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学習支援ボランティア歴10年、いろいろな回

Kacotamという団体で、学習支援のボランティアをやってそろそろ10年になります。時の流れ……。

今回は私の10年間のスタサポ・学ボラの中で、印象に残っている回をゆる〜く振り返ってみます。

スタサポと学ボラについてはこちら。

おしゃべりをする回

ある日のスタサポ。小学生の男の子。
「今日はこれをやる」と持ってきてくれたのは、学校から出された課題で、一枚のプリント。裏表でそれぞれ漢字と計算になっているやつ。

わからない漢字にはへんだけ書いてヒントを出しているうちに、漢字はできた。十分プリントは終わりそう。

「おお、おしゃべりする余裕あるな〜」と思っていろいろと話をした。

すると、「地震がまた起こったらイヤだなあ」という言葉が出てきました。胆振の地震から一年後くらいだったかな。

「ほんとにね〜」と話を聞いていくと、その子がすごく地震について詳しすぎるくらい知っていることがわかり、いろいろなことを教えてくれた。私が知らない北海道の活火山とかも知ってた。

「え、なんかすごく詳しいね」
「怖いから調べたの」

なるほど、怖いから知ろうとしたのか。

休み時間になって、私のiPadでさらに他の火山についても調べたりしてみる。そこから日本に活火山はどれくらいあるかなど、浮かんできた疑問に沿って一緒に調べていった。

「待って計算やってないよ!」
「あ、やべ!」

と終わり間際に慌ててプリントを終わらせた。

なんか、プリントを終わらせることも大事だったんだけど、怖いことを調べて、どうして地震が起こるのかを知ろうとして、って「怖いこと」に対して最善を尽くしているなって思って。

それでも「怖い」なら、あとは誰かと「怖いって気持ちを共有する」しかない。

お友達でもいいかもしれないけれど、その「怖いもの」について正しい理解をしている大人と一緒に、っていうのもまた違う面がある。

でも、改めてそういう時間ってなかなか持てないものですよね。

ちなみに、こういう「怖い」という話題は、ミサイルが飛んでくるようになり始めたときや、ロシアで戦争が始まったときにもあった。

おしゃべりしていると「勉強しなくていいのかな〜」なんて気持ちにこっちが勝手になっちゃうときもあるんだけれども、子どものペースに合わせてみると、出てくるものがあるときもある、という回。ないときもある。

何もやることがない回

ある日の学ボラ。小4〜小6までの女の子たちが数人いたときのこと。

なんと全員「やることないよ〜」とのこと。

おう……どうしよ……と思っていると、「漢字ならやってもいいよ」「私は算数がいいな〜」と言われて「よしわかった……私が、問題を作ろう!」と言ってルーズリーフと筆記用具を出す。

貸してもらった教科書で、漢字の問題をささっと作る!
次は算数の問題をiPadでサイトを見ながら写す!

私が問題制作マシーンとなり、あとの人は子どもとプリントを解いたりプリントを待つ間にお絵描きをしたり!

だがしかし……みんな解くのが早い!

「学年上の漢字入れてもいいよ〜」と言われて難しめの読みもさりげなく入れてみるがすぐに攻略される……!
「図形がいいな」と言われて、複雑な図形を描くが線が歪む歪む!

