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読書記録。~繊細な心を受け入れて~

『「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる「繊細さん」の本』
武田 友紀・著
飛鳥新社

高校2年生の時、私がHSPを知って、そして初めてTVで武田さんの解説を見ました。
それ以来ずっとこの本が欲しくて仕方がありませんでした。
そして書店のレジ横で偶然にもこの本を見つけ、どうしても欲しかった私は、
母と共有していたdポイントを勝手に使って購入してしまいました(真似しないで…) 。

何でも受け取る性格

とにかく場の空気が変化するのに適応できない。
教室で先生が叱りに来た時の凍り付いた雰囲気に、自分の身体まで強張って緊張する。
そんなことに気がついたのは、小学校高学年くらいの時でした。

その当時、担任の先生に「感受性が強い」と教えてもらったことをきっかけに、私自身が持つ感じる力の強さについて意識するようになりました。
でも、その時はまだ小学生。
感受性が強い=感じる力が強い=傷つきやすい=みんな優しくしてね という発想で止まっていたのです。

少しでも注意されれば、たとえそれが先生にとって「叱った」という感覚でないにせよ、私は自分の存在が否定されたと思い込んで泣いていました。
「そんな細かいところにつけ込むなんて、きっとこの人は私のことが嫌いだからそんなことを言うんだ。この人にとって私はダメなやつなんだ…あぁ私は要らない人なんだな」
といった感じで、次々とマイナス思考が飛び込んできます。

反対に、学校の先生にどんなに強い口調で叱られても、へらへら笑っていられる人の神経が理解できなかったのです。

HSP (Highly Sensitive Person) 、通称「繊細さん」は、周囲にある色々なものをすべてキャッチし、自分のものにして、そして全部を深く味わう性質があるとこの本では説明しています。

自分にとって「いいもの」を感じるのも「痛い・つらいもの」を感じるのも、同じ繊細な感覚です。
寒さ、暑さの一方だけを感じることができないように、繊細さんの感覚もいい者だけを抜き出して感じることはできません。痛みであっても心地よさであっても、遭遇すれば半自動的にキャッチしてしまうのです。
『「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる「繊細さん」の本』
p.25-26

その場の張り詰めた、緊迫した雰囲気は誰しもが不安になりますし、早く過ぎ去ってほしいと思うことだと思います。
それがいわゆる「非・繊細さん(「繊細さん」でない人・非HSP)」にとっては、「あぁ嫌だなぁ」と感じることだとしたら、
繊細さんにとっては、「この空気の中に包まれて過ごしたら、ストレスで神経のほとんどが削られそう…今すぐ避難しなきゃいけない状況で耐えているみたいな感じ」と思えてくる。
そんな空気なのではないかと私は思います。

もちろん、同じ繊細さんでも感じ方や得意不得意は異なりますが、私の場合はこうなのかな、と想像します。

キライを否定しなくても

私には、一生かけても好きになれないくらい嫌いな人の1人や2人くらいはいます。
それなのに、そうした人に限って私と距離が近い気がして、ストレスでいっぱいになることが多くありました。

嫌いなのに、その人と話す機会が多い。
それが嫌で仕方なかったのに、どうしてこの人とまた会わなきゃいけないの。
そうした不満と恐怖とでストレスいっぱいになったことも。

高校1年生の時、ある人と大喧嘩になったことがあります。
大喧嘩して以来、学校でその人の顔を見るだけで泣きたくなりました。
自分の言い分が分かってもらえなかったことにいら立ちと嫌悪感を抱きながら過ごしていたら、ある時お互いに爆発してしまったのが原因なのだと思います。
あまり円満に和解できないまま、時間だけが過ぎていきました。地元を離れた今でもその人の存在が怖いです。

それにしても、どうしてそこまで嫌いな人と会わなければいけなかったのだろう?
学校での仕事柄や立場の関係上仕方ない部分もあったにせよ、もっと物理的にも心理的にも距離を置くこともできたかもしれないのに。

それはきっと、どんなに嫌いになっても、どんなに拒否反応が出ても、「私はあなたのことが嫌いなの」という主張を通したかったからかもしれません。
そして、「私の差別的な嫌い方は道徳上間違っているから、嫌いだとしても説明がつかない」という思いが同時に存在していたから、その人との距離感が分からず苦しい思いをした。

あなたからしたらユーモアを込めて言った冗談が、私にとっては本気で嫌味を言われた気分だった。
それが積もりに積もって、あなたのことを嫌いになってしまったのが行動に出てしまった。
ただそれだけでいいのに。
それなのに、私はその人の差別的な嫌い方に引きずられたから何も言うことができなかった。
挙句の果てに、「(嫌いな理由は)ありません」と言うしかなく、「だったら(その態度は)やめようよ」と弾かれる始末。

その人との関係に完全な亀裂が走って、もう二度と元に戻らないのを実感しました。
取り返しなんてつきません。
それ以降、その人を見かける度に泣きたくなって、その人をますます避けるようになったのだから。

もし当時の私がHSPを知っていて、この本と出会っていたのならば、
差別や道徳上の間違いが起こりうるような事情が付きまとったとしても、嫌味が積み重なって嫌いになってしまったという思い自体を否定する必要は無いんだということが、とても勇気になったのかもしれません。

人生で、キライな相手と真正面から向き合うべき場面はそう多くはありません。キライな相手は避けていいし、可能ならその人の相手は誰かに任せる方が、お互い幸せな時間が増えるのです。
『「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる「繊細さん」の本』
p.109

嫌いなら嫌いでいい。
他の人が好きだと、いい人だと高く評価しようが私はその人が嫌い。
嫌いな人に生じる差別的な感情を、分かりやすく言葉にして相手に伝えてしまったらそれは良くないけれど、ただ距離を置いて、遠ざかって、もう二度と会うもんかと心に決めてしまう。
そうしていつかはその相手のことを忘れる。
そんなことができるようになったらいいなと思います。

もし私が、もっともっと早く(小中学生くらいに)HSPを知っていたら…と想像します。
でも、幼いうちからその存在を知っていても、その生きづらさや敏感さに引っ張られて、豊かな感受性や表現力といった長所までは気にかけることができなかったかもしれません。

そうなってしまえば、「私は敏感なHSPなんだから、もっと丁寧に扱ってよね!」と主張する、ただの「ファッションHSP」になり果てていたかもしれない。
「ファッションHSP」について私は、HSPを自称して周囲に無理な配慮を求める人、と理解しています。

そうして繊細な気質を活かす方法も知ろうとしないまま、自分がHSPであることをあたかもハンデのように扱う…そんな、もったいない生き方をしていたとしたら。

高校2年生のあの時、偶然にもInstagramのコミックエッセイでHSPを知り、色々な本を読んで、武田さんの解説に出会って、HSPを「いいもの」として捉えられる。
HSPを知らなかった幼い頃は生きづらくて大変だったかもしれないけれど、それはそれで仕方なかった。
今こうして、繊細な感性を活かしていきたいと思えるなら、それがいちばん良いことのように感じてしまうのはただの正当化かもしれません。

HSPを知ってからすぐに繊細な気質とうまく付き合えたかというと、今でも模索中の所があります。
大学に入学してからは、繊細な気質を抑圧しないと生き延びるのも難しいような、そんな気がしてなりませんでした。
でも、本当はそんな必要はなかった。
そんなことに気がついた話も、しようと思います。

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