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のぞみはありませんが、ひかりはあります

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「蓮如上人御影道中」という行事があります。

福井県あわら市の吉崎御坊で毎年4月から5月に行われる御忌法要に合わせて、京都駅前の東本願寺から蓮如上人の御影をお迎えするため、蓮如上人が歩いたといわれる約240キロの道程を、僧侶である随行教導や、宰領供奉人の方が蓮如上人の絵像と共に歩む仏事として、300年以上の間、連綿と続けられています。

新型コロナの影響で、2年前は寺院へのお立ち寄りがなく、車で直接東本願寺から吉崎御坊に行かれました。
昨年は、徒歩ではなく車で移動されてお立ち寄りされました。
今年は久々の徒歩による道中となっています。

御影が到着して、御門徒の方と一緒に勤行をし、教導の太田浩史師からご法話をいただきました。

先生は当寺の宝物である「南無不可思議光如来」の掛軸を元に、「真宗と光」についてご法話をいただきました。

心理学者で文化庁長官も務めた河合隼雄さんが、新幹線の切符売り場で「のぞみはありませんか?」と尋ねると、駅員から「のぞみはありませんが、ひかりならあります」と言われた逸話があります。
河合さんが思わず嬉しくなって『望みはないけど、光はある!』と大声で繰り返してしまったら、駅員さんが「あっ、こだまが帰ってきた」というオチです。

河合隼雄談

駅員さんは、「本日ののぞみ号は終わりました。ひかり号ならまだあります」と事実を述べただけなのですが、河合さんはその言葉に深い意味を見出されたというのです。

これを真宗で最近よく法話のネタにされていて私も聞いた事があります。
自分から出てくる「のぞみ」というものが色々な事情で尽きていっても、私を照らし続けてくれる「ひかり」はいつまでもある、という話になります。

今日の教導の太田先生も、御影道中に参加するにあたって色々なのぞみがあったが、昨日には尽きてしまった、とおっしゃっていました。
昨日はまだ二日目ですが、既に足がつったりまめが出来たりして、事前に思っていた事など吹き飛んでしまったとのことです。

私たちは自分や自分の思いを基準にして、今後の自分にとって都合の良い未来を思い描き、それを「希望」「のぞみ」と言っています。
私にとって都合が良い事は他人にとって都合が良いとは限らないので、対立や矛盾が起きますし、実現しない事もあります。
そして、実現できなかった事が増えてくると「のぞみがない」と言いますが、単に私の都合良い未来がやってこなかっただけです。

しかし、どんなに私の都合が満たされなくても、私という存在を見続けて、私を否定しない存在があり、それを浄土真宗では阿弥陀仏というのです。
すごく軽く言ってしまえば「何があってもそばにいてくれる」のです。

よく芸能人がお金に困ったり、犯罪を犯して刑務所に入ったりして、後日インタビューに答えているのを聞くと、「私の状況が悪くなると、みんなサーッと私の周りからいなくなった」という話をされます。
そんなことがあっても、何があっても、私を見捨てないのが阿弥陀仏なのです。

見捨てない存在があるからといって、成功したり、幸せになるわけではないでしょう。
しかし、いつまでも私を見てくれている存在があると思えば、最後の最後まで努力をするし、そういう人は往々にして社会的にも成功する確率が高いと思います。

成功者はメンタルが強い人が多いと感じます。
メンタルが強い人というのは、私から出てくる思いがくじけていく事をやむを得ないと感じ、それでも私を照らし見続けてくれる存在があるから孤独ではない、と感じれる人なのではないか、と感じたご法話でした。

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