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デス・レター(ティートエイチとYajirushiと)



ティートエイチとYajirushiの関係は、相思相愛である。俺は折に触れて彼らのステージを観に行き、「お、やってますな」と、椅子があれば腰掛けて、水を飲みながら、ノる。彼らもまた折に触れ、Yajirushiのステージを観に来てくれる。ただし彼らは2人とも大した酒豪だから、演奏を見ながらしこたま飲んで、ワイワイ騒いでいる。演奏姿なんて観なくて良い。正しい観覧である。

ティートエイチ(以下TH)。ご存知ない方もいるであろう。ヒロキ(ds)とtetsuji(g/voice)の2人組である。音はと言えば…もうなんて形容したら良いのか分からない(実は本稿はこの話である)。ま、とにかくおしゃれでかっこいい。演奏時のアクションがまた、いい。俺はシンバルのミュートを肘でするやつを初めて見た。また、これでもかというくらいの手数ながら、全くうるさくない。つまり、非常に精緻なドラムアレンジなのだ。tetsujiはtetsujiで、カクカク動きながら正確な短音リフを延々と弾いている。リズムとメロディの関係が逆転している。もはや、ロックというよりダンスミュージックである、と書いても、まあ分かるまい。一度見ることを薦める。

俺たちとTHの共通点は両者とも、既存の音楽様式から逃げ続けてきたことである。様々なロック/ポップスを聴き倒し、徐々にそれを食いながら、自分たち独自の音楽を作り上げようとする、そんな努力があるのだろう、きっと。ヒロキは、先日のライブで脱水症状になり、俺の問いかけに終始グデーとなっていたが、この時だけはきっぱり「自分は唯一無二を目指している、それが目標」と言い切った。

ジャンルからの逃避。これに関して、(俺の周囲を含めた)ミュージシャンたちの意識は低いと、俺は思う。それは言い換えれば、既存ジャンルの信憑性に疑いを持っていないということでもある。曰くミッシェル、曰くブランキー。あるいは曰くボブディラン。曰くデッド、ニールヤング。はたまた曰くグランジ。曰くオルタナティブ…。だがこれらのジャンルが、どれだけの普遍性を持っているというのか。

ミッシェルはミッシェル一代である。ニールヤングはヤング一代である。オルタナティブに至っては実態さえあやふやである。それらに憧れるのは分かる。だが、そのものをやるのは、あるいはその概観に追従するのは、単なるレトロだ。「昭和はよかった」と、それは寸分違いがないと、俺は厳しく考える。

「いや違う」という反対意見、興ること必死である。そしてそういう人々が必ず強調するのが、「元歌の良さ、歌詞のよさ」ということで、結局彼らは日本というガラパゴス島に、収斂してしまうのである。これが日本のロックの現在である。

Glass Beams。知る人は少なかろう。3人編成のバンドなのだが、全員金色の金属面を被り、なんちゃってインド/ペルシャ音楽を英語で歌うという、ホントーに訳のわからないバンドである。クルアンビンならご存知か?テキサス出身。タイのポップミュージックに影響を受けた、何とフュージョンインストバンドである。

彼らが斯様にヘンタイであったのは、俺たちと同じく、たくさんの音楽を聴きながら、そしてそれを好みながらもフォロワーになることを頑なに避け続けた結果と言えないだろうか。それは裏を返せば、日本のロックミュージシャンの多くは、①あるミュージシャンの好きが昂じてロックを始め、②そのジャンルに依拠すれば何とかなると思っており、③自らの革新性を歌声、メロディ、歌詞内容といった「内実」に求めている、ということになる。

つまり、日本のロッカーたちの多くは、外見を軽視している。つまり、ダサい。ぬるすぎる。日本のロッカーは、もっと、外見のヘンタイ性を意識すべきである。こういう分析が成り立つが、諸兄はどう思うか?

俺は、個人的には、グランジの普遍性はないと思っている。ミッシェルの源流たるDr. Feelgood は、時代の徒花だと思っている。俺は、The Bandは好きだが、彼らの音楽は唯一無二のものであり、Steely Danと同じく、同類の音楽を目指しても、敢えなく負けるだけだと思っている。

THに初めて会ったのは、新松戸のfirebirdだった。ラウンジでtetsujiに「DEVOみたいだね!」と褒めたら「というか、自分はトーキングヘッズみたいなのやりたくて」と言った。それであの音楽!彼はヘッズを聴いて、消化して、歌舞いたんだな、と思った。俺がジョンスペにそうしたように。この思考を持つ俺以外の日本人に、初めて出会った日だった。

どんなにいい曲を作っても、あるジャンルにハマってしまったら終わりだと、最近の俺は考えている。






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