無料で百合を読もうとする乞食の戯言讃歌【踊り場にスカートが鳴る 2/2】

前編では物語のメッセージ性や主人公の内面的な描写などに言及したが、後半では視点を変えて主に「表現」に着目していきたい。

私は百合という文学形態を堪能するとき、人一倍に表現には真摯に向き合わねばならぬと銘じている。

百合でこそ可能な表現、百合でしかできない表現というものは確かに存在する。


この物語が男女の関係では成立しない所以を求め、
早速。



「先輩 私のパートナーになってください」
「彼女のまるでプロポーズのような言葉を 私は生涯忘れないだろうと思った」


1話冒頭からこれである。
冗談ではなく本当に脳がやられそうになった。


そうなのだ、これこそまさに百合の真髄に違いない。
冒頭中の冒頭であるが、既に百合指数が高めに出ている。

この言葉が決して恋愛感情の告白ではないことは言うまでもあるまい。

本意はこれから語られる物語を読んでお確かめなさいという構成になっている。
そしてその実際の意味するところは、「社交ダンスの相手になってください」というようなものである。


何故これが、百合でしかできない表現と捉えることが出来るのか。

一つのことに夢中になっている人間が本来は気恥ずかしいようなフレーズを勢いのままに声に出すという表現は、特段類を見ないというわけではない。

むしろありがちとまで言えてしまうかもしれない。


しかしこのフレーズが、男女間ではなく女性同士の間で発せられるとき、そこには男女間では起こりえない意味が表れてくる。

それは「意図せぬ意図の妥当性」である。

一度考えてみてほしい。
たとえばこのシーンと同じように「私のパートナーになってください」と男性ダンサーが女性ダンサー(或いは女性が男性)に言い放つシーンがあったとしたら。

それはかなり直球な意思表現である。
男性が女性に「パートナー」という言葉を使えばそこには明らかに告白のようなニュアンスが感じ取れてしまう。

もはやそう発言した側が意図してそのように言ったのではないかという疑いさえかけられてなんら不思議ではなかろう。

つまり、どうしてもそこに下心的なものの存在を疑ってしまうのだ。
「盲進的にダンスに取り組んでいるという体で好意を寄せるあの人に意識してもらおう」というような計画を。

この思考回路に妥当性をもたらすのは、このコミュニケーションが異性間で行われている、という背景に他ならない。

では、同性の場合はどうであろうか。
「私のパートナーになってください」といわれたら。

下心を疑う余地は、異性間に比べかなり狭くなるとは言えないだろうか。

「彼女がこのように言うのは私たちが女の子同士なわけだからであって、『プロポーズみたいだ』なんて捉えるのは邪推よね」と考えるのが妥当である。
我々はこれを「百合」という前提で捉えているため、手放しで恋の始まりのように考えてしまうが、幾千幾億の物語の中の一つと捉えれば、これが恋愛に結び付くというのは、早計かつ不自然である。

「まるでプロポーズみたいなセリフ」に対する、刹那のときめきと、すぐに訪れる客観的事実(同性間では下心は現れないというような)に基づいた心情の沈着。

これこそが、百合という文学形態のみが可能とする表現の一つである。


……。
いけない。
尺を使いすぎた。
まだ紹介したい表現はかなり残っているというのに……

これ以上このページで紹介するというのはあまりにも冗長であるので、「前編」「後編」の区分を解体し、これを「中編」とし、新「後編」と続かせてもらうことにする。



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