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足を洗う

中学生の時の部活の話

僕は当時、陸上部に入っていて、そこは近隣に名を轟かせる超体育会系の軍隊のようなところだった。

僕は棒高跳びの選手だったんだけど大した成績を残して無いしモブキャラだったので、今回は僕の話は省いて顧問の先生の話をしたい。

この先生、名前は松井と言い、全てが規格外で

僕は生きていて松井先生より怖い人間に出会ったことが無い

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中学生の時の記憶補正もあるが、今後も「怖い人間」と言うベクトルにおいて、おそらく上回る人間は出てこないのではと思う。

怖いというと語弊があるかも知れない。
威圧感というか「迫力」が圧倒的な人間だった。

見た目が、まず超怖い。
顔はブルドックとか闘犬をそのまま大きくしたような感じで、背はあまり高くないが、普段から肉体を鍛え上げて全身筋肉のでかいはじける肉弾のような体系だった。

ちょっと話が脱線するが、
松井先生がどんな人間だったかという話をまず語らせて欲しい。

この話をした後に本題の「足を洗う話」をした方が一味も二味も違った味わいを持つと思うから。

僕が中学に入学する数年前、
松井先生が赴任する以前の母校は荒れに荒れて(丁度ビーバップハイスクール?が流行ったくらいの時期で、ボンタン、短ランを履いた不良が全国に溢れていた時)
中学校の廊下をバイクが走ったり、今では考えられないくらい無法地帯だったと聞く。

ちなみに私立のヤバイ中学とかではなく、何のことは無い地方都市の公立中学校の話です。ちょっと信じられないけど、一昔前はこんな感じだったらしい。

今だったらtwitterでソッコー晒されて全国で大問題になるだろうけど
当時はそんな文明の利器は無いので割と揉み消されて、まさに弱肉強食な時代だった。

そして

松井先生が就任して世界が変わり始める

まず、中学にいた不良を全員、恐怖と力づくで更生させる。


僕が入学した時はすでに
松井先生のおかげか母校には「不良」が1人もいなかった。
本当に、ただの1人も不良がいなかったんですよ。

一学年350人くらい、全校生徒数1000人を超える規模の中学校で
いわゆるマンモス校にも関わらず。

僕がいた時は、たまに木刀を持ってウロウロしていたけど
おそらく就任直後、不良を成敗していた当時は、常に木刀を携帯していたことだろう

近隣の中学校は荒れまくっていたと、高校で出会った隣町の中学のやつから聞いた。生徒が先生を殴るわ、怖い先輩とすれ違うだけで蹴られるわ、修羅の国のようだったらしい。

もちろん母校にもチョット怖いヤツは何人かいたけど、
不良と呼べるレベルには到底達していなかった。

不良になると、もれなく松井先生からの指導が入るのでそんな恐怖を味わうくらいなら、学生服の第一ボタンも止めるし、ホックもちゃんとした方が良いに決まっている(だから高校に入って初めて第一ボタンを外している普通のクラスメートを見て心からビックリした)

中学生からすれば、
それほど「生徒指導、松井先生」は圧倒的な恐怖の象徴だった。

伝説は幾つかあるけど特に有名な話は

中学校に侵入した暴走族を松井先生が迎え撃つ

昔は暴走族が中学・高校、はたまた保育園に遊び半分で侵入することって、結構あったんですよ。

松井先生は、母校に車で侵入した暴走族を迎え撃って
結果的に暴走族の車にみごと轢かれたんだけど
それを得意の柔道で完璧に受け身をとって無傷で生還

そして間髪入れずに10人くらいいた暴走族をボコボコにして返り打ちにしたという伝説。そしてヤンキーを悟す。
それ以来、我が母校には暴走族が一切侵入しなくなったということ。

その話は嘘かホントか分からないけど有名で、
中学に入学したばかりの坊ちゃんだった自分はマジですごい人だと思うと同時に、ひっくり返ったって敵わない、恐怖の大王みたいな存在であった。

そんな松井先生だけど
校区内はおろか、近隣の教育委員会まで名前が轟き(僕が卒業した後は教育委員会からスカウトされて幹部まで上り詰め、その後私塾「魁!!男塾的」な?を開き、自伝を出版したらしい)
隣町の学校の生徒も「とんでも無く怖い先生があの中学にいる」と噂で耳にするくらい有名人で、
新しく赴任してきた校長先生よりも、権力と発言力があったと中学生ながら大人たちを見てウスウス感じていた。

今思うと胡散臭いヤクザみたいな教頭先生がいたんだけど、
その先生とも意気投合し(というか手懐けて)、学校の先生がほぼ全て「松井派」と言った状況で、中にはアウトサイダーなちょっと変わった面白い先生がいたけど、その先生は松井先生は嫌いだと公言して、学校にいずらそうにしていた印象がある。