「待って、⑦の次に⑩があるよ」
「□の横に何も書いてないよ、なんていう字書けばいいの?」
「ねえ、花だんが2cmになってるけど」
「もう許して〜!!!!!」

この日、腕が死んだ。
そしてありがとう、やまぐっち子学習プリント

なんだか必死にプリントを作っている大人を目の前にすると、やってやってもいいかな、という気になる、という回。ならないときもある。

苦手な教科をやる回

「英検を受けるから、二次試験の練習がしたい」

中学生にそう言われた。
おっと。自分……英検、持っていない。試験を受けたこともない。二次試験って面接やるんだっけ??謎……。

なぜなら英語が嫌いだったからです……。

英検のテキストを見せてもらって、二次試験の流れはわかった。でもテキストは「これは直前にやりたいから今はやりたくないな」ということ。そうかあ。

というわけでiPadで検索してみたのですが、サーチの結果を押したらYoutubeに飛んでしまった。

慌てて戻ろうとしたけれど何やら二次試験の流れを説明したり、例題をやってくれている。質問されたところで止めれば答えを言う練習になりそう。

「これ見たことある?」と聞いたらYoutubeで動画は見るけど、勉強のものを見ようとしたことはなかった〜ということ。

というわけで、ふたりで動画を見て練習をしました。

勉強系の動画って、家でひとりで見ていると集中が続かないこともあるけど、誰かと見て「これってこういうことだよね?」と確認し合えば効果的に使える、という回。

わからない教科をやる回

高3に今日は私が担当だよ、と言うと「次の中から選んで」と言われました。

「1、カンタン。2、ちょっと頑張ればいける。3、すごく頑張ればいける。ちなみにオススメは2」
「え、なに?じゃあ2で」
「2ね。今日は『簿記』をやりま〜す

1だと私が得意な数学、3だと私ができない化学をやるつもりだった、と言われる。
Kacotamに慣れている子はメンバーを見てやる教科を変えたりもする。でもなるべく今必要だ!という教科をやってほしいので、「オススメ」を選んだのは正解だったのだと思ったのけど、簿記……!?
未知。

「はい、これを解いてね」と言われて、問題集と教科書を渡されます。

借方と貸方っていうのがあって、左と右に配置されています。

「超ざっくり言うと、方程式みたいに左右でそろえなくちゃいけなくて、借方には資産の増加とか、貸方には負債とか収益の発生とか……」
「???」

左は「なんか嬉しいもの」右は「なんかイマイチなもの」と理解した私は、「現金」が出てくると全部左に書き始める。

「違う違うなんで左側に書いたの!?」
「だって現金は嬉しいじゃん…」
「それ税金だから!税金嬉しいの!?」

その後も「繰越利益剰余金……漢字書くのだるい〜!」などと愚痴りつつ、子どもが解答を持ってヒントを出しつつ「次は難しいよ」「ひっかかってるね〜」と言われ、完全に子どもとメンバーの立場が入れ替わって時間が過ぎる。

高3はいい笑顔で「めっちゃ楽しかった」と言って帰っていったのですが、ここまで書いて、あれ、なんで私の方が問題を解いているんだ???

「あ、これこうやるのか〜」という呟きも聞こえてきたので、まあいいか。

一緒に考えたり、教えてもらったりして、教える立場になったことにより、気がつくこともたぶんある、という回。

ごはんがおいしい回

ある年、冬期講習を行ったときに朝ごはんと昼ごはんを料理が上手なメンバーが作ってくれたことがあった。

これがすごかった。まず朝ごはんにおにぎりが2種類あって、しかも具が毎日違う。昼ごはんはオムライスやハヤシライスやカルボナーラで、何もかもすごくおいしい。

正直、子どももメンバーも勉強ではなくごはんを食べるために行ってた。

一度アジアっぽい味付けのおにぎりが焼かれてたことがあって、「どうやったの!?」と聞いたら「え、フライパンで焼いただけですよ」と言われて驚愕した。

だって、朝のおにぎりなんて効率しか求められてないものに焼くという一手間を加えるなんて!

どうしてそんなことができるのかと驚いている私に向かい、そのメンバーは困惑しきった表情で一言、「だって、その方がおいしいから」。

すごい、愛だ……。

と、あんまり自炊に価値を見出せなかった自分はショックを受けたものでした。影響を受けて、しばらく毎日自炊するようになったくらい。今はできるときだけだけど、ちょっとこの時期にレパートリー増えた。

スタサポではごはんを出してくれるところもあり、管理栄養士を目指すメンバーの子たちが作ってくれています。
キッチンに鈴鳴りに並んで今日のメニューなに〜?と大合唱していた子どもたちの姿が思い起こされます。

食事提供で出たタンドリーチキンがおいしすぎて家でも頻繁に作るようになったり(作ってくれたメンバーの子に後々お礼を言ったが本人作りましたっけ〜?と覚えてなかった(笑))、風邪引きそうなときには食育で教えてもらった豚肉を食べたりするようになった。

子どもたちだけでなく、メンバーからも影響を受けている、という回。

悩ましい回

「小学校で髪を染めている子がいる」と憤慨した感じで言われた。

許せなかったのかもしれないし、ただ事実として述べただけかもしれない。その髪を染めてる子に対するネガティブな感情を表す言葉がそれしかなかったのかもしれないし、それを認めている学校に不満があるのかもしれない。

私は「あー、ダンスしてる子とか染めてるよね」と言ったのだけど、言ってしまってからこれは違うな、と思った。
染めたいなら染めたらいい。でもその発言者が「髪を染めてる」に対して感じてるなんらかの感情まで否定したくなかったから、なんだか中途半端な発言になった。この言い方だと「ダンスしてる子は髪を染めてるもの」という決めつけになりかねないし、「ダンスしてる子はいいけどそれ以外はどうなんだろう」みたいだ。

「中学校には校則があるから、今のうちに染めて楽しんでるのかもね」
「校則?ってなに?」
「学校のきまりだよ」
「じゃあ中学ではダメなんだ」
「うん、でも最近はそのへん議論されてるからもしかしたら中学でも良くなる日も近いかもね」
などと付け加えた。

そこで会話は流れたんだけど、自分の中でなんとなく「うーんやっぱり違う」という気持ちが抜けない。

こういう話をするとき、「自分はこう思う」じゃなくて「世間一般はこう」という言い方に逃げがち。そのへんが自分に自分で不誠実だなと思う。

いろいろ考えたんだけど、「自分の見た目を自分で決めるのはその人の自由だからいいんじゃないかな」あたりが一番自分が言いたいことに近い気がする。人権。

ただ、子どもたちたまに強い言葉で容姿を批判する言葉を言うときがあり、それって対象の容姿を貶めたいだけではないときがあると思う。
なんというか、何か不満はあるが、それしか言い方がなかったというか。
強い言葉を使うことで発散しているというか。

だからそんな言葉使うのはよろしくないな〜と思うときでも、それをそのまま「あまり言いなさるな」と言っちゃうと「そういうことじゃない!」となる、ときが、ある。
とはいえそれらの言葉を聞いて傷つく人がいるかもしれないことを思うと、ただ肯定するわけにもやっぱりいかない。

先日、子どもから「色白だね、うらやましい」と言われて咄嗟に「えー白くないよー!」と謙遜した態度で言っちゃったんだけど、これも後から反省した。
私自身が「色白が至高!」というルッキズムに染まってるのではと思ったのだ。

そういう態度で話せばやっぱり白いのだけが良いことなんだ、と思わせかねない。

例えば太っている人の話をされて、それが悪口レベルだなと思い、しかし諌めてもどうにもならぬと思ったときに、まあ私も大概太っている、という笑いにして終わらせてしまおうとしたり。
困ったときに自分を貶めて全て有耶無耶にしてしまおう、と逃避しちゃうときがあるのだ。ちゃんと向き合ってない。自戒。

些細なことかもしれないけれど、自分の言動を考えてしまう、という回。

最後の日の回

学ボラで、中学、高校計6年間ずっとひとりの子を見てきた。
コロナもあったが、一週間に一度行っていたので、何もやることがない回もあった。

よく覚えてるのは三題噺。
お題をお互いに考えて紙に書いて折り、ぐちゃぐちゃに混ぜてそれぞれ3つ引く。制限時間5分ほどで、それらのお題を入れた原稿用紙一枚分のお話を書くのだ。原稿用紙には限りがあったので、400字以内でないといけない。

そのとき書いた私の作った話がこれ(お題は七夕、海、テレビ)とこれ(お題は動物園、地球、ビンゴ)である。なんとなくもったいなくてあげておいたのだ。

高校受験のときには不安がって週に3回来てくれと言われたこともあったが、大学受験のときにはなかった。成長を感じた。いや、私が大学受験に関してあんまり役立たなかった可能性もある(笑)。

最後の日、昔何もやることがない日にこんなことしたね、という話で盛り上がった。

帰り際、「またね」と言われた。なんとなくはっとした。

また会う手段などあるかは不明なのだけど。

なんとなく私はこの学習支援のボランティアを、駅の車掌のようなものだと思っていた。子どもたちはたまたまこの駅に立ち寄っただけ。私たちは勉強を教えたりして、彼らの力がついたら送り出す。そしてまた別の車両を迎える、と思っていた。

でも、この子にとって私は同じ車両に乗ってた乗客なんだ。ここで私は車両から駅に降りるけど、また同じ車両で鉢合わせることもあるのかもしれない。

車掌と乗客にいかほどの違いがあるのかと言われると難しいのだが、とにかくそう思ったのだ。

区切りのようで区切りではなかったかも、という回。

以下は寄付のお願いです。
余裕がございましたらぜひ。


なお、複数の記憶がごっちゃになっていたり、プライバシーに配慮したり、読みやすくしたりしています。あしからず。

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