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1975年 広島カープ初優勝

昭和20年8月6日、午前8時15分。
B29から投下された一発の原子爆弾で広島はすべてを失った。
幸せだった生活も、愛する家族や友人も、望んでいた未来も、全てを失った。

絶望に打ちひしがれた広島の人に希望を与えたのは終戦の年から4年後に設立された広島カープだった。
もともと野球が盛んな土地柄で地元の高校は何度も甲子園で優勝しているし、多くの優秀な選手を輩出した。
だが、親会社を持たないカープには資金力がなく、優秀な選手は給料の良い他球団でプレーすることになる。

貧乏な球団で何度も解散や合併の危機を迎えるが、それを救ったのは広島市民だった。自らも貧しい暮らしを強いられているのに、カープのために樽募金をして球団を支えた。
しかし、成績は万年最下位という状態も続いた。

カープにとってのターニングポイントはアメリカ人のジョー・ルーツを監督に迎えたときだろう。1975年、昭和50年のことだ。
原爆を落とした国の監督はカープの選手に無気力なプレーを許さなかった。勝つことで球団を支えてくれた市民に恩返しをするようにとハッスルプレーを要求した。だが、ルーツは就任1ヶ月で球団を去ってしまう。

ルーツから勝つ野球を学んだ古葉竹識が次の監督に指名された。古葉のもとでカープは勝ち続け、とうとうセントラルリーグ優勝を果たす。
球界のお荷物だった地方の弱小球団が、原爆投下後30年かけてやっと手に入れた優勝だった。
この出来事で広島の人は自信を持った。球団同様、市民も常に劣等感を持っていた。

この1975年の広島の街、広島の少年たちを描いた重松 清の「赤ヘル1975」は当時の情景を見事に描いた。

今なお、原爆症で苦しんでいる人がいる。身体にも心にも負った傷は永久に癒やされることはないだろうが、広島の街は形の上では完全に復興した。
埃っぽい街も美しい国際平和観光都市として生まれ変わり世界中から多くの訪問者を受け入れている。

この復興が本当に始まったのはカープが初優勝した1975年だったと私は思っている。

多くの命が失われた8月6日。今日だけは死にたいという気持ちを抑えて、平和のありがたさに感謝して、これが永久に続くことを願って生きようと思う。

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