当然、子供はおろか大人(教師陣)にもめちゃくちゃに恐れられて若い新任教師は松井先生の元で部活の生徒のように指導されていた記憶がある(今はコンプライアンスの関係で分からないけど当時は皆、当然のように呼び捨て)
松井先生より年上のおばちゃん先生とかも呼び捨てされてて、むしろ指導を年下の松井先生に仰いでいる状況だった。

何が言いたいかと言うと、影響力が強すぎるせいで(今思えば本当に強烈なカリスマだったと思う)
松井先生に属するか、属さないか、のレベルで中学校が統制されていたw

ちなみに松井先生はただの体育教師であり、役職とかはついていない普通の先生。それなのに中学校を仕切る裏番みたいな存在感だった。

必然的に、先生が顧問する陸上部が生徒全体のリーダー的な存在で
生徒会役員はほぼ全員、陸上部の人間で占められていた。

ああ、もう松井先生の話を始めると止まらない。。


ネタの宝庫というか。。
生ける伝説

マジで生まれた時代が戦国時代とか、戦争の時代なら、
結構、行くとこまで行ったような気さえする

僕が20代に海外放浪をしていた時、
オランダのアムステルダムの娼婦街(有名な所で半ば観光地。もちろん利用はせず、見学だけです。ヨーロッパの中でもかなり治安の悪い地域)を夜中にウロウロしていた時、屈強なデカい黒人2人にカツアゲをされたことがある。

僕の人生で1番危険が迫った瞬間だったと思うけど、その瞬間ですら松井先生の怖さに比べれば、全然怖くは無かった。
結局、デカイ黒人2人とは冗談を言って笑顔で分かれて、カツアゲもされずに済んだ。

危険を回避できたのは、松井先生による強烈な恐怖体験を思春期にこれでもかと味わって耐性がついていたからかもしれない。

まだまだ先生に関するネタはワンサカある。

他の部活の生徒からは恐怖と同時に、嫌煙+ネタにもされて、
「松井教」と陸上部を揶揄するあだ名がつけられ宗教のように扱われたり。。


部活の雰囲気は、完全に軍隊そのもの

だった。
松井先生に心酔して教祖のように崇める生徒とその保護者取り巻きが沢山いたっけな。僕はただ怖いだけで全然心酔していなかったけど。。
そのため陸上部の生徒自身も自虐的に「松井教、確かにw」と、受け入れていた。

松井先生の秘密の計画ノートがあり(ハリーポッターみたい)
ある時どこでどうやって見つけたか分からないけど
部室でノートが回し読みされていた。

内容は忘れたけど(確か自己啓発的な内容+練習メニューとかだったような?)
そのノートの表紙に「M計画」とバーンッと書かれていたもんだから
その厨二的なネーミングセンスを部員で皆んなでいじり倒して「やべーM計画www!こえー!」
と中学生のあのノリで
自分達の置かれた軍隊のような状況と、カリスマである我が恩師を陰でいじっていた。

ふう〜

これだけ語れば松井先生がどれだけ怖しく
また特殊(いや、特別と言った方が良いか?)な人間だったか
その一端でも分かってもらえたと思う。

そんな松井先生だけど怖いだけでは無かった。

これからがやっと本題。

怖いだけの先生はたくさんいる。
けど学校全体を仕切れて人望を獲得するような

今でも語り継がれるような先生には怖いだけでは絶対になれない。

先生は弱い立場の生徒(引きこもり、障害者の生徒)に対して特別目をかけていつも声をかけていた。

当時の僕から見ると独善的(自分が気持ちいいから良いことをした気でいる)ように見えなくも無かったが、とにかく声をかけて勇気づけていた。

そして部活では精神力の弱そうな僕のようなタイプの人間を決して追い詰めることは無かった。ある程度、精神的に成熟した生徒、つまり学級委員をやっているような早熟でメンタルの強い生徒を選んで、厳しく、時には見せしめのように怒号を飛ばしていた。

常に強いものには強く、
弱いものには優しく(というか無視?それでもめっちゃ怖かったが)接していたと思う。

僕自身は権力を持っている人間、権力を欲する人間が苦手なタイプだけど、
松井先生は絶大な権力を、中学校という狭い世界で手にしつつ、
独自の「仁義・愛・信念」を貫いていた。

