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情報には私がいない

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私のお寺が所属する真宗大谷派では、今、「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」が開催されています。

坊守である可愛い可愛い妻と二人でお参りに行ってきました。
早めに行って、今回の法要のために企画された桂小春團治さんの慶讃寄席「親鸞で行こう」を聞いて、午後からの法要に参加しました。

法要の最後は、在家信者の方の感話と僧侶の方の法話でした。

感話は、ボーイスカウトの会場であったお寺との出会いから、奥様が若くしてガンで亡くなられ、お寺を葬儀場として使われ、生老病死の舞台としてのお寺があった、というお話でした。

法話は、福島県浪江町のお寺の方のお話で、東日本大震災の後、自分は再建できないと思ったお寺であったが、御門徒の皆さんが生きていくための自分のアイデンティティの拠点としてお寺やお墓が必要であると再建されたというお話でした。

いずれのお話でも、よく法話で語られる「生老病死」が私や私のすぐ近くで起きて、私自身の問題、「自分ごと」になった体験を語られた、と感じました。
病気で若くして奥さんが亡くなる、自然災害や大規模事故で今いるところに住めなくなる。
いずれもお話としては「あり得ますね」と誰もが言います。
しかし、自分にそれが起きるとは考えておらず「他人ごと」です。

生老病死は誰にでも起きることだと頭の中の「情報」として受け止めると、その中に私がいません。
法話で話される生老病死を聞いて、身近な人が亡くなったかのように感情が動くと「物語」となり、登場人物の一人として体験します。

とは言うものの、そんなに容易く「体験」できるなら、誰でも俳優になれてしまいます。「人は誰でも死にます」と言われて、自分の最後の瞬間を想像できる人はほとんどいません。

だからこそ仏教経典は逸話やたとえ話にあふれた内容になっているのだと思います。
物語の要素を持たせて、自分がその経典の話の中に入りやすくしてくれているのです。

昨日の感話や法話を聞いて、「情報」として「いい話だったなぁ」と受け取って「他人ごと」にするのか、自分をその舞台に投影して「自分ごと」にするのかで受け止めが変わる、と感じました。

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