アンドロイドは食べものの写真の夢を見るか?

 SNSを初めて以来、家族と食べ物のネタはやらないというのポリシーにしてきた。
 家族の話は、その話の内容が面白ければ書くこともあるが、誰が言っても面白いだろうものしか話題にしない。だから、その場合は「家族」のネタというわけでは決してない。
 当然、インスタグラムで食べものの写真を上げるなど、絶対にしない。

 どうしてそんなポリシーを持ったのというと、単に家族のネタとかおいしそうな食べものの写真のアップは、自分の周りでみんなやってることだから、別に自分がやんなくていいよなあってだけ。他の人と同じことはしたくないのだ。ポリシーっていってもその程度のものに過ぎない。

 その些細なポリシーに従い、料理を食べた後の食器を写真に撮って上げようと思ったこともあったが、そう思った途端に店員さんに食器を下げられてしまい、その試みは未然に終わっている。
 ただ、食べ終わった後の食器って、決して美しいものでもないなあとも思った。考えてみれば、わざわざSNSで公開するほどのものでもないような気もする。その意味では、店員さんの素早い対応に救われたのかもしれない。


 そういうわけで、ポリシーっていっても大したものじゃない。単に他の人と同じことをしたくないという、子どもっぽいこだわりに過ぎない。
 でも、よく考えると、僕はそんなに食べものにこだわりないかもなあとは思う。もちろん、どうせ食べるならおいしいほうがいいけど、例えば昼飯にカップ麺が続いても、晩飯がイオンのお惣菜の類でもぜんぜん平気。どちらもそこそこおいしいと思うし。

 自分にとっては、何を食べるかよりも、何かの「意味」の方がはるかに大事だった。自分の存在する意味とか、世界の意味とか、芸術作品の意味とか。
 だから、という接続語が適切なのかどうかわからないけど、食べものそのものの内容よりは、誰と食べるかのほうがずっと大事。さらに言えば、食事を共にしていいと思う人と実際に食事をしたという事実の方が、数十倍も数百倍も大事だ。食事に「意味」があるとしたら、何を食べたかではなく「その人と食べた」ことのほうがずっと大きいと思うのだ。
 その上で、どうせ食事を共にしていいと思える人と食べるならおいしい方がいい、くらいの認識でしかない。食べものそのものにこだわりがあるとはとても言えないだろう。

 いやそうではない、大切な人と一緒に食べたものを、きちんと記録に残したいのだ。そう言われるかもしれない。僕自身にはそういう欲求も習性もないけれど、そういう心情はわからないではない。
 でも、繰り返すけど、僕にとって重要なのは、一緒に「何を食べたか」ではなく、食事を「その人と共にした」という事実のほうなのだ。だから、極端に言えば、何を食べたかはどうでもいい。
 もちろん、そういう人と一緒に食べるものであれば、おいしいもののほうがいいだろうと思う。けれど、それは写真に撮って残すような見栄えのものでなくていい。ブルボンのアルフォートあたりで十分だ。てかアルフォートおいしいよ偉大だよ。刑務所の中でも出てきたんだよ。いや、僕が入っていたわけではなく、そういう映画があったんだよ。

 食べたものは写真に残せるけれど、一緒に食べた事実は、写真に残すのは難しい。その人と食卓を囲んで写真を撮ればいいのかもしれないけど、そういうことをしたいわけじゃない。一緒に食事をすることは、別にイベントじゃない。
 そもそも、一緒に食事をしてもいいと思える人と食べたものは、あまり公開したくならない。もちろん、食卓を囲む写真についても同じ。なぜなら、それはとても大切なものだからだ。
 大切なものは、できればひっそりと隠しておきたい。



 あ、そこまで考えてポリシー定めたわけじゃないです。それはまた別の話。

 ただ、それとはまた別に、覚えてるんですよね、食事をともにしていいと思える人とした食事のことは。それがいかに幸せな時間だったかということを。食べたものは詳しく思い出せなかったとしても。
 それは多分、相手の表情を覚えているからだと思うのだけれど。

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