合言葉は『can  do!』

「やればできる」といつも部員を洗脳するように言い続けていた。

そしてその「仁義と信念」こそ僕が松井先生を尊敬し、
唯一認めていた所だった。正直それ以外は嫌いだった。

平日、部活が始まる前に必ず

「松井先生のありがたい話」

を30分くらい聞くのが我が陸上部の恒例だった。

それを部員は体育座りをしながら微動だにせず聴くわけ。
今でも強烈に記憶に残っている懐かしい風景がある。


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木漏れ日が気持ち良い、晴れた日の夕方


セクハラともとれるような布切れ一枚のウッスーい陸上特有のユニフォームに着替えて、松井先生のありがたい話を僕らは聞いている。

硬い土の上で体育座りをしてお尻はとても痛いけど、背筋をピンと伸ばし、30分、時には1時間くらい、ただ松井先生の顔を直視している。
(そして時に「そうだろお前ら?」と聞かれ「ハイッ!!!」と部員が声を揃えて大きく返事をする、100人近くが声をそろえると地響きに似た振動があり、それは結構気持ちの良いものだった)

松井先生はよく、
ご自身の腕毛をハサミで切りながら(綺麗好きなのかな?)
僕ら部員約90人+新人の若いサポート役の先生2人の前でお話をされる。

切られた腕毛が風に乗ってソヨソヨと漂っている
それが僕の前に座っている先輩達の顔にかかっている

先輩達は微動だにしない。

降りかかった毛を払うことすらせず、ピッと背を伸ばして先生の話を集中して聞いている。日焼けした先輩の肌が、茶色くツヤツヤと輝いている。

低くなり始めた夕方の太陽が、木の葉の隙間からキラキラと光っている。


まるでその木漏れ日は、
松井先生を照らす御光のように美しく輝いていた。。


というような、今思うと少し異常とも取れるような状況の中
先生は今まで自分の人生で感じたこと、経験したことを、毎日代わる代わる僕らに話す。

ふう〜


状況説明だけで原稿用紙5枚分くらい書いてしまった。
これからがようやく本題

その松井先生の話の中で今でも強く印象に残っている話があって
それが

「足を洗う話」

松井先生は、厳しい大人によくあるけど
子供の頃は結構、過酷な家庭環境で育ったようだった。

あまり自分の家族の話をしなかったから「足を洗う話」は僕の記憶に強く残っている。

ある日、まだ先生が中学生だったころ、
苦労をして子供を育てていた母親が、何か大変な苦労をしてその事実を松井先生は知る。

そして、その話を母親から聞いて、
ひどく感極まった松井先生は、
その日の夜、母親がお風呂に入っている時に、突然
自分も風呂に入り込み

「お母さん、こんなに苦労をかけてしまい、本当にごめんなさい。
せめてお母さんの足を、苦労して僕を育てて支えてくれているその足を、
今日は僕に洗わせて下さい!」

と懇願して、ゴシゴシと母親の足を、号泣しながら洗ったそうだ。

僕の記憶は定かでは無いけど、
確か一緒にお風呂に入っても違和感の無い小学生の時の話ではなく、もう一緒に親とお風呂に入らない年代である中学生の話だったと思う。

僕はその話を聞いた時、
素直に

気持ち悪っ!!

と思ってしまった。

親のお風呂に中学生の男子が入る行為そのものと、
前時代ともとれる「苦労したお母さんの足をゴシゴシと泣きながら洗う」というその行為

良い話だ、と感覚的には受け入れていたが、
なんて言うか生理的にちょっと気持ち悪いなあと、素直に感じていた。

僕も中学生だったので許してあげて欲しい。
親から自立することが、かっこいいこと。
反抗期を目前に控えたお年頃ですから、ある意味正常な感覚だったと思う。


そしてこの話だけど、
いつの頃からだろう、

お風呂に入り、もしくはシャワーを浴びた時
僕は丹念に自分の足を洗うんだけど、
その時にふと思い出す。


ああ、
松井先生は母親の足をゴシゴシと洗っていたなあって

いつもありがとうございますって、泣きながら
母親の足を洗っていたって




僕はその話を思い出して
いつの頃からか、

「いつもありがとう、足よ。
僕をいつも支えて、行動するときはいつも負担をかけている足よ。
お前のおかげで僕は今日も働けるし、今までいろんなことを成し遂げてきた」

と感謝をしながら自分の足を洗うことが癖になっていた。

今なら先生の気持ちが少しわかる。

中学生の時は気持ち悪がっていた話の意味も理解できるようになった。

松井先生は反抗期を目前に控えた、むしろ反抗期真っ只中にいる中学生に対して、親に対する感謝を忘れては行けない、これくらいストレートに感謝を示すことは何の恥でもないと伝えたかったのだと思う。

それも分かる

僕の潜在的な解釈と言うか人生への影響は

上記のように少しニュアンスを変えて違った形で出ている


足とか、靴下とかパンツとか、
あとは酷使してしまって、ボロボロになった手とか、
履きつぶして穴の空いた、靴とか

僕は捨てられないし、愛着がすごい沸いてしまう。

酷使されたものほど、相棒のようで、戦友のようで、
愛おしく感じてしまうこの感性。

大事にしていきたい。

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