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デス・レター(歌に感情を込めるか?)


先日、友人のムラカミロキがX上で発した一言がきっかけで、俺と彼の間に、ディベートめいた、ちょっとした会話がなされた。ムラカミのこの発言は重要だ。にもかかわらず、俺のX上での返信がちょっと雑だった。細かに返答する責任がある。そして、ムラカミとの対話はいつも楽しい。いろんな理由が相俟って、以下の通り俺の考えを書いておきたい。

その前に、そもそもの提言(画像参照のこと)に対するムラカミのつぶやきを全文見てみたい。

 わからんでもないけど、「良し悪し」で言えばスタイルとかプレイヤーとか場とかジャンルとかにもよるよなぁ、と身も蓋もなく(引用終)

つまりムラカミは、場合によっては、「歌に感情を込めること」が良い、と言っている。で、俺はこの、場合によっては、歌に感情を込めることが良いという考えそのものの真偽を考えてみたい。

俺は→(yajirushi)というバンドでギター/ヴォーカルを担当している。ジャンルはロックである。元歌も作っている。活動の場は主に音源制作とライブハウスである。ムラカミが挙げた、「とかによる」は一応全部網羅した。先頃までやっていた、小論文の講師の経験を合わせて、経験則で考えてみたい(であるから、絶対に俺が正しい、という訳でないこと、あらかじめ言っておく)

とりあえず俺は、何か言いたいからロックをやる。その「何か」は、高尚かもしれないしくだらないものかもしれない。だが、総じて、俺の感情が何らかの形で揺さぶられた時、曲はできる。というか、すでにできている。

つまり、曲がある時、そこには何らかの感情がすでにこもっている(筈である)。そしてその感情は、言葉にできるものもあればできないものもある。そこで、先のムラカミのつぶやきに対する疑問は「言葉にできない感情を、どうやったら込められるのか?ということである。

こんな例を考えてみよう。俺の曲の中に「Money Short Blues」というのがある。これはある時、俺がタバコを買おうとして40円足りない!ちっくしょ…という屈辱を、まことにくだらない屈辱を歌った歌である。実際この事象が起こった時、おそらく俺は、屈辱と同時に、不条理感やそれを笑い飛ばそうとするポジティブな感情を持った筈である。

だが、俺は練習であれ本番であれ、この曲をこう言った感情を込めて歌ったことがない。理由は様々だ。ライブ中は常に無心で歌うから。これはもしかすると俺の未熟の故かもしれない。上のような感情を込めることに意味がないから。これは諸兄も首肯してくれるだろう。

だが、最も大きい理由はおそらく、上に挙げた「屈辱」だとか「不条理感」と言った言葉が、後の(今の)俺の「解釈」に過ぎず、従って当時の感情の揺れの「近似値」に過ぎず、本当のところは俺にもわからないからである。

これを逆に言えば、「感情を込める」とは、多色の絵の具を渦巻に混ぜたような、グニュグニュの感情の乱れを、歌い手がバッサリ、雑に近似値化して歌ったということに、ならないだろうか?俺の、ムラカミの発言に対する疑問は、これだ。

一方、歌手の感情の受け手である聴衆は、歌手のこの「(近似値の)感情指定」を受けて、どう思うだろう?歌の伝わり方は、一次的には、メロディ/音量/音質/リズムなどが一体となって、聴衆の心を揺さぶる。しかるのち、その曲のディテイルに聴衆が言及して、もっと心が揺さぶられることもあれば、冷めることもある。この一次/二次のタイムラグはケースバイケースだ。時には瞬間的に移行する。

だが、この伝播の中で、歌手が「感情を込める」ことに何の意味があるのだろう?なぜなら、(聴衆としての俺の場合オンリーかも知れぬが)聴衆は、歌手の歌に仮託して自らの経験を思い出し感情が揺さぶられると思うからである。そしてその感情を、「悲しい」だの「嬉しい」だの、ザックリ近似値化して聴いているとはとても、思えないからである。(「悲し」くないのに涙が出るのはなぜか?)

無論、例外はある。それは、歌手が聴衆に同調を求める場合である。歌手の近似値化された感情を、聴衆も近似値化して同調してもらいたい。こういう場合だ。これが極限に達すると、メガヒットになる。「世界にひとつだけの花」がそうだ。だが、この曲を見てもわかる通り、究極の「感情を込める」とは「何の感情も込め(られ)ない」棒読みならぬ棒歌いである、といった、まことに珍妙なパラドックスに陥るのだった。

作詞家/作曲家から歌をもらって歌う、専門職としての歌手八代亜紀も、そのことに気づいていただろう。曲をもらう瞬間の、聴衆としての八代。それを「本物の」聴衆に向けて歌う歌い手としての八代。両者の心情を分かった上での、「私はメディアである」との自己認識が、その証左である。彼女は歌の伝播とは何かについて、深く洞察していた。さすがとしか言いようがない。

と同時に俺は、「何も考えずに演るだけさ」という、一見思考放棄のバカぶりが、実は「混沌とした感情をそのまま聴衆に投げつける」という効能を持っている、ロックというものに、依然として芸術への可能性を期待している。

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