すずめのお宿、ハトのねぐら、そして少々の自分のこと

 最近、家のそばのアパートには、スズメたちがやたらと出入りしている気配がある。時間帯にもよるが、やたらにその周囲ではちゅんちゅんと声がする。どうも、ベランダの上部の隠れたところに巣があるような気がしてならない。ヒナとかいないかなあと思っているのだが、何せ人の家の窓際のことなので、あまりジロジロ見るわけにもいかないのが残念なところだ。
 ともあれ、近場に巣を作るのがカラスだと面倒なことになるが、スズメだとかわいいのでそれはそれでいい。ごめんよカラス。いやスズメが巣を作ってるのかどうかもわからんのだけどさ。

 スズメって、本来人間が住むところに巣を作る鳥ではないと思うんだけど、自分が生きられる環境を見つけてきちんと生き延びているわけだ。実にたくましい。生きるというのはそういうことなのかしれない。


 本来人間が住むところに営巣するものではなかったけれど、やたらとベランダに住みたがる鳥として有名なのは、ハトだろう。「ハト、ベランダ」で検索すると、まあ色々や情報やら体験談が出てくる出てくる。
 実を言うと、マンションの比較的高い階層にある我が家も、何度かハトのねぐらにされかけたことがある。ベランダの奥まったところに、ちょうどハトにとって都合のいい場所があったようなのだ。
 いや、ベランダで寝るくらいなら別に間貸ししてあげてもいいのだが、やつらはそのお礼として目一杯ベランダにフンを残していく。それはさすがにちょっと困る。そのたびに掃除しないとならないのは骨が折れるし、面倒だからと放置すると病気の原因になるケースもあるらしい。そして何より見た目がよろしくない。
 しかも、ハトの皆さんは寝床として認識すると、今度はそこで子育てを始めたりするらしい。それについても、ヒナかわいいだろうなあとか想像して、ベランダの隅っこくらい貸してあげてもいいかなと一瞬思ったりもするのだが、やつらが安心してぶりぶりとフンをしまくると思うと、悲しいかなかわいいとは言っていられない。

  そんなわけで、ハトがベランダで寝ているところを発見すると、申し訳ないがちょっとびっくりさせて退散してもらうことにしている。いやほんとにフンさえしなければ寝にきてもいいんだが、残念ながら相手はトリなので、人間の事情を考慮してもらうことは難しいだろう。「フンは別のとこでするから、お願いだから夜の間だけ寝かせてよ、頼むよ」とか言ってくれれば、交渉のテーブルにつくこともやぶさかではないんだが、それは期待できないだろう。残念ながら相手はトリなので。

 ほんのすこしだけ罪悪感を覚えながらハトを追っ払い、それでもなんとか生き延びてほしいなあと勝手ながら願っている。
 でも、人間の都合なんて考えず(考える頭もないのかもしれんけどな、トリなので)、自分にとって都合のいいところをなんとか見つけては生き延びていくハトは、それはそれでたくましさを感じたりもする。そうであれば、僕が多少追っ払ったところで、なんとか生きていてくれるだろうと思ったりもする。そうであってほしい。


 彼らを見ていて、そして自分のことを振り返って思うに、生きるってことは、どこかで人の都合を黙殺したり、それを考えずに済むようなエクスキューズを見出したりして、人の領域に合法的に侵入していくことなのだろう。環境が変われば変わったで、新しく自分に都合のいい場所を見つけ出し、他人の都合をいちいち斟酌することなくそこを確保することなのだろう。ハトやスズメがそうしているように。
 このように表現すると、生きることが罪悪であるかのように見えるかもしれないが、そういうことを言いたいのではない。多分現実を生きる上で、そのような侵入行為は不可避なものであり、生きるとは自分自身をそのような立場に追い込むという、ある種の覚悟が必要なことなのだ。他者の領域を侵すことを受け入れ、そうすることで相手から恨まれる確率をどれだけ低くすることができるのか。どうすれば他者の領域を侵すことによって起こる争いを未然に防ぐことができるのか。あるいは、争うことそのものを受け入れ、自分や他人を傷つけることを覚悟するのか。そういったことについて、きちんと正面から考えるということ、それが現実を生きるということなのだ。

 僕は、そういう形で現実を生きることが得意ではない。
 どうして、他人の領域に踏み込むことを躊躇してしまう。それはどんな場合でも、やってはいけないことだと思ってしまう。だから、交渉するということがうまくできない。
 なんとか、そういうこととは正面から向き合わずに生きていく方法はないかと考えていた。けれど、「生きる」ということが結局のところ常に人との関わりなしにはできない作業である以上、どこかでその壁にぶつかってしまう。

 だから、現実は、僕にとって遠くにある。
 ハトやスズメは、おそらく今日もきちんと生きている。僕にとってはとてつもなく難しい作業をやすやすとこなしているように見える。小賢しいことを考えることもなく、ただひたすら純粋に。それはなんと素晴らしいことだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?