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ドラマティック本能のバランス感

人間の脳は、勝手に物事をドラマティックに捉える癖があるらしい。良いじゃないか、人生にはストーリーがなくては。どんな人でも毎日「生きる意味」を探して生きている。私たちは毎日、物事に意味づけをしているのだ。

でも私たちの「ドラマティック本能」は時たま、自分を悲しくする。ポジティブなことよりもネガティブなことを大げさに捉える癖があって、マイナスな記憶は知らぬ間に記憶の中で変形されている。

「今年は史上、最も飛行機事故が少なかった」よりも「その中で起きてしまったたった数件の事故」の方をニュースも大きく取り上げる。そして、やっぱり「飛行機はこわい」なんて思ってしまう。

なんてことに気づかされた週末であった。話題のFACT FULNESSという本には、人間の10の本能と、いかに世界を偏った見方で見ているかが明快に記されていた。


そこでそのうちの一つ、「ドラマティック本能」について考えた。文章を書くことも、日頃の事柄を切り取って、ドラマティックにしているものだと思う。今書いている文章だって、「FACT FULNESSを読んだ」という事実だけでこんなにつらつらと書いている。

ドラマティック本能はおさえるべきというより、絶妙なバランス感が必要になってくると私は思う。

このバランスの取り方については、人それぞれだけれども自分の場合、「旅をすること」でバランスをとっていることに気がついた。

自分の認識をひっくり返されるような場所まで行くと、「いかに自分たちが物事を勝手にドラマティックに捉えているか」が分かる。

たとえば、パリジェンヌはいつも高級ファッションに身を包んでフレンチを嗜んでいるかといえば全くそうでないことが、フランスへ行くとわかる。なんでそんな「ドラマティックな」幻想をパリに対して抱いているのかも、なんとなく自分なりに気づく。そして、パリの本当の顔を知ってゆく。

南インドの小さな村にいたときも。二つの認識をひっくり返された。「家」というより「藁」の塊を目にしたとき。ここで、家族で暮らしているという。家という概念の認識が自分の中でわからなくなった。そして、そんな家に住んでいる彼らがいつも笑顔だということ。「貧困=暗い表情」という勝手な認識を恥じた。

そうやって、自分の「ドラマティック本能」に嫌気がさしながらも、お金を払ってでも、時には涙が出てきてしまっても、世界を正しく見たいと思うから、旅に出るのだと思う。ドラマティック本能に騙されずに見た正しい世界は、人を幸せにする何かがあると思うのだ。インドの小さな村で見た、笑顔のように。

それでいながら、日常の中でドラマティック本能を発揮すべき場面もある。冒頭でも書いたように、私たちの癖は「悪いことを大きく捉える」ことだ。良い変化はあまり目につかない。しかも、日々少しずつプラスな変化をしているものについては、残念ながら気づきにくい。

私はそういう、人間の気づきにくいスローでハッピーな変化にドラマティック本能を使いたい。今日はこんな英語を覚えた、こんなことで笑った、というようなほんの些細なことで。





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