やり過ごすこと、そして自己紹介みたいなもの


 私は自己紹介を書くのが得意じゃない。

 別に尖った特技があるわけでなく、ドラマチックな人生を送ってきたわけでもない。仕事と趣味と適当に好きなものを並べるだけだ。それをうまいことやるが自己紹介ってやつなのかもしれない。でも、どうやってそれをうまくしたらいいのか、よくわからない。
 それでなくても、自己紹介ってものは、自分の見せたい自分をアピールするものだろう。だから多分に戦略や演出が頻繁に行われる。もちろん、それが間違っているとは思わない。ただ、自分にはどうやっていいかがよくわからないだけだ。

 たぶん、私にとって書くということは、何かを伝えることであるより、もっと別の意味を持っているからだと思う。それこそうまく伝わらないかもしれないが、内容より形式の問題なのだ。……やっぱり伝わりづらいか。

 

やり過ごす行為

 私には妻が一人いる(二人いても個人的には構わないのだが、そうは簡単にはいかない)。もともと読書家だった妻は、ある時から短歌を詠むことを始めた。

 本人は、短歌を詠むことを「現実をやり過ごす行為」と説明している。

 現実の中で日々生きていると、なんでこうなるんだとやりきれない思いになることが多い。どんどん自分がすり減ってゆく。そうした現実で生きてゆくために、なんとか「やり過ごす」行為が、彼女にとっては短歌なのだそうだ。妻曰く、多くの人がそうやって「やり過ごす」行為を行っている。例えば弁当作りにこだわってみたり、例えばマラソンで汗を流してみたり。もしかしたら、ここで文章を書く行為も、彼女にとっては「やり過ごす」ことに映るのかもしれない。
 ただ、短歌であれ弁当であれマラソンであれ、そうした「やり過ごす」行為は、現実と無関係なことをして現実を忘れる行為なのではなく、現実から離れることで現実を理解するための距離や形式を保つことなのではないかと思うのだ。

 

大事なものだから、突き放して、形にする

 ちょっと迂回して、昔見た映画の話をしよう。

 タイトルは失念してしまったが、知的障害を持った青年を主人公としたドキュメンタリー映画をみたことがある。いささか自分の欲求に忠実に過ぎるその青年は、自分が見聞きした「だいじなもの」をホワイトボードに書く習慣があったのだが、それがものすごくアーティスティックだったことを鮮烈に覚えている。
 彼が言うところの「だいじなもの」は、私の言葉で変換することを許されるならば、おそらく彼にとっての世界そのものだ。彼は常に、彼に見える世界を彼なりのやり方で理解しようとしていて、理解する術としてホワイトボードにそれを書くという形式化の作業を続けていたのだと思う。描かれたものが芸術的に見えたのは、それが彼にとっての世界そのものだったからであり、それが形式化されることで私にも伝わったからなのではないだろうか。

 私の妻が短歌を通して行っている「やり過ごす」という行為も、これと似たような部分があると私は思っている。

 現実の中で出会う人間をすり減らす様々な出来事は、ほとんどに人にそれとして明確に理解できるものではない。まず、すり減ることが先に来て、その後にそれがどういうことだったかわかる、という順序で人は物事を理解してゆく。理解できるようになるためには、その対象が一定の境界によって区切られている必要がある。境界のない曖昧なものは、境界がないためにうまく理解できない。
 言葉にするということは、その対象との距離を保ち、対象に形を与える上で有効な手段の1つだ。私の妻が短歌という形で言語化しているものは、自分をすり減らす現実の様々なあれやこれやに言葉を与え、自分と対象の距離を取ることによって、自分に理解できる形式を与える作業なのだと思う。そうすることによって、自分をすり減らす現実から自分を守っているのだ。

 弁当であれマラソンであれ、似たような部分があるんじゃないかと思う。それは現実を忘れるためにやるというより、生存に必ずしも直結するわけではない作業をあえて行うことで、「生きる」ということをより確実に理解して掴もうとしているのではないかと思うのだ。

 要するに、人は世界を理解したいのだ。おそらく、人間が生きるということは、理解するということなのだ。人の行う「やり過ごす」行為は、辛い現実を理解したい、理解することで現実から受ける痛みを遠ざけたい、そういう思いに支えられているのではないかと思う。
 芸術はそういった営みの代表だ。ドイツの文化相の大臣は、芸術を生命維持に必要なものと述べたが、私はほんのすこしだけ違う考えを持っている。むしろ、生命の維持とは別の次元にあることで、生命を持つものがどういった存在なのかを理解するもの、それが芸術なのではないかと思うのだ。


隙間から垣間見えるようにしか

 私が自己紹介が苦手なのは、自分を理解する上で必要な自分との距離感を、未だに持つことができていないからなのだと思う。
 自分が自分と距離を保つためには、例えば言葉のようなものを介在させなくてはならない。短歌を詠むように、何らかの技術を介在させなくてはならない。だが、残念ながら、私は短歌のような言語技術を持っているわけではない。もちろん、このように書くということそのものが距離をとる作業ではあるのだが、黙っていても何かが思い浮かぶほどクリエイティビティにあふれた人間ではない。

 だから、例えば様々なものを観たり読んだり聴いたりすることが、自分を理解して、自分を形にする上で必要になってくる。自分と関わる、自分とは異なるものたちの存在が必要になる。
 私が自分のことを伝えるとするのであれば、そのような物事との格闘の結果を、なんとかして言葉にすることでしかできないのではないかと思う。そういったもがきの末に出てきたゴミのような言葉の隙間から、結果として私の何かが見えてくるという形でしか、自分を伝えられないのではないかと思う。

 だから、まずは、もがいてみよう。

 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?