自分を熟知するとどうなれるのか?
こんにちは。麻子です。
節分ですね。
今年も節分祭は京都市内のあちらこちらの有名寺社にて行われています。お近くの方やちょうど週末なので京都に来ている方は、ぜひ調べて参加してみてください^^神秘的ですよ。
さてこのごろ、といえば、
私、先月27日についに半世紀生き抜くことができました!!
江戸時代だったら超ご長寿、
戦国時代だったらおそらく仙人クラスの扱いです!!🤣
半世紀も生きるとね、(この記事を読まれる諸先輩方、本当にまだ青くてすんません)いろんな変化、支障が現れるもんです。
はい、まずは痩せれんくなってきた💦
つかなくても良い所に脂身がくっつくようになってきた。
次に弛んできた。
重力にどうしても逆らえないことが出てくるんですね。
ああ、あの女優さんもその俳優さんも劣化したとか、好き勝手テレビの前で言いたい放題言って本当に🙇ごめんなさい🙇
何が言いたいのかっていうと、これも「自分を熟知すること」だということなんですね。
自分を熟知するとは何か、どんなことなのか?
ああ、変わってきたな、変わってきちゃったなという
「自然の摂理」の中の変化する自分を認めてあげること
それが何を隠そう「自分を熟知する」ということなんですね。
これがいわゆる自然体と言われるモノなんだなって、
やっと私の言葉が見つかった!!
と思って今現在すごく嬉しい気持ちになっています。
自分の言葉つまり「自分定義」が見つかると、
すごくスッキリして面白くって、愉快になって先の展望が見えてくる。
だから言語化はとても重要で、自己表現されることもそれ以上に大事なんですよね。
結構それに気がついていない人が多いので勿体無いなあって思うんです。
気づいていないと、自分の考えに固執して意固地になっちゃうから、
非常に勿体無いなって思うのです。
こんなふうに思っていること感じていることが言葉になるから
定義されていくんですよね。
麻子さんのイチオシSNSってなんですか?って言われたら
noteって答える。って定義ができてくる。
理由は?って聞かれてもちゃんと明確な理由がある。
その状態が、自分定義がある状態。
noteがいいなって思うのは、
有料プランも選べるし、
自分の書いたものを一つの作品として残せるところや、
見ず知らずの皆さんが❤️つけてくれるところとか。
いっぱいありますが、
自由帳的要素がやっぱり大好きだからです。
他のは自由なようでいてああせい、こうせいっていうのが
何かしらありすぎる気がするんですよね💦
写真も好きだからInstagramも好きだけれど、
一応作家だから、文章を書くのも決して嫌いじゃないんですよね。
その好きな度合いで使えて書けるようになったのが、
このnoteという仕組みなんだっていう自分の確信があるだけ。
他の人と違っていいんですよ。それに自分なりの「確信」があるなら。
そう、自分を熟知すると「確信」が増えるのです。
確信があるから道を切り開いていける
この「確信」こそが、
自分定義を持つ、自分を熟知することのコアです。
私は亡きバリ島の師匠や世界各地のシャーマンに出会うたびに、
「それであなたはどうしたいのか?」と聞かれ続けてきました。
若い頃は本当に???でした。20代の前半だから仕方もないのですが、
今のようには到底答えることなどできないんですよね。
でも、20代の後半ぐらいから、
どうやら私は周りの同年代の普通のOLとは全く価値基準が合わないらしい
ということがわかってきました。
研究心や探究心、海外に対する想いとか、知りたいという気持ち
それらが、ただハワイで買い物したい、きゃー!!っとした女子のよくある感じとは全然違う、違いすぎるっていうことを知っていくわけです。
悩みますよね。こういう時。
人と違うし、違うのがわかっても合わせると苦痛だし。
なんでそうなってしまっているのか理解できるまでは、本当にきつかったですね。
私には、同年代がいいと思うものを全くいいと思うことができないから、
それで自分がおかしいんじゃないかっていうことを責めていましたからねえ。
でも10代20代ってある意味、恐ろしいでしょ。
勢いがある分ね。
勢いで動いちゃうそこには自分の意見っていうものはある陽でいて実は全くないんですよね。流されてることが多い。
