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「好きなアーティストいますか」
好きなアーティストのライブに行く、という行為を人生で一度もやったことがない。自分の好きなアーティストというものが存在しないからだ。
全く音楽を聴かない訳ではない。むしろ人並み以上に聴く方ではあると思う。音楽自体は好きなのだ。自室には高音質で音楽を楽しむためのBluetoothスピーカーも置いてある。
では何故好きなアーティストがいないのだろうか?
まず考えられる要因として、俺が好んで聴くジャンルが洋楽、クラシック、ジャズなどの国外の音楽に偏っているということが挙げられる。必然的に日本で活動しているアーティストに馴染み辛くなるのだ。かと言って海外で活動しているアーティストでお気に入りの人物がいるかというと、別にそういうわけでもない。薄く、浅く、広く聴くというのが俺のリスニングスタイルだ。
そして次に、俺の飽きやすい性分が「誰かのファンになっていく」という過程を阻害してしまっている。少しハマりかけたアーティストなどがいても、アルバムを聴いて満足したら次のハマれるアーティストを探してしまう。興味、熱量がひとつの対象に対して長続きした試しがない。哀しいことだ。
俺の知り合いは大体それぞれ好きなアーティストというものがいて、そのアーティストのライブに行くことを楽しみにしている。
俺はそういう「ライブに行きたいほど好きなアーティストがいる」という状態に憧憬を抱いていたのかもしれない。
ずっと「好きなアーティストがいる」ということはアイデンティティの証明である気がしていた。ある特定のアーティストが表現する音楽に共感し、共鳴する。それは自分の中に確固たる芯を持っている人間にのみ許された営為だと思っていた。
その考え方が頭に染み込んでいくほどに、俺は自分のアイデンティティが如何に空虚なのかを思い知らされた。俺は「何かを好きになる」という重要な心の機能が欠落してしまっているのではないか、といつも煩悶していた。
最近自分が何を好きなのか、嫌いなのかが自分自身でもよくわからなくなってきた。食べ物であればラーメン、寿司、カレーなどが好きなのだが、何故好きなのか?と問われると「美味いから」以外の理由が思い付かない。好きになるのに理由なんか要らない、という月並みな言葉があるが、俺は面倒な性格をしているから「カレーは美味いから好き」という単純な構造では満足ができない。「何故カレーの味が好きなのか?」というところまで詳細に言語化出来ないと、「本当に俺はカレーが好きなのか?」という自己懐疑の域にまで達してしまう。
音楽にも同じことが言える。宇多田ヒカル、ポルノグラフィティ、スキマスイッチ等の一昔前のポップスのCDをTSUTAYAでレンタルした時代もあったのだが、俺は何故それらのCDを聴きたかったのかと問われると「なんとなく耳に馴染んだから」という浅薄な理由しか思い付かない。
しかし音楽に対してそこまで興味がない訳でもない。音楽がない生活というのも俺には耐えられないだろう。音楽に対しての姿勢でここまで悩む必要もないのだろうが、逆に音楽が好きだからこそここまで悩めるとも言える。それはそれでアイデンティティの一種になるのかもしれない。
日曜日の夜はきまってステイシー・ケントの『What a Wonderful World』を聴く。この曲は素直に聴けば良い曲だし、精神の状態によってはアイロニカルで自嘲的にも聴こえる。
単純にこの世界が素晴らしいとは思えないけれども、音楽が存在する世界の尊さを教えてくれるような気もするのだ。
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