの僅かな罪悪感。何処までも僕に付き纏う。でもそれが、彼女の想いを殺してしまった事に対する罰だとしたら、それは当然の報いなのかも知れなかった。
「ねえ、お願いがあるんだ」
 視線を逸らしたまま呟く。彼女は「なあに?」と優しく問い掛ける。
「もし僕がこのまま快復しなかったら。どうか僕を置いて行って欲しい」
「どうして」
 立ち上がり、僕を見下ろす妻。構わず僕は続ける。
「僕はきっともう次の春を迎えられない。自分で分かるんだ。だから、全部僕のせいにして、せめて君には自由になって欲しい」
「あなた——」
 彼女は暫し黙って何かを考えているようだった。それから、そっと僕に覆い被さるようにして僕を抱き締めた。
「馬鹿ね。そんな風に思っていたなんて。私はあなたと結婚してから、ずっとあなただけを想っているのに」
 涙が溢れそうになる。いい、いいんだ。君の言葉に嘘偽りなくとも、どうか。
「どうか、僕を救って欲しい」
 窓の外で混ざり合う季節外れの雪と桜を見ながら呟く。震える彼女の頭を、僕はもう撫でる事も出来ない。だったらせめて、僕から自由になって欲しいだけなのに。それが君の、そして僕の救いになると信じているのに。それでも彼女は、僕の胸の上でいやいやとかぶりを振るばかり。
「お願いだよ」
 これは僕のわがままだから。僕のせいにして、僕を、君を、どうか。
「お願い」
 幻のような風景を見遣りながら繰り返す。
 お願いだよ。僕の愛する人。

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