それが周りの人にしろ、テレビや雑誌の影響にしろ(当時ネットはありませんので)、社会にしろね。
ある意味で子供の頃から早熟にならざるを得なかった部分がある私は、
40代50代になっていくにつれて、
同世代、少し年下、年上の人たちと話があうようになっていく。
経験値が見合っていくのを感じているから今は違和感がありません。
自分という人が熟知できてきて、
どのような人生を送りたいかが明確で
何のために、
誰のために、
なぜそれをやろうとしているのか
が常に明確にぶら下がっているので、
他者と比べることなく、
派手な生活に溺れていたところから脱出して、
本来の自分の魂の生き方を突き進めるようになってきました。
確信は自分のことを認めないと得られない
ではなぜそうなったのかというと、
ジャッジなく自分の良さも悪さも認めているから。
ジャッジというのは、いいか悪いかを計る行為、考え方。
なのでジャッジがなければ、当然本当の自分がまるッと素直に受け入れられるようになるわけです。
そして、
その素直に自分を受け入れた先に、自分を深く知れる器が出てくる。
素直さを勘違いしている人がたくさんいます。
かつての私もそうでした。
正直さも同じだなあと思う時が今も、たくさんあります。
嘘はいけないというのも、悪い言葉遣いというものにも、
みんな何かしらの個人的ジャッジが加わっていってそうなっています。
私も思うと素直じゃなかったなっていう時がたくさんあったから、
言えることなんですけれど。
みんな無駄にプライドだけ高くなっちゃって、それじゃあいけないよね
って思うんです。
自分に対してまず素直じゃないから、認められないんですよね。
認められないから当然自分定義はできないし確信もないわけです。
私がそういうことから脱出できたのは、
年下の師匠たちにさまざまなことを日本では教わったから。
年下の頑張っている人たちの姿や意見、学ぶ姿勢からたくさんのことを授かっ宝だと確信しています。
年上風吹かしてなんぼのもんじゃいっていう人もいるかもしれませんが、
(その生き方は否定はしません。そういう態度が必要な時もあります)
若い人たちが持っている素晴らしい情報通信力と自分の経験値が掛け算になると、もっともっと素敵なことが起こせるようになるとは想いませんか?
こういうこと、
つまり時代と世代の違いを認められるかどうかがとても重要になってくるのです。
まずは自分の状態現実を具に理解し、良いも悪いも認めてからでないとその先には進めないわけです。
自分はこれができるんだ!!
自分はここが弱いんだ・・・(得意ではないんだ)
自分はこれを今知らないのだ
自分はこの分野なら誰にも負けない知識がある
自分のこの経験は誰もができるものではない
自分はこれからxxxを学ぶ必要性がある
など、なんでもいいのですが、
自分を認めることで「行動」につながる「確信」ができます。
そしてその「確信」こそが「行動」に向けて自分を突き動かしていくのです。
自分を熟知している人同士が気持ちいい!!
コミュニケーションは、自分を熟知している人同士ができるものだと考えています。
自分がわかっていないと、
相手の話を聞いているふうで自分のことを考えている
自分の売り込みに意識が入っていて相手の話を聞けていないので不快にさせてしまう
言った言わないの水掛け論が発生する
誤解された!と怒りが込み上げてくる
などのバグが発生してきます。
こうしたバグは、
分かり合えると思う前提で話しているのか、分かり合えないものと前提にして話すのかの違いではないか?という人もいますが、
こうしたバグは、
そう言ったそもそも論ではなくて、自分を熟知していないまま、知っている言葉や状況を説明しようとする言葉だけを投げつけたり、感情に訴えかけるだけで中身の伝わらない言葉をガシガシ投げかけてしまうことによって起こってきます。
ちょっと不毛ですね。
その不毛なことを回避して、よりコミュニケーションがスムーズになり、共有する時間や企画でお互いに成長できるようにするためにはどうしたら良いのか。
そのためのことを自業では書こうと思います。
とても大事なことなので、ここまでのことをよくよく読み返してしっかりとご自分に落とし込んでもらえると嬉しいです。
前号、前々号もぜひ合わせて繰り返し読んでみてくださいね。