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お釈迦様の教えは死ぬ準備でなく生きるため

遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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「終活」という言葉は週刊朝日で作られた言葉と言われていて、Wikipediaを見ると「人生の終わりのための活動」と書かれています。

お寺や仏教についても、皆さんは終活のイメージが強いようで、亡くなった後の葬儀や年忌法要をイメージされ、誰かが死んだ後に関係するところと思われています。
そのため、お寺に来るように誘っても「まだ若いから」「まだ元気だから」と言われます。
そして年齢を重ねると、「もう行く体力がない」「膝が痛いので行けない」と言われます。

生きているうちには自らの意思でお寺に来られることはなく、亡くなってお骨になってからお寺に来られるのはこちらの本意ではありません。

そもそも仏教を開かれたお釈迦様がなぜ王子の地位を捨てて、修行者となったのかといえば、苦しみがいっぱいあるこの世界で「どう死ぬ準備をするか」ではなく「どう生きていくか」を考えるためです。

そのことに関しての有名なエピソードが「四門出遊」と呼ばれるものです。

ある日、お城の外の様子を見ようと王子であるお釈迦様が家来を連れて、お城の東西南北4つの門から出かけることにしました。
最初に東門を出ると、腰が曲がって歩くのもおぼつかない老人に出会いました。
お釈迦様が家来に「あれは何者か?」と尋ねると「あれは老人です。全ての人間はいずれ老いて、あのようになります」と答えました。
お釈迦様はお城に戻って塞ぎ込んでしましました。

次に南門を出ると、道に倒れた病人で出会いました。
お釈迦様が家来に「あれは何者か?」と尋ねると「あれは病人です。全ての人間はいずれ病にかかって、あのようになります」と答えました。
お釈迦様はお城に戻って塞ぎ込んでしましました。

次に西門を出ると、お葬式に遭遇しました。
お釈迦様が家来に「あれは何者か?」と尋ねると「あれは死人です。全ての人間はいずれ死んで、あのようになります」と答えました。
お釈迦様はお城に戻って塞ぎ込んでしましました。

全ての人が最後には、老いて、病んでり、死んでいくのならば、人間は何のために生まれるのか。
生きていることが意味がないのではないかと悩みます。

最後に北門を出ると、出家した修行者に出会いました。
お釈迦様が家来に「あれは何者か?」と尋ねると「あれは修行者です。どのように生きていくのかを考えて修行しています」と答えました。
粗末な身なりでしたが、穏やかな中にも凜とした表情があるのを見て、お釈迦様は出家を決意されたと言われます。

お釈迦様は後に悟りを開き、自分に縁ある人々に教えを説いていかれます。
つまり縁ある人々が生きている間に、どう生きるべきかを説いていかれたわけで、死後の葬式や法要をしにいったわけではありません。

そう考えると、お寺へは生きている間、元気な間に来ていただきたいと思います。

私たち僧侶の法話などは死についての話題が多いかもしれませんが、それは老病死を自覚しながらいかに「生きていくか」を考えていただくためです。
そして、説いた話を生きているうちに実行していただきたいと思います。

そう考えれば「終活」は「人生の終わりのための活動」ではなく、「終わりを見据えて今をどう生きるか」考えるための活動ではないでしょうか。
「何歳になったら終活を始めればいいですか?」とよく聞かれますが、今を充実して生きるために行うのですから「今から」始めていただきたいと思います。

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