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退職の有休消化中、「幸福度は上がったか」についての考察

5年半勤め、最後には執行役員をしていたベンチャー企業を辞める決意をし、有休消化中の夏休み。こんなに長く何もしない(無職)なのは久しぶりなので、自分に何かを課す意味も込めて、心境の変化や日々の過ごし方について書いておこうかと思ったり、今だけ思ったり。

8月19日20:30現在(手元のノートから)
いまこのときの幸福度について。

最終勤務日から2週間が経った。

いろんな人から「仕事から離れて幸福度は上がったか」と聞かれるが、(特に所属していた会社の同僚たちから聞かれるが)、会社にいたころと比べると上がってはいる。

「もちろんさ!」と答えつつも、「上がった」という言葉の使い方に少し違和感があり、なんでしっくりこないんだろうと考えてみたところ、「フラットに戻った」というのが正しいかもしれないな、というところにたどり着いた。

それというのも、負の感情がほぼない。
何事も、何かと比較しての感情の上下評価だと思うのであり、負があるからこその多幸感あり、であるが、最初のころこそ、仕事をもうしなくていいという多幸感はあったが、数日たってからは、会社にいることによる負がないので、「毎日ものすごいハッピー!!」ということでもなく、
負がいっぱいだったのが、平穏に戻った、というのが正確な表現な気がする。

ただ、「ものすごいハッピーヤッホー!」でなくても、イライラしたりモヤモヤすることが減ったことは、自分にとっては大きなことであって、仕事をしない、ということがもたらす心理的開放感は非常に高い。

仕事で得られる高揚感や満足感やバリバリ仕事しているぜ、という自己承認感覚も素晴らしいものであることを知っているが、今、それがなくなっても困ってはおらず、虚無も感じておらず、物足りなさも、今のところない。これが何かの呪縛を離れてフラットになることなんだなと、もんやり考えている。

今日、東京駅周辺でビジネスパーソンを見ては「あa、この人たちはみんな働いているんだよなあa」とか、恵比寿のスターバックスでPCを開いてパチパチと作業をしている人を見ては「あa、自分もこういう風にしていたよね」と思うことがあったが、だからといって焦りはまったく感じず、「ああ、そういうころもあったよね」、と思うのみであった。
彼らはまったく自分とは関係ない世界の人たちのようで、まるで社会の中で自分の半径30センチ周りだけ、フリーワールドになっているような気がした。

就労していたときのが、周りの目を気にしていたのかもしれない。
「(隣の人は何をやっているんだろう)」「(あ、Slack開いてる)」「(こうみえても役員なんだぜ)」みたいなことを思っていたよなあ。
なんてどうでもいいことを、なんて小さいんだ。

それから解放されて、今は、何者でもない自分。
自分のやりたいことだけやっての生活。
自分のやりたいことってこれなんだな、本を読むとか昼寝するとか散歩するとかその程度のことだけど、それすらする余裕がなかったんだな、頑張ってたねえ、と気づけたということこそが、幸福なのかもしれない。


(有休は給与が発生しているから当然その安心感の上に立つ自由ではあるけど。それはそれとして自分がこれまで休まず働いてきた対価だからいいのだ、そういいのだ。)




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