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芻人(R-18)【後編】



 良き道は必ず古道に通じ、古道は必ず宿場に通じる。

 視界に田畑のあるうちは、畦道を照らす街灯すら心強かったのが、田畑が切れると道の両脇からたちまち深い藪がのしかかり、街灯も間遠でまったき闇に取り巻かれる時間が長くなった。雨風とは別に樹冠が時折騒ぐよう。勾配もいよいよきつくなり、いつか舗装路ではなくなっていた。自分の荒い息遣いにこそふと驚かれるのだから、世話はない。

 そんなふうに歩き続けて、次の街灯まで、次の街灯まで、と音を上げるのを先延ばしにしていると、やがて恩寵のように勾配が緩やかになり、藪が途切れてかしこに大岩の露出する土地になり、街灯もなく、周囲の山々の魔のような黒さに囲繞されて、見上げた先はまもなく峠、そこに要塞のようにそびえる建築物の巨大な影が藤内を脅かした。

 峠の道の両側に、連子格子の戸を閉てる旅籠風の木造二階家が三、四軒と連なって、最奥の一軒の手前に置かれた御霊燈ばかりが夜闇を照らした。両の軒先から雨樋を溢れ、道へ滝のように水が落ちる。幸い旅籠に挟まれた道は石畳になって、泥を避け跳ぶようにしてそれを伝う。

「遠いところを、こんな遅くにわざわざ……」
 玄関に出迎えて深々と辞儀をする黒無地に五つ紋付きの年増こそは、牧子当人であることを藤内は遅ればせに気がついた。肩と腰まわりに肉がつき、五十になんなんとする女の貫禄というものを避けようもないが、化粧らしい化粧をほどこさない顔に童女の面影がかえって浮き立つようで、それはそれでこちらの劣情をくすぐらずにはおれない色気というものだった。

「このたびは……」
 言いかかって、三和土に靴が一足もないのを藤内はいぶかった。傍の下駄箱を見ても家人の履物のほかはないようである。
「客人は、わたしひとりでしょうか」
「夜伽は、妻ひとりでするものです」
 そう言って、かすかに笑った。

 奥座敷に案内すると、牧子は向き直り、棺と祭壇を背に、改めて膝を折って平伏した。藤内も慌てて膝を折って畳に額をつけた。

「二十年ぶりでしょうか」
「二十四年と三ヶ月と十二日ぶりです」
 若かりし頃の牧子を思っていた。楚々として賢く、美人で、従順な。自分と一緒になっていたなら、また別の年の取り方もあったろうかとあらぬことを考える。人は手と首に老いを隠せないとはよく言われるが、どんなものだろう、燈明を背にする暗がりでは、なんとも判じようがない。
 焼香を済ませたら手持ち無沙汰に苦しむことになる、そう思って構えていると、そんな気遣いなどさせぬ間合いで牧子は中座して、まもなく黒塗りの高坏を掲げて戻ってきた。白身の刺身が盛られた皿が一枚と、箸が一膳、朱塗りの銚子と重ねた盃が三枚。

「木舌と、最後に呑んでやってください」
 言われて一枚を牧子へ渡し、一枚を逡巡したのち牧子と自分のあいだの畳の上へじかに置き、順に注いでいった。

 立ち居のたび、焼香と樟脳と香水の綯い交ぜとなった匂いの底に、別の匂いを藤内は嗅ぎ分けていた。牧子の胸の谷間をいつも濡らした汗の匂い、あるいは念入りに洗おうとも鼻先で分け入る繁みの奥から絶えずしてくる血のような、生肉のような、鉄気の匂い。目にも鮮やかな半襟の白の合わせから匂い立つようでもあったし、帯より下の合わせから立ち昇るようでもあり、劣情の制御に長けて久しいはずの年齢の藤内が、激しく狼狽する。ここでにじり寄られでもしたら、とても抑え切れるものではないと目を瞑ると、果たして徐々に衣擦れが近づいた。

 帯を解く、着物を肌蹴る、等々の所作に精通するはずもない四十男が、旧友の棺の前でその細君とくんずほぐれつする光景たるや、おぞましさの極みだったろう。よほど女を手にかけるほうが、格好がつくというものだ。牧子は両手で顔を覆うほかは、されるがままである。恥辱に消え入りたいのか、遺影に顔向けできないのか、あるいは後ろ暗い期待に心ときめかすのか。唇を寄せ、吸い、絡ませ、分け入り、開かせ、大きく開かせ、鼻を這わせ、舌を這わせて……するうち、天井からなにやら走り回るような物音が立った。一匹二匹どころではない、女の昂りに合わせるようにして物音は激しさを増していき、頭上で踊り狂うような、太鼓をいっせいに打ち鳴らすような騒がしさに転じた。
「なんだ……」
 さすがに顔を上げるも、女は腰を浮かせて欲しがり、深い嘆息とも紛うような喘ぎを漏らした。

 一気に押し入ろうとしてたちまち遮られ、激しい痛みがそれに走って藤内はもんどり打った。暗がりに状態は判然としないが、血で膨張して硬直したそれの先端に擦過傷を得た模様で、拍動に合わせて血の噴き上がるのが見て取れた。慌てて周囲をまさぐり下着を拾うと血止めにして立ち上がろうとした藤内は、ふと見下ろした女の御陰から、なにやらはみ出すのを見た。女は中断されたのが不満なのか、いっそう腰を浮かせてくねらせるし、天井裏の乱痴気はとどまるところを知らない。恐るおそる手を伸ばすと、それは草の乾いた茎のようなもので、摘んで引っ張るも、抜ける気配は微塵もなかった。

 椋鳥(69)の体位を取って躍り上がる女のからだを押さえつけると、脚を極限まで開かせて左手でさらに剥き、再びそれを引っ張り出そうとしてびくともしないのは、どうやらなかでなにかが返しになっているよう。はみ出したものを一旦なかに押し込むと、ほとんど片手をなかに埋めるようにして探りながら、その形状に思い当たり、できるだけ穏便に取り出せるよう形を整えながら、慎重に慎重を期して押し引きを繰り返すも、やはりどうにもどこかで引っかかるのがもどかしく、とうとう力任せに引き抜いた。

 果たしてそれは、想像通りに藁人形。返しとなったのはその両腕。逆子のようになかに収まっていた模様で、藁のささくれが内側の粘膜を激しく傷つけたに違いなく、藁人形は全体鮮血に塗れていた。圧死、のふた文字が不意に浮かんで、藤内は戦慄した。ややあって御陰から、どろりとしたどす黒いものがひと塊り吐き出された。

 天井裏は嘘のように静まり返った。女の息遣いも寝息のように安らかである。じき屋根瓦を打つ雨音ばかり、男の耳を領していく。


 峠の旅籠の仕舞屋を出ると、来た道を辿り返したつもりが、いっかな麓に行きつかないまま空はようよう白んできた。雨は上がったが、辺りは霧が立ち込めて、そこはどうやら山懐深き幽玄世界。それは良き道ではなかった、と男は思い返す。あるいは良き道もまた、獣道に通ずる、ということか。男は腑抜けのようになりながら、沢の音を頼りに斜面をふらふらと降っていった。

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