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雲を飼う

 友人が旅先から送って寄越すのは、きまって広口の空き瓶だった。

 規格はまちまちの、ジャムだかピクルスだかの入っていたと思しき手のひらサイズの寸胴のガラス瓶で、わざとのようにラベルが完全には剥がされていなかった。ラベルの切れ端に残る、地震計で記したような文字やオニボウフラが整列したような文字を見るにつけ、ぼくは異国情緒というやつを堪能する。
 それだけでも、だからぼくには十分土産物に値した。送られてくる瓶のなかには、ところどころ緑がかったものがあったり、気泡まみれのものがあったり、厚みの一定しないものがあったりした。そうした「粗悪品」を含め、十を数えたところで、ぼくは二十センチ×百五十センチの板をホームセンターであつらえ、部屋の壁に棚をしつらえた。いまでは棚は三段になり、並べられた空き瓶の総数は、五十を数えるに至る。
 しかし友人の意図として、空き瓶そのものを旅先の記念に送るわけではなかった。同封の手紙には、日付と時刻とが走り書きされ、同じく乱雑に記された場所(カタカナだったりローマ字だったりする)のあとに「……の雲」ときまって結ばれていた。
 そう、どうやら友人は、旅先で雲をとらえ、それをぼくに送って寄越すらしいのだった。

 手紙に記された場所、それだけではおぼつかないとなれば、ラベルの切れ端や手紙の消印を頼りに、ぼくは三段の棚をメルカトル図法の地図に見立て、北回帰線から上の地域を上段、赤道付近を中段、そして南回帰線より下を下段として、送られてくる瓶を並べていった。
 友人の旅は、朝鮮半島を出発点として西進したから、おのずと上段が中央から左へ、瓶の並びは密になっていった。中段は、左端と中央と右端が順々に密になり、いまや彼の旅先は三段目にかかって、東端の南の大陸を制覇しつつあった。

 しかしそれにしても友人は、また突拍子もないことを思いついたものだ。雲の切れ端をちぎるか切り取るかして瓶に封印するなどということが、そもそも原理的に可能なのか。仮に霧に包まれたのを機に(霧だって立派な雲の一種だ)、金蓋を取った空き瓶を上下左右に舞わせて雲をなかにとらえたと称したところで、それは無数の微細な水滴をかき集めたに過ぎず、平地の気圧と気温の条件下でこれを受け取るぼくに、もとより雲を雲として観察する術などないわけである。だから結局のところ、ぼくは空き瓶そのものを異国からの土産として愛でるほかなく、また前にもいったとおり、それで十分だった。旅の先々で、雲を封印する。その「体(テイ)」というか、友人の志や良し、であったのだ。

 ところがである。
 瓶を棚に並べ始めてからしばらくして、不思議なことが起こった。それはとうに寝入ってまもない真夜中の折、不意の嵐の音と気配とにぼくは眠りを破られたのだった。ぼくはすぐさま枕の先にある窓のカーテンを開いて戸外を調べたが、もとより雨風はなく、隣家の庭木の梢は微塵も揺れずにいて、中天にかかったいびつな月に青白く照らされるばかりだった。それでもなお嵐の音と気配はやまず、それでスマホで寝入りバナに見ていた動画の止め忘れを疑ったが、そのせいでもなかった。と、視界の隅が光ったかと思うと、ほぼ同時にパチパチっとなにかの爆ぜる音が耳に立ち、見れば、壁に造りつけた棚の瓶のひとつが、なんとも騒がしいのである。寝床を這い出て覗き込めば、上段の中央よりやや左寄り、Lhasa(ラサ)と金蓋に油性ペンで記した瓶に漆黒の雷雲が充満して、雨が降りしきり、時折雷光が走って、そのたびにパチパチとかガラガラとか乾いた音を立てるのだった。
 思いついてスマホで世界の天気を調べてみると、いかにもラサは雨季にかかっていて、中央アジアを広範に亘って雲の帯が覆うのだった。ほかの瓶がシンと静まり返るなか、その瓶だけ悪天候に狂うようなのがぼくにはどうにも切なくて、それを手に取ると、ふたたび寝床に潜り込んで胸元に抱き寄せ、宥めすかしながら、いつか眠りの底へ沈んでいった。

 それからというもの、瓶のなかの雲たちは、次第にその存在を主張するようだった。Alsace で大風が走ると、Desa Sembungan に霧雨が立ち込める。とこうするうち、Swakopmund に竜巻が生じ、গোপালগঞ্জ জেলা の瓶がカチカチと忙しなく鳴って、どうやら雹の降るらしい。そうした表情を瓶たちが見せるのは、どういうわけかきまって深更で、おかげでぼくは慢性的な寝不足に陥るわけだったが、雨や風や雪や雹や竜巻といったあらゆる気象を夜毎宥めすかすことは、これ以上ないぼくにとっての慰めとなったのもまた事実。
 かくしてぼくは、雲を飼うことになるのである。

 南にある大陸の、東端を友人は制覇しつつあると先にぼくはいった。じつのところ、下段にかかってからというもの、友人からガラス瓶の送られてくるペースは、間遠になっていた。ペルーのLa Rinconada からの便りを最後に、かれこれ一年と音沙汰がない。どんなに間があったとしても、三ヶ月と空けることはなかったのに。ぼくは友人の身を案じた。五十にのぼる雲たちに、友人の安否を尋ねても、日中の彼らはうんともすんともいわない。そして夜は夜で、銘々勝手に泣き喚き、怒鳴り散らし、あるいは澄まして平然としている。

 冬になった。
 とある日曜の朝、ぼくは突き抜けるような蒼穹を仰ぎ見ながら、ある思いつきを実行する機は熟したのを、ひしひしと感じていた。しかしそこには、一抹の不安もなくはなかった。外来種をこの地に放つことにも似た、なんらかの均衡を破壊することになりかねないのではないかという不安、もしくは罪悪感。いや、雲とは微細の水滴の集まりに過ぎない。生まれた土地による固有の性質などあるはずもないのである。瓶に閉じ込められた雲ほどに、切なくも憐れで哀しい存在があっただろうか。友人から音沙汰のなくなったこの寂しさは、ぼくにとって、瓶のなかの雲という存在の寂しさそのものだった。しかるべく解放してやること。雲を飼い、雲を慰め、雲から存分に慰められてきたぼくに、せめて彼らのためにしてやれることがあるとすれば、それは、雲を空に返してやることの一事ではなかったか。

 ぼくはその朝、ささやかな庭の縁台に所狭しと瓶を並べると、手にしたものから順に、金蓋を外していった。隣りに住まう大家の老人が、生垣からこちらを覗いて挨拶をする。
「ジャムでも売るほど作るのかね」
 しかしぼくは笑い返すだけで、なにも答えなかった。置き場を持て余した金蓋をば、地面にじかに裏っ返しにして置いていく。
 全部で瓶は五十三あった。
 雲ひとつない冬のこの蒼穹に、中央アジアの雷雲がにわかに立ち込め、ナミブ砂漠の竜巻が起こり、あるいはバングラデシュの雹が降るものと密かに期待したぼくは、肩透かしを食らうことになる。雲たちは果たして解放されたのか。それすらもわからないまま、ぼくは一時間と縁台の端に座りついて、阿呆のように冬の空を見上げていた。

 年が明けて、二月。
 ほとんど雪の降らないこの土地に、珍しく積もるほどの雪が降った。それは翌日の昼過ぎまで降りやまず、ぼくはリモートで仕事をした。
 昼近くにインターフォンが鳴り、郵便屋からぼくは船便の荷を受け取った。差出人はかの友人だった。荷を開封したぼくは、箱の底に大事そうに新聞紙にくるまれた広口の寸胴のガラス瓶を見つけた。相変わらずラベルは、全部は取り除かれてはいない。同封された便箋には、雲を採取したと思われる日時と場所のほかに、伝言が添えられてあった。
「近々帰るとしよう。君に送った雲たちに再会するのが、いまから待ち遠しいよ」

 ぼくは窓から庭を眺めた。
 縁台に並べられた空き瓶は、ほとんどが雪に埋もれていた。地面に放置されたまま、二ヶ月を経た金蓋の錆具合といったら想像に難くないが、いまや完全に雪の下になって見えない。
 ぼくは、新たに送られてきたガラス瓶を下段の左端に置くと、寝台の端に座りついてぼんやりとこれを眺めながら、雲たちはきっと、友人を呼びに行ったのだと、そう独りごちて自らを慰める